35. 過去を顧みて
エドワーズとキャロラインとの話が盛り上がっていると、すぐに夕餉の時間になってしまった。移動時間で2日と少しを費やしてしまったので、さすがに疲れが溜まっている。
アルシェスタは兄夫妻と別れ、自室へ戻ることになった。
1年半ぶりに踏み入れた自室は、しかし埃もほとんどなく、出たときの状態そのままだ。
家出娘の部屋など放置していていいだろうに、使用人たちが律儀に掃除をした痕が見える。部屋の隅にまとめられていた旅の荷物を適当に解いて、必要な資料やスケジュール表等を仕事用鞄に詰め込んで、勉強机の方へ運ぶ。
この勉強机は、ある意味でアルシェスタの忌むべき過去であり、しかし今こうして自由に動き回るための知識を与えるものでもある。
自分が癇癪を起こした結果、傷だらけになっている椅子の足を見つめながら、アルシェスタは息を吐き出した。
そこへ、ドアのノックがされて、アルシェスタは返事をする。侍女が二人やって来て、丁寧に頭を下げた。
「失礼いたします。お嬢様、夕食はこちらにお持ちしますか?」
親への反抗のため、アルシェスタは頑なに自室で食事を摂っていた。食卓へ運ばれるはずだった食事は小皿に取り分けられ、トレイに載せられて、食堂から離れたアルシェスタの部屋へ届けられていた。
キングレー伯爵邸の食堂は、五つある宮のうち、共同生活スペースにある。執務、居住、共同生活、来賓接待・宿泊用、美術品展示と、それぞれ役割が分かれていて、アルシェスタの部屋は居住スペースにある。
共同生活スペース裏にある厨房から、食卓へ運ぶときにはそれほどの労力は必要なく、出来立ての料理を出すこともできる。客人にもすぐに出せるよう、来賓接待・宿泊用スペースには直通の通路もある。
ただ、居住区にはそれがないため、渡り廊下を二本ほど超えて運ぶ必要がある。
無駄に広い自宅で、それをやろうと思えば、片道10分以上。
どう考えても無駄な労力である。アルシェスタは小さく息を吐き出すと、首を横に振った。
「食堂に行くよ。だから持ってこなくていい」
「え……」
「面倒でしょ。渡り廊下の段差結構あるし、ワゴン押してくるのもさ。スープとかあったらこぼさないようにしないといけないし。だから、いいよ。僕が食堂に行くから」
「お嬢様……」
目を潤ませて、侍女たちはアルシェスタを見る。その様子に、アルシェスタは眉を下げて息を吐いた。
過去を顧みれば、自分がいかに子どもだったかということが分かる。親に嫌がらせをしたくて、そのためだけに使用人の仕事を増やしていた。
居住スペースに小皿に取り分けたトレイを運ぶ、その徒労。食堂以外の場所へとワゴンを運ぶことを想定されていない造りの宮殿を、往復20分以上かけて食事を運ばされる使用人の苦労。
どう考えても時間の無駄だ。その20分があれば、使用人たちの仕事はもっと早くに片付くはずだ。
侍女たちに伝えてきて、と頼むと、世話役の一人を残して侍女たちは興奮したように部屋を出て行った。
職場で、なるべく効率的に、従業員を無理させないように、と振舞うアルシェスタにとって、自宅の使用人の時間を無駄にするのはあまりにもアホくさいと思ってしまった。あとは、両親が飯がまずくなるような話題をふらないように祈るだけだ。
嫌いな人間・苦手な人間と笑顔で食事をする機会なんて、王都にいれば腐るほどあった。それくらい我慢してみせる。そう思ったアルシェスタは、髪を結うためにドレッサーの前へ移動した。
すると、部屋に残っていた侍女が小さく声を上げたのを聞いて、アルシェスタは振り返る。
「どうしたの?」
「お嬢様、鏡が……」
「ああ。これね。結構便利なんだけど、鏡には映っちゃうみたいで」
鏡の中にいるアルシェスタは、赤色の髪をしていた。今、目に見えているアルシェスタの髪色は、淡い青のはずなのに。
どうやら侍女はそれに驚いた様子だった。
「幻影魔術って言ってね。水属性の応用である幻属性の魔術は、空間に作用するでしょ?」
「はい。うちの領地でも、色々と使われていますよね」
「主に景観とか、舞台演出とかにね。でも、僕のこの幻影魔術ってのは、水と闇の応用でね、纏うことができるんだ」
「纏う……ですか」
「そう。僕は今、その魔術を使って、髪色を元の色に見せかけているんだけど、この幻影魔術とか幻魔術ってのはさ、一つだけ弱点があってね。鏡には真実の姿が映っちゃうんだ」
鏡とは、真実を映すもの。幻や幻影は、鏡には映らないのだ。幻魔術は色々な悪だくみに使える魔術だが、こういった致命的な弱点があるので、注意が必要だ。今は髪色や瞳の色を変えるくらいがせいぜいだが、もう少し使い込めば、それこそ他人の幻影を纏うことすらできるかもしれない。
そうなれば、いくらでも悪用し放題だ。犯罪に使われればたまったものではない。
だから、幻属性の魔術は、鏡に真実が映るという一般常識は民間に浸透している。
鏡は、この国では歴史書の名前としても使われる単語だ。歴史書には真実しか記してはならないという戒めのためである。
ちなみに、アルシェスタがいつも使っている認識疎外用の道具もこの幻影属性にあたるものであるが、あれは色の属性も混ぜてあるため少々勝手が違う。鏡に映ったくらいでは元の色が分からないが、映す角度によっては瞳の色が変わってしまうため、鏡の位置を把握し、気を付ける癖はすでについていた。
「まぁ、魔術を維持する練習にもなるんだけど、皆びっくりしちゃうから解いちゃうよ。家に帰ってくる頃に赤い髪をしてたのは皆知ってるはずだから」
そう告げてアルシェスタがぱちんと指を鳴らすと、アルシェスタの淡い青色の髪は、一瞬で真紅に染まった。侍女が目を瞬かせて、そして瞳を輝かせた。
「こんな風にお嬢様は魔術を使われるのですね」
「うん。魔術ってすごく便利だよね。もっとこういうことを学びたかったな」
「……申し訳ございません、出過ぎた真似をしました」
「君が謝る必要はないよ。色々、悪かったね。変な八つ当たりみたいなの。君からしたら理不尽でしかなかったでしょ」
「そんなことは……!」
アルシェスタは侍女に歩み寄ると、そっと手を取って、自分の手をその上に重ねる。侍女は瞳を微かに揺らし、アルシェスタを見つめた。アルシェスタは朗らかに微笑むと、手を優しく握った。
「ありがとう、マリン。子どもの僕の願いを叶えてくれて」
「お、嬢様……私の、名前……」
「うん、覚えてる。流石に入れ替わりが激しい下働きの使用人の子たちは全然覚えられてないけど……侍女や侍従、執事やハウスメイドたちはたぶん、ほぼ」
「光栄です……お嬢様」
マリンという侍女はその場に崩れ落ちそうになりながら、涙を流していた。厳しくしつけられたアルシェスタと違い、彼女は涙を隠すこともできないのだ。泣きたいときに泣ける、けれどアルシェスタにとっては、それはとても良いことのように思えた。
「さて。僕、もう何年も向こうで食事を摂ってないから、夕餉の場所がよく分かんないんだ。案内してよ、マリン」
「かしこまりました! お任せください!」
アルシェスタはマリンに連れられ、定刻になると部屋を出て、食堂へ向かった。泣き喚いて、親を困らせることでしか自分の自尊心を守れなかった子どもの自分に別れを告げて。
◆◇◆
食堂に姿を現したアルシェスタを迎えたのは、着飾った母の姿だった。若作りな母は、金色の髪を華美な飾りで留め、淡い青色の瞳を真ん丸にして、アルシェスタを見つめていた。
「シェス……」
「……なんだよ。じろじろ見んなよ」
先ほど、部屋で朗らかに侍女を労っていた主の姿はどこへやら、やはりアルシェスタは両親を前にすると、急に子どもになってしまう。貴族の娘らしくない言動だが、それを無暗に咎めると悪化することを、リナーシェも分かっていた。
アルシェスタはそのまま、大股で歩いて、マリンが引いた椅子へと腰を下ろした。マリンは急激に機嫌が悪くなったアルシェスタにはらはらしている。
先に席についていたリナーシェは何か言いたげに口を開こうとするが、どうしても言葉にならずに飲み込んでしまう。そうこうしているうちに、グレインがやって来た。
「おや。シェスを食堂で見かけるのは何年ぶりだろうか」
「僕の記憶にある限り、たぶん6年ぶりくらいだよ、レイ兄」
「そうだったか。どうかな、6年ぶりの食堂は」
「何か絵、増えたね。全体的に色彩が増えた」
「3年ほど前に、国外の高名な芸術家が訪問されたんだよ。その時に贈ってくれた絵が何枚か増えてるね」
「なるほど。だから、キングレー伯爵領内の自然の絵なんだね」
「ああ。あっちは瀑布で――」
「こっちは海辺の方だよね」
アルシェスタとグレインは、ごくごく普通に話している。その様子に物欲しそうな瞳を向けるリナーシェを無視して、アルシェスタはグレインと会話を続けている。結局、リナーシェは軽い相槌を打つだけにとどまってしまった。
話しかけたい。自分の知っていることを、アルシェスタに教えてあげたい。そう思っていても、自分が口を出せばアルシェスタは不機嫌になってしまう。グレインと楽しげに話している時間を、無駄にしてしまう。
「おや。シェス、珍しいね。今日は食堂で食事を摂るのかい」
「エド兄。キャロル義姉様と一緒にご飯食べないの?」
「私の顔を見ながら食べるとまずくなるから遠慮するそうだ」
「そうなの。じゃあ僕がキャロル義姉様のとこいこうかな~」
「やめたまえ。シェスがいるとキャロルは集中できなくなる。今は食事も少しきつい期間だからね。そっとしておいてやりなさい」
「はーい」
そうこうしているうちにエドワーズも合流し、そしてその後にグレッグもやって来た。リナーシェは驚いたが、恐らくはアルシェスタが食堂で食事を摂ると聞いて、起き上がってやって来たのだろう。
実に6年ぶりに食堂に、家族全員が揃った形になった。通常の家庭にとっては珍しくはない、しかしこの家に関しては珍しい、家族全員での晩餐会が始まったのだ。




