32. 他家のような実家
過労で倒れたのは、なるべくしてなったことだったのかもしれない。
キングレー伯爵は、領地で業務に追われる中、騎士団からの連絡を受け取った。それは、王都に単身出て、学院に通う娘が、何者かの謀略によって強盗に襲われ、命を狙われかけたという。
幸いにして強盗が素人で、護衛についていた侍女が手練れだったため、アルシェスタには怪我がなかったとのことだったが、その話を聞いて、一家は大慌てだった。
とにかく情報を、王都に向かう準備を、と慌ただしく動いている中、王都に向かっている道中で、犯人の一味が捕縛されたという情報が早馬で飛んできた。
そしてその最中、いちばん知りたくなかった――見つけていたのに、目を背けていた事実を指摘されて、伯爵はこれほどまでに今までの自分に後悔を抱いたことはなかった。
アルシェスタ本人から、犯罪に巻き込まれたので手を貸して欲しいと、頼まれなかった。
親であるというのに、頼ってすらもらえなかった――。
「親父は僕のこと助けてくれたことなんて一度もないじゃん。母さんの虐待を訴えても笑って受け流して、一度も助けてくれたことなんてなかった」
キングレー伯爵の脳裏に、幼いアルシェスタの姿が過る。目を真っ赤に泣きはらしたアルシェスタは、何か恐ろしいものから逃れるように父の執務室へ飛び込んできては、足に抱き着いて癇癪を起こした。
『おとうさま! たすけて! もうイヤッ! おかあさまのきょういくはイヤッ!』
先代が引退し、領主として本格的に業務に追われ始めた伯爵に、心の余裕はなかった。自分の髪色と、中世的な美貌を受け継いだ娘はとてもかわいかったが、構ってやれないのは事実だった。
妻からは、少しばかり我儘だが、いい子に育てると力説されていた。妻は、ずっと娘の話をしている。どれほどまで、彼女に愛を注いでいるかがありありと分かるようだった。
だからこそ、伯爵は妻を嗜めるのではなく、娘を宥めることにした。
『おかあさまは教育熱心だからね。娘ができて嬉しいんだ。分かってあげなさい』
目を逸らした。そう告げたときの、アルシェスタの絶望した昏い瞳から。
『それに、おかあさまが厳しいのは、シェスが言うことを聞かないからだよ。きっと将来役に立つことだから、ちゃんと身につけておきなさい』
目を逸らした。アルシェスタが泣き叫んでいる、その元凶から。
『旦那様――お嬢様、が』
執事のマシューが、言いづらそうに告げた言葉に、伯爵はペンを取り落としてしまった。急ぎ執務室を出て、自室で泣き崩れている妻の元へ向かった。
そして、初めて知ったのだ。妻が娘にしていた教育の内容を。
その日以来、アルシェスタは、二度と親の言うことを聞かなくなった。
◆◇◆
「シェス……帰って、来てくれたのか」
「なに? 帰ってきて欲しくなかった? じゃあ、僕もう王都に戻るけど」
「ち、違う! もっと近くに来て、顔を見せてくれ」
アルシェスタが身に着けているのは、庶民が着るようなものだが、それなりに質のいいワンピースだった。今は下ろされている髪は、少し短くなっている。肩の少し下まで伸びていて、毛先が少しだけ内側に向いている。
領地にいた頃、反抗期を迎えてからは、一度も女性らしい装いをしてくれなかった。だから、アルシェスタが少女らしい装いをしているのが、何だか新鮮に感じられる。
アルシェスタは呆れたように息を吐き出した後、部屋の中へ歩いてくる。執事が椅子を用意して、ベッドの枕側に置いた。アルシェスタはそこに腰かけると、不機嫌そうに顔を顰める。
「シェス……」
「……うざ」
「……」
「言いたいことがあるならさっさと言えよ」
身も蓋もない言葉。苛立ち、怒り、それと戸惑い。
両親への信頼を失った娘の言葉に、温かみは一つもない。
それでも、伯爵にとっては、自分が倒れたという報せのすぐ後に、娘が遠い王都から帰省してきてくれたこと。
それは、今までの関係を改善するための、アルシェスタの大きな歩み寄りだと、そう思わずにはいられなかった。
「……王都での暮らしは、どうだい?」
かろうじて絞り出した言葉は、アルシェスタの近況を訪ねるものだった。
伯爵はもちろん、アルシェスタが商会を立ち上げ、王都で商売に駆け回っていることを把握している。そこで、彼女がどんな立ち回りをしているかも。
髪を染めたことも知っていた。青い髪を、赤く染める――まるで、キングレー伯爵家の子であることを拒否するかのようで、それを知ったときには悲しみに暮れた。
しかし、報告書に書かれているアルシェスタの姿は、それこそ領地にいては一生見ることのできなかったほどに、開放的で生き生きしているようだった。
「満足してるよ。領地にいるうちも、これくらい街で動き回れれば、きっともっと早く面白いものに出会えたんだろうけど」
アルシェスタは、母親に街に出して貰えなかった。領都には娯楽が満ちている。自制の気持ちを芽生えさせる前に、娯楽に触れさせればきっとアルシェスタはダメになる。
そういう気持ちから、母親は頑なにアルシェスタに色々な世界を見せることを拒み、宮殿内でアルシェスタの世界が完結するようにした。
けれど閉鎖された世界で、思考も行動も自由を奪われたアルシェスタは、精神の成長が著しく遅れていた。
「自分で考えて自分で行動して、そういうことができる幸せを噛みしめながら生きてる」
「……そうか。学院は?」
「二割くらい休んでる。行かなくていいし。10歳の時に習った内容しか出てこない」
「……そう、か」
アルシェスタの口から出てくる言葉は、全て領地での暮らしを疎む言葉だった。
行き過ぎた教育の内容を伯爵が初めて把握したとき、妻に苦言を呈してしまった。王立学院の教育課程を先取りした教育は、10歳の頃には全て完了していた。歌、楽器、ダンス、絵画、刺繍、茶、花、社交マナー――このうち、貴族女子の教育に必須なのは、ダンスと茶と社交マナーくらいだ。全部をやる必要はないし、それ以外の習い事については、娘と相談しつつ、講師を雇って進めるものだ。
キングレー伯爵家の豊富な財産は、国の各地から選りすぐりの講師を集めることが可能だった。休憩時間もほとんどなく、アルシェスタの都合などまるで無視で、講師の都合に合わせたスケジュールは、伯爵が見てもぞっとするような忙しさだった。
妻が教育に拘る理由は何となく察しがついているのだが、それにしたってやりすぎだ。むしろここまでもったぶん、アルシェスタは我慢強かった。
(いや――我慢強かったのではない。誰も、助けてくれなかったから、耐えざるを得なかっただけだ)
その手を振り払ったのは誰だったのか。自らの行ないを顧みて、伯爵は悲痛な表情を浮かべる。
「ご歓談中失礼いたします。お嬢様、滞在のご予定はいかほど?」
「三日。それ以上は無理。王都に戻らなきゃいけないから」
「かしこまりました」
執事の問いかけにも事務的に答えるアルシェスタは、帰るべき場所が王都のようだった。実家でありながら、まるで他家に外泊にやって来たかのようなアルシェスタは、確かにこの家の住人というには浮いていたように思えた。




