31. 望まない帰省
支配人室に静寂が満ちる。同席していたエリーゼ、ヴィンスは驚いたような表情を浮かべた後、ゆっくりとアルスに視線を向けた。
しかし、アルスはこくりと頷くと、ただ一言。
「そう」
とだけ告げた。驚いたのはヴィンスで、予想の範囲内だったのか、目を伏せて悲痛な表情を浮かべるのはエリーゼとエリーラだ。
アルスは数秒だけ手を止めたのち、そのまま話を続行しようと口を開く。しかし、思わずといった様子で、ヴィンスに止められる。
「社長。会議どころでは……」
「……なんで?」
「だ、だって御父上が倒れて……」
「それが、なに? ただの過労でしょ?」
アルスの表情は冷めきっていた。ヴィンスはそれを見て、微かに身じろぐ。
何となく、アルスと両親の間に何かしらの確執があるのだとは察していた。アルスに伯爵夫妻の話を振ると、大抵反応が悪く、話題を自然と逸らされる。
それほど周知されていないことだが、アルスは領地から一人で出てきて、王都で生活をしている。学院を卒業していない貴族の子女ならば、立派に「出奔」「家出」とみなされても仕方のない行為である。父母とまでは行かなくとも、兄弟のいずれかが監督したり、傍系のいずれかの家に滞在したり、というのが通常である。
「領地には兄が二人もいる。母もいる。僕にできることなんて何もないよ」
「ですが……」
「……はぁ。とりあえず、会議終わらせていい? 話ならその後にしよう」
飽くまでも優先順位を変えないアルスの態度に、ヴィンスはもやもやを抱えながらも、話をするためには仕事を終わらせなければならないことを理解する。
明日からの業務について詳しい説明を終えて、会議は終了となった。アルスは疲労したように、茶を喉に流し込んだ。
「社長――いえ、キングレー嬢は、領地にお戻りにならないのですか?」
「何で?」
「御父上の過労の報もありましたし、夏期休暇中です。帰省なさって、お顔を見せて差し上げた方が、伯爵も安心されるのではありませんか?」
「必要ない。仕事も詰まってるし、そんな時間ない。僕には成すべきことも、成したいこともある。無駄な時間は使ってられない」
「無駄って……」
頑なな態度を崩そうともしないアルスを見て、ヴィンスは何となくらしくないな、と思った。
アルスは確かに、ヴィンスが持っていた以前のイメージ通りの人物ではなかったのかもしれない。誰にでも分け隔てなく優しく、聖人のような人間でないのは分かっている。けれど、それでも不義理はしない人だと、そう思っていた。
父が過労に倒れ、遠く離れた領地から家に伝えられたのならば、それは帰ってきて欲しいという願いではないのだろうか。本当に大したことがないのならば、領地で情報が止められるはずだ。
それが王都に届いたのならば、アルシェスタに帰ってきて欲しいというメッセージだ。彼女がそれを察せないことなどありえない。
それに、なによりも、父が倒れたという部分に対して、ヴィンスの心はひどく切なくなった。胸の中をどろっとした感情が這う。
父のことを想い、ここで背を押さねば後悔するという感情が、ヴィンスを衝動的に突き動かした。
「キングレー嬢。どうか、領地に戻ってください。エリーゼさん、仕事に都合はつけられませんか」
「ちょっと、何勝手に」
「――。問題ありません。私とヴィンスさんが手分けをすることによって、十分にカバーできる範囲かと。ファッションショーが終わったことにより、お嬢様にしかできない仕事はほとんどありません」
「分かりました。社長が行なう予定だった接待等は僕が受け持ちます。ですので、何とかキングレー嬢が帰省できるスケジュールを組んでいただけませんか」
それに対して、アルスはエリーゼを睨みつけると、口を開いた。
「エリーゼ。君の主人は誰?」
「それはもちろん、お嬢様でございます」
「だったら、グラッセ卿の命令は聞かないで。優先順位を間違えるな」
何もおかしいところはない、部下の越権を訴える謗りに、しかしエリーゼは少し呆れたように息を吐いた。その態度も、アルスをやや不満げにさせる。
「キングレー嬢。世の中に、絶対というものはありません」
「……何の話?」
「たかが過労、されど過労。明日も、明後日も、その先も――御父上が無事である保証など、何もないのです」
「……」
「どうするんですか。もしも、御父上が儚くなったら。話しておけばよかった、話さなければならないことがあった、そんな風に後悔しませんか」
「……別に、僕は……」
「僕は、たくさんあります。父上と、こんなことを話したかった。話しておけばよかったって思うこと。たとえば、この商会に拾っていただけたこととか」
ヴィンスの声は、微かに震えていた。その様子を見て、アルスは目を丸くした。気づかわしげに、唇が引き結ばれて、その先は言葉にならなかった。
ヴィンスはそんな様子のアルスを見やって、悲しげに微笑んだ。
「どうか、お願いです。未来の側近の諫言を、受け取っていただけませんか」
ずるい、とアルスは小さく口の中で呟いた。あんな顔をされて、アルスが断れないことを知っているのだ、この男は。
彼の悲痛な面持ちは、今にも泣きだしてしまいそうで、アルスは喉元まで出かかっていた否定の言葉を飲み込んでしまった。
およそ十数秒間、気まずい沈黙が続く。しかし、アルスはやがて息を吐き出して、エリーゼの方を向いた。
「エリーゼ、調整を」
「かしこまりました。ただちに手配します」
「エリーラ、先に家に帰って旅支度を。早馬使うから、軽装で」
「かしこまりました」
エリーゼは手帳を開いてペンを取り出し、エリーラは一礼をして、この場を辞した。
自分の言葉が届いたのだと知り、ヴィンスはほっと息を吐き出した。アルスの横顔は、少しだけぶすっとしていたが。
かくして、アルスにとっては望まない形ではあったが、急遽帰省することになった。
領地までは、馬車で三日。そしてそこから、魔導機関車に乗り換えて十数時間。
長い旅路だが、馬を乗り継いでいくことで、その道程を少し短縮できる。アルシェスタは軽装に着替えを終えると、赤い髪を結って、明朝に王都を発った。
伴は護衛騎士が数名のみ。地方の領主の子として、乗馬は幼いころから十分に仕込まれている。早馬を自ら乗り継ぐことくらい、訳はない。
王都を出て、一日。サンチェスター侯爵領に入ると、一直線に領都を目指す。中継所を経由して馬を乗り継ぎ、馬車なら三日かかる旅程を短縮したのち、サンチェスター侯爵領の領都で一泊をして、翌朝の魔導機関車に乗って、キングレー伯爵領へ向かった。
黒塗りの鉄の箱は、火と水の魔術を応用し、魔導蒸気というものを生み出し、その力によって車輪を回す。幼いアルシェスタが、トロッコを見て「ぽっぽー」と鳴きながら、落書きをしたのをきっかけに発明することになったと聞いたことがあるが、残念ながら覚えていない。
しかし、多くの人を乗せられるトロッコというアイデアはエドワーズの中でかなり画期的だったらしく、アルシェスタのぽっぽーという謎の擬音からヒントを得たと言って、国では使われていなかった蒸気機関という動力をあえて採用したそうだ。
黒鉄の槍は、線路の上をすさまじい早さで駆けていく。サンチェスター侯爵領の領都から、キングレー伯爵領の領都まで、ほぼ最短距離を繋いだ線路の上を穿っていく。
長いトンネルを超えて、晴れた景色の向こうには、まだ手付かずの自然が大量に残されている。人が暮らせない、険しい自然。それはある意味で、都で暮らす人にとっては非日常的な光景だ。
草原、湿原、瀑布、密林――それらを超えた先、切り立った崖の中に、欲望の都はあった。
キングレー伯爵領領都、ヌーベル・リュンヌは、明らかにそこだけ、現実と切り離された煌びやかな都だ。
魔導機関車が大きな音を立てて、駅へと収容されていくと、アルシェスタは一般車両から軽やかに飛び降りる。軽装をして赤い髪を結い、伊達眼鏡を掛けたアルシェスタが、貴族であると気づく者はほとんどいない。一般車両に紛れて――護衛騎士たちも、目の届く位置に点在して――乗車していたことで、面倒な手続きを纏めて省略した。
機械仕掛けの領都を見上げて、アルシェスタは小さく息を吐き出した。一年半ぶりの領都は、改修や新築の施設が少し増えた以外は、何も変わっていない。
魔導機関車の理論を応用した、路上列車に乗り込んで、アルシェスタはキングレー伯爵邸に向かう。夏季だからか、人通りも多い。キングレー伯爵領に、夏の余暇を過ごすために訪れている人は多いのだ。
キングレー伯爵邸がある山のふもとで路上列車を降りると、昇降機に乗って、山を登る。堅牢な自然の要塞に守られた宮殿は、贅の限りを尽くした、キングレー伯爵家の栄華を可視化したもの。
巨大な門の向こうに広がる、エルデシアン城レベルの広さを誇る宮殿を見やりながら、アルスは門へと近づいた。
門を守る衛兵が、槍を交差させて声を上げる。
「止まれ! こちらは領主、キングレー伯爵邸である。許可なく通すことは」
アルスは指先で伊達眼鏡を取り去ると、衛兵に微笑みかける。
「一年半ぶりに帰って来たから、もう顔を忘れちゃった?」
すると、衛兵たちは目を瞬かせた後、喉の奥で小さな悲鳴を上げて、ただちに槍を引いて、背筋を伸ばした。
「ア、アルシェスタお嬢様!?」
「し、失礼いたしました! お帰りなさいませ。直ちに本邸から使いを来させます!」
衛兵が敬礼を返して、屯所の中へ引っ込んでいく。窓からちらりと様子を見やれば、EL-Phoneを使っているようだ。
「EL-Phone、領地内で使ってるんだね」
「は、はい。本邸に連絡を取るのに大変重宝しております! 時間も手間も半分以下で」
「それは何より。エド兄も喜ぶだろうね。こういう手間を削減するために発明したわけだから」
「本邸は遠いですから、連絡のために馬を走らせても、行って帰っての手間がありますからね」
やがて、馬車が一台、門の向こうからやってくる。馬車のドアが開くと、そこには老齢の執事の姿があり、彼はアルシェスタの前まで歩んでくると、優雅に一礼をする。
「アルシェスタお嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいま、マシュー」
「先触れをいただければ、駅までお迎えに上がりましたのに」
「強行軍だから時間がなかった。家に帰るのに先触れってのも変な話だし――まぁ、僕が帰ってくるなんて思ってる人間も、この家にはいなかったんだろうけど」
「そのようなことは……お嬢様、帰って来てくださり、本当にありがとうございます。旦那様もお喜びになります」
マシューという老齢の執事がそのまま泣き出してしまいそうだったので、促して馬車の中へ入り、本邸へ向かう。エントランスに入れば、中は慌ただしい気配で満ち溢れていた。侍女やメイドは忙しなく駆け回り、侍従たちも急ぎ廊下を歩き回っている。
家出娘が突然何の先触れもなく帰ってくると、この広い宮殿はこうなるらしい。そんな様子を、アルスはぼんやりと眺めていた。
「お嬢様。それでは、いったんお召し替えを――」
「いいよ、このままで」
「ですが……」
「これで僕の格好を詰るようなら元気だろうし、見舞いは必要ないでしょ。そしたらそのまま帰るよ。今から駅に行けば、最後の便には間に合うし」
マシューは困った顔をしていたが、アルシェスタが言うことを聞かないことは分かっていたので、機嫌を損ねてやっぱり会わずに帰ると言われるわけにはいかなかった。アルシェスタが帰ってきたとの報が届いたとき、伯爵はしばらく現実を理解できないかのように呆けていた。夫人はすぐに自分付きの侍女を招集すると、気合を入れて着替えを始めていた。
この屋敷の使用人たちは、皆予感していた。主人夫妻とその娘との間にある、幼いころからの確執が、好転する機会なのではないか、と。
赤いカーペットが敷かれた廊下を歩き、伯爵の私室へと辿り着くと、アルシェスタは何の躊躇いもなくドアを開けた。ベッドには少しやつれた様子の伯爵が横になっていて、枕の傍には次男であるグレインの姿がある。
アルシェスタは父の姿を見やると、小さく息を吐き出した。
「何だ。やっぱり大したことなさそうじゃん」
「……シェス?」
「なに? 髪の色が変わったら、娘のことも分かんないくらいになっちゃった?」
アルシェスタは髪を結っていた紐を外すと、ぱちんと指を鳴らした。その瞬間、赤かった髪は、元のアルシェスタの色である淡い青色へと変わっていく。奇術か、幻術か――その類としか思えない光景を目にしたが、ドアのところに立っているのが間違いなく自分の娘だと認識すると、伯爵は目から静かに涙を流した。




