30. ハッピーバースデーと突然の報せ
アルシェスタは、サンチェスター侯爵邸を訪れていた。エリーラが少し気を遣っておめかしをさせたのは、今日がイルヴァンの特別な日だからだ。
夏の暑い季節、イルヴァンはこの世に生まれ落ちた。つまり、今日はイルヴァンの誕生日である。
この国には、誕生日に夜会をする文化は王族にしかない。それかもしくは、殊更に両親に愛されている貴族の子女か――。
10歳まで、毎年、アルシェスタの誕生日パーティーが催されていたことを考えると、何とも言えない気持ちになる。
サンチェスター侯爵邸に着くと、そこには同じように盛装をして着飾ったイルヴァンの姿があった。イルヴァンはアルシェスタの姿を見つけると、温和な笑顔を浮かべて歩み寄ってくる。
「シェス。なんか、久しぶりだな」
「そうですね。夏期休暇に入ってからは、都合がつかないことが多くて、会えない日が多かったですから」
「それについては、先触れを出さずに屋敷を訪ねる俺が全部悪いから、シェスは気にしないで。忙しそうだな」
「ええ。……父に認めさせるために、色々こちらでもやれることをやっているので」
イルヴァンが差し出した手に、アルシェスタはそっと手を乗せる。穏やかな昼下がりのサロンには、夫妻の姿はない。
二人は理解していた。自分たちがいると、アルシェスタが微妙な顔をするのを。
実の父母に対してとは違い、アルシェスタはサンチェスター侯爵夫妻には特別嫌悪感を出したりはしない。
だが、嫁入り先の家に対する態度とは思えないほど、アルシェスタからサンチェスター侯爵夫妻に対する態度は淡白である。
嫌悪はない。ただ、興味がない。必要なことは話すし、物腰も柔らかいが、貴族の娘としての態度も崩さない。
尊重はするが、家族として受け入れられない。そんな様子だった。
目の前には紅茶と、おいしそうなケーキのタワーが置かれている。アルシェスタの目は、自然とそのケーキに釘付けになる。
甘い物が大好きなアルシェスタのために、イルヴァンはいつもお茶会の際にはこうやって、大量のお菓子で機嫌を取る。
「最近、騎士団長の奥さんから、おすすめのパティスリーを教えて貰ってさ。せっかくだから取り寄せてみたんだ」
「まぁ、こんなに? イルヴァンのためのパーティーですのに」
「俺も甘い物は嫌いじゃないし、シェスが美味しそうに食べてるのを見てるのがいいんだ」
「では、遠慮なく……いただきます」
アルシェスタは優雅な手つきでケーキを取り分け、綺麗にフォークで切り分けて口へと運ぶ。
クリームの甘味、フルーツの酸味、スポンジの食感――すべてが口の中で調和し、アルシェスタの味覚を刺激する。
「今日は大丈夫だったのか? 用事とか」
「毎年、この日はちゃんと空けております。婚約者の誕生日にまで、忙しなく動いているわけではございません」
「そっか。俺も、今日はちゃんと休めって言われてるんだ。だから今日は一日、一緒にいられるな」
「イルヴァン、遠征に行ってきたんですよね。どうでしたか?」
イルヴァンは夏期休暇に入ってから、もうすでに一度の遠征討伐を終えている。確か、耳に入れた情報によれば、ラヴァード王国との国境の方面だ。
彼は軽く肩を竦めると、遠い目をするようにぼやいた。
「大変だったよ。なんせミドガルズオルムが出たんだから」
「ミドガルズオルム……確か、沼地に出る変異種の蛇の魔物ですよね」
「ああ。すごくでかいんだ。熊でも丸のみ出来そうなほどに」
「想像もつきません。熊を丸のみって……」
「最初はバジリスクの退治って聞いてたんだけど、蓋を開けてみればそのバジリスクの群れを率いてたのがそのミドガルズオルムでさ。大変だったよ。倒しても倒してもわらわら湧いてくるんだ。蛇嫌いの人が見たら卒倒するくらい」
想像をして、背筋にぞぞっと悪寒が走った。蛇に対しては何も思うところがないが、それが視界を埋め尽くすほどに蠢いていたら、誰だって嫌悪感を感じるだろう。
ふと、使用人が胡乱な瞳をイルヴァンに向けていることに気が付く。確かに、貴族の娘との茶会の話題に出すようなことではないかもしれない。イルヴァンはそのあたりの気遣いに関して鈍感だが、アルシェスタは気にしないので、いつもの日常会話のように話す。
「怪我は?」
「大丈夫。勿論、無傷とはいかないけど、うちの治療班は優秀だから、軽い切り傷や毒にはすぐに対処できる。死人は出なかったよ。夏期休暇中休養を申し付けられた部下はいたけど……」
「そうですか……」
「やっぱり、心配?」
イルヴァンの問いかけに、アルシェスタは俯いた。
イルヴァンが騎士団に入り、魔物を狩る第三騎士団に属したとき、アルシェスタは不安で仕方がなかった。生傷が絶えない現場、危険と常に隣り合わせで、常に命を賭けなければならないほどの戦場。
幼いアルシェスタが、イルヴァンが二度と帰って来なかったらどうしよう、と不安になるのは当然のことだった。
事実、イルヴァンが大怪我をして、丸三日熱を出して寝込んだことがあった。その時、アルシェスタはずっとイルヴァンに縋りついて泣いていた。
優しい兄がいなくなったら嫌だ。一人ぼっちは怖い。アルシェスタにとって、この地上で一番信用できる人間である、イルヴァンを失うことなど考えられなかった。
目が覚めた時、涙でぐちゃぐちゃにした顔で自分に縋りついてくるアルシェスタを見たとき、イルヴァンはこのまま第三騎士団に身を置くか、三日三晩悩んだ。
けれど結局、彼は困っている人を見捨てられなかった。その選択も、イルヴァンらしいと思った。
今ではかなり技術も上がったイルヴァンは、遠征の度に大怪我をするようなことはなくなった。それでも、無事に帰ってくることは絶対ではない。
その不安を紛らわせるように仕事に埋没しても、ふとした瞬間に、イルヴァンが無事だろうかと頭に過る。
「心配は、心配です」
「ごめんな。でも」
「分かってます。イルヴァンの気持ちは。ですから、ちゃんと帰って来てくれるなら、私から言うことは何もありません。気を付けて、行ってきて欲しいです」
「ありがとう、シェス。勿論、俺だって死ぬ気はないよ」
イルヴァンはアルシェスタの隣に移動すると、その肩を抱き寄せて、アルシェスタの頭を胸のあたりに引き寄せる。そしてその頭の上に、自分の頭をもたげる。
いつもは我慢している、「妹」に対するスキンシップだ。
「黒嵐はお元気ですか?」
「元気すぎて、いつも暴れてるよ。最近はだいぶ落ち着いたと思ったんだけど、強い魔物を見ると興奮しちゃうみたいでさ」
「魔の血を持つ馬、ですからね」
数年前の誕生日、アルシェスタはイルヴァンに漆黒の馬を贈った。国外から取り寄せた最高峰の血筋の馬は、魔物の力を持つとんでもない名馬だ。足腰は強く、持久力も高く、気性は荒いがどんな地形でも軽々と駆けるその馬は、いつもイルヴァンを背に乗せて魔物討伐に赴いている。
その馬の値段が、まだ金銭感覚を身に着けていなかった頃のアルシェスタが選んだ贈り物のため、今考えると婚約者に贈るにしても法外な値段だった。それを娘の機嫌を取るためにポン、と出してしまった伯爵家の財政は潤っている証拠でもあった。
以来、イルヴァンが何かと貢いでくるのが少し複雑な気分だ。気を遣わせてしまったのは自分の落ち度だった。
「まだ現役なのに、種馬になって欲しいって色んな人に言われる。魔の血だから、普通の馬と掛け合わせるのは危険だと思うんだけど」
「そうですね。幼少期から魔力を含んだ餌で鳴らした馬じゃないと、なかなか繁殖は厳しそうですが……」
「うちの隊でも、俺よりいい馬に乗ってる奴はいない。ほんと、何度も俺や仲間の命を救ってくれた英雄だよ、黒嵐は」
「良かったです。少しでも、危険は減らしたいですから」
アルシェスタは胸の前で手を組んで、小さく深呼吸をする。それを見やったイルヴァンは、大きな手でアルシェスタの小さな手を覆うと、何度か逡巡した後、それを伝えた。
「――明日から、もう一回遠征に行くことになった」
「……」
「ドラゴンが、出たらしい」
「ドラゴン……っ!?」
ドラゴン。それは、歩く災厄。
鉄のように固い鱗と、岩を噛み砕く牙、腹の内に灼熱の炎を生み出す袋を持つ、爬虫類が進化したような魔物だ。
「ちょっと前に話したことあったけど、ほら。生態系が変わってるって話」
「はい。まさか、ドラゴンの影響で?」
「ああ。山奥の魔物たちが、ドラゴンに追いやられて里に下りて来た。それが疑似的な大量発生みたいになってたみたいなんだ」
ドラゴンは生態系の頂点に立つ生物である。討伐には、精鋭の小隊が十数隊以上必要で、犠牲なしに討つのは難しいとされるほど。しかし、討たなければ、今度は近くの村や町が滅ぼされる可能性がある。それくらい危険で頑丈な生物だ。
「まだ巣ごもり期だから、今を逃したら討伐に多大な犠牲が出る。やるなら今しかないんだ」
「そう、ですか。ドラゴン……」
「俺も、生きてるうちにドラゴンを討伐することになるなんて思わなかったよ。でも、結構侯爵領に近いところなんだ。放っておくと領民に被害が出るかもしれない」
「討伐には、かなりの人員を割くのですよね?」
「ああ。第四以降の騎士団からも、精鋭部隊をいくつも連れて行く。斥候から討伐隊まで全部で25小隊と、第三騎士団は全団員で出撃する。国王陛下がこの件を重く見ておられた。騎士団には協力を惜しまないようにと通達があった」
軍から精鋭部隊が送られるのならば、ひとまず人手不足で割りを食うことはなさそうだ、とアルシェスタは胸を撫で下ろす。第四騎士団以降の騎士団には、自分の手足を無暗に失いたくないという身勝手な理由で、出撃を渋る無能もいるという。さすがに、そのような人物も国王からの勅命には逆らえないだろう。
「短期決着だから、二週間後には帰還予定だ。サマーパーティーには間に合うな」
「サマーパーティーには、さすがに出ないと怒られますか。ドラゴンの討伐なんて大義の後に、夜会とはと思いますが」
「ああ、王家主催の夜会だから、流石に出ないとまずいだろうな。ドラゴン討伐が上手くいけば、陛下から騎士団を労う式典が挟まるから、俺はたぶん参加しろって言われるだろうし」
サマーパーティーは、夏期の社交シーズンのいちばん大きな夜会だ。国中から貴族が集まってくる。
ここに出なければ、社交界においてほかの家に一歩遅れてしまうとも言われるほど、国内でも重要な夜会の一つだ。恐らく、父母もこのときばかりは王都に出てきて参加するだろう。
「ちゃんと帰って来て、シェスをエスコートするから。だから、いい子で待ってるんだぞ」
優しい声が、耳元で響く。こうやって、優しい兄はアルシェスタの不安を何気なく拭っていく。
そんな風に言われては、アルシェスタは頷くしかなかった。髪を留めている、イルヴァンから誕生日プレゼントに貰ったバレッタがかしゃりと音を立てて揺れる。
アルシェスタはしばらくイルヴァンと身を寄せ合った後で、そっと体を離し、エリーラを傍へと呼ぶ。エリーラから一つの高級な箱を受け取ると、それをイルヴァンへと差し出した。
「イルヴァン、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう、シェス。開けてもいいか?」
「はい、もちろん」
イルヴァンはアルシェスタから受け取った箱を、丁寧に開く。箱には、ネクタイピンが入っていた。
イルヴァンが贈ってくれた、アルシェスタのバレットと少しデザインを寄せてある。イルヴァンがアルシェスタの好みに合わせて、自分の好みの意匠を取り入れた贈り物をくれたように、アルシェスタもイルヴァンの好みに、自分の好みの意匠を取り入れたネクタイピンを贈った。
イルヴァンは、そのネクタイピンを取り出して、光に翳す。きらりと煌めいた宝石が、イルヴァンの藍色の瞳を映した。
「ありがとう。すごく綺麗だし、俺がいつも好む盛装にぴったり合うな」
「気に入っていただけたのなら嬉しいです」
「ああ。今度のサマーパーティーに付けて行くよ。だからシェスも、よかったらそのバレッタ、つけてきてくれ」
「分かりました。では、約束です」
「ああ。約束」
小さく細い薬指と、大きくしっかりとした薬指が、ゆっくりと絡み合う。
まだこの指に指輪はないが、この先、互いの指に填まることになるのか――それを知るのは、残念ながら今ではなかった。
アルシェスタは、明日から遠征に出かけるイルヴァンと、様々なことを語り合った。
◆◇◆
翌朝、イルヴァンの見送りを済ませたアルシェスタは、下町へと降りた。イルヴァンのことは気がかりだが、しかし自分の仕事も疎かにするわけにはいかない。
イルヴァンはちゃんと帰ってくるつもりで遠征に行くと言っていたのだ。それを信じて、アルシェスタは今、自分にできることをするべきだった。
その日の夜、珍しくエリーラが、息を切らせてやって来た。一体どうしたのだろう、と彼女を迎え入れて支配人室に通すと、彼女は語った。
「お嬢様、領地から手紙が届いて、伯爵が、過労で倒れられたそうです」
突如齎されたそれに、アルシェスタの心はやけにざわついた。




