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ミステリー小説の主人公は私ではない

作者: 日野山 丞

はじめまして。日野山丞です、おはようございます。

はじめての投稿なので色々とお見苦しいところもございますが、どうぞお手柔らかにお願いいたします。

 煙草の煙の重いカーテンの向こう、きらびやかなドレスと眩い輝きを放つ宝石で着飾った女性があちらこちらで仕立ての良いスリーピースのスーツの男性と談笑している。

 履き慣れないヒール、重い布地が重なるロングドレスに鬱陶しい宝飾品、社交界デビューというものはこうも不愉快なものなのだろうかと浮かばぬ顔をしているだろう私の溜め息を禁じる法はない。

 ガス灯の時代は終わりを告げ、電気照明が広間に光を注いでいた。世界は一様に電力の時代へと移り変わっている文明の進化の最中であるというのに、階級社会の様は変わらないようだ。もっと自由に生きたいと心から思う。

 父と母は大人の付き合いがあり、一緒に来ていた二人の兄は私と挨拶回りを共にした後あちらこちらへとそれぞれ連れ出されていた。少し離れた場所で色とりどりのドレスに囲まれている。

 若い男女は互いに値踏みをしあうのだ。貴方の資産はおいくらかしら? お屋敷はどちらに? 結婚相手を探してあちらへこちらへ。

 終戦後、英国にも陰りが見えはじめてきていることにみんな気付きはじめていた。安定を求めた結婚に愛はそう必要ではないのだ、オースティンの高慢と偏見が今でも人気の理由も頷ける。私も例に漏れず愛読者の一人だ、国中が夢中になるような素敵な恋をしてみたい。

「でも私には素敵な恋なんて無理ね、これなら蜜を求めて花から花へと飛んでいく蝶の方がよほど品があるわ」

「彼女たちにとっては大きな資産がより甘い蜜なんだよ」

「兄さんたちが可哀想」

「いいや、彼女たちも可哀想さ」

 隣にはブルネットの美青年が一人。赤毛の私の兄弟に見えないことは誰の目からみても明らかだった。

 二番目の兄は軍人で、所属している英国陸軍航空隊で仲良くなったのだとか。兄にとって彼は友人であったとしても、私にとってはただの見知らぬ男性でしかない。陽気な兄とは違い、物静かで思慮深げなその面立ちと柔らかな物腰は魅力的で若い女性の視線を惹きつける。彼の存在は私の居心地の悪さに少しばかり拍車をかけていた。

 年の離れた真面目な学者の長男、陽気な軍人の次男、そして私。私が二番目の兄によくなつくのは必然的であり、その兄が友人として連れてきた真逆の性格の彼には正直にいえば苦手意識が拭いきれなかった。

 ましてや戦争帰りの軍人だ。遠い地の空を機械の翼で飛ぶ誇り高き国の英雄だ。兄も同じであることは私にとって些細なことである。苦手な相手に苦手な理由をつけることができればなんだって良いのだ、理由をつけなければ他の女性のように彼を好きになってしまいそうだった。

「エドガー少尉、兄さんに頼まれたからって律儀に私の見張りなんてしなくてもかまいません」

「見張りではなく護衛と言っていただきたい」

「それこそ必要ありません、もういっそ家に帰りたい」

「まだ一曲も踊っていないのに? ようやく大人の仲間入りをした今夜のヒロインは君じゃないか」

「いいえ、ダンスは結構。それに踊る相手もいないわ」

「僕が相手ではご不満だろうか」

 眉尻を下げて苦く笑う横顔も嫌味にならないハンサムな歳上の彼に不満があるわけではない。むしろ人目を引く美しい男を自分の隣で一人占めにできる優越感すら感じる。苦手意識はあるものの、まさにみんなの愛する高慢と偏見の世界から抜け出してきたかのような彼に不満が抱けるものだろうか。

 ハンサムでセクシー、優しくて知的な雰囲気、しかし気さくで取っつきにくさは感じない。ダーシーではなくエリザベスの姉が恋に落ちるビングリーが現代にいるならきっとこんな感じだろう。そう、だからだ。

「いいえ、違うの、ダンスが嫌いだしあまり上手くないから踊りたくないだけなんです。嫌なものは嫌だし貴方に恥をかかせてしまう」

 むしろあまりにも完璧すぎる男が相手だからこそ気後れするのだ。これだけ注目を集める彼の腕の中に身を任せられるほどの勇気は私にはなかった。彼にマイナス点をつけるとすれば、彼が中流階級の生まれであることくらいだろうか。そう、お金持ちではないのだ。

「おいキャリー、俺の相棒をあまり苛めてやるな」

「酷いわ兄さん、苛めてなんていないじゃない」

「酷いのはどっちだ、ネッドがダンスの誘いを断られてるところなんて初めて見たぞ。罪な女だな」

 シャンパングラスを二つ掲げて戻って来たブロンディ家の次男はいたずらっぽく片目を閉じてみせる。こういう仕草が女性に好印象を与えると知っていてやるのだ。私の兄は実にあざとく、人から愛される才能に恵まれている。

 私と同じグリーンの瞳はぱっちりと大きく、とびきりの愛嬌を感じさせた。長い睫毛が瞬きの度に音を立てそうだといつも思っているのだけれど、それは私の幻想でしかなかった。ちなみにブロンディ家の次男はその魅力的な睫毛はあまり気に入っていないらしい、我が兄ながら勿体ない。

 兄の隣で笑うエドガー少尉とは違うタイプの美形で、社交的な性格である兄が私の自慢だった。見た目も性格もとても華やかで、誰からも愛される兄の側にいるといつも楽しいのだ。

 そんな兄に向かってため息を吐く人は少数だろう。その少ない一人は残念ながら私の隣に立っていた。

「ようやく帰還かトム。キャロライン嬢はお噂通り愛らしい娘さんだから、いつ他の男が声をかけてくるかとひやひやしたよ」

「ネッド、何度も言っただろ。こういうのは跳ねっ返りっていうんだ。まったく誰に似たんだか」

「トーマスという兄に似たのかもしれないわね。リチャード兄さんがよく嘆いているわ」

「言われてるぞ」

「言わせておけ」

 シャンパングラスの片割れは滑るようにエドガー少尉の手へ。上質な酒を分ける喜びは他の何にも変えられないそうだ。私はまだ飲ませてもらったことがない、淑女の嗜みとして一杯くらい許されてもいいはずだと思っている。

 当然面白くないのは私一人。袖を引く妹の微笑ましい嫉妬に目を細めながら兄はぐるりと周囲を見回した、とここでは書いておこうかしら。きっといつまでも飲酒を許されない私を面白がっているに違いないのだから。

「兄貴は? まだ戻らないのか」

「あの手の女性を簡単にかわせるほど器用じゃないのを知ってるでしょ、早く助けてあげて」

「手のかかる兄貴だ」

「そこが可愛いのよ、初で愛らしいってみんな言ってるわ」

「バーの女性を渡り歩くトムとは大違いだ、僕が行くよ」

 シャンパングラスを片手に小さな人だかりへと近付いていくエドガー少尉の背中に妹の前で余計なことを言うなと顔をしかめても無駄である。私は知っているのだ、ブロンディ家の次男がどれだけ女性から好意を向けられる人間なのかを。それでも利口な私はあえてこの場で苦言を呈するつもりはない。兄には兄の恋愛が、愛の注ぎかたがあるのだ。

 女性の間を縫うように歩き、ごく自然に私たちの兄であるリチャードの隣へと立つエドガー少尉の登場に周囲の女性は色めき立つ。まあなんて素敵な人なのかしら、自分が読心術でも修得したような気分だった。残念だったわね、彼は私の監視役よ、と自分の心も周囲の女性に届けばよかったのにと思った。

「大丈夫かしら、兄さんが行けばよかったのに」

「ネッドが優しいだけの男だと思ったら大違いだぞ。人の心を掴んで口先で丸め込む事に関しては俺より上手だ」

 より女性からの注目を浴びる結果になっているというのにさらりとその中から抜け出して来るのを指し、兄はくるりと瞳を回して見せる。後から聞いた話ではあるのだけれど、酒場で女性を振り向かせるための駆け引きでの一番の敵は自分の相棒であり、トーマス兄さんが熱を上げる女性は必ずエドガー少尉が横からさらっていってしまうそうだ。いい気味だわ。

「ありがとう、助かった。エドガー少尉」

「お兄さんまでそんな、今は御覧の通り制服を脱いでいますしネッドで構いませんよ」

「それは少々馴れ馴れしくはないだろうか」

「いいんだよ、コイツは俺の親友だ。もう兄貴の弟みたいなもんだろ」

「それはどういう理屈なんだ」

 襟元を気にしながら戻ってきたリチャード兄さんは父に似たのだろう、下の二人と違いそばかすも散っていなければ瞳の色も空の色に似た青だ。すらりと背だけは高く、表情もトーマス兄さんのように豊かではない。しかし私はリチャード兄さんのことも尊敬しているし、トーマス兄さんと同じく自慢の兄だった。

 リチャード兄さんは歳は離れているけれど、私を子ども扱いしないのだ。一人のレディとして扱ってくれる。

「キャロライン、そろそろ帰るか。ここは退屈だろう」

 人付き合いがあまり得意ではない一番目の兄は当然パーティーなどの派手な催しが苦手であった。うんざりだという表情を隠すことなく私の視線にあわせて長身を畳む長男と私は一つ約束をしていた。リチャード兄さんがパーティーが苦手なのと同様に、私もパーティーになんて行きたくなかったのだ。

 ただでさえ私は戦争のせいで社交界デビューが遅れていたし、前記の通り一緒にダンスを踊る相手もこの場にはいなかった。そんな私をパーティーに連れ出すためにブロンディ家の長男は一つ、ご褒美を用意してくれていた。

「私、ここまで我慢したわ。帰ったら約束通り兄さんの書庫から三冊借りていくからね」

「ああ、好きなものを持っていくといい」

 学者の兄の持つ書庫は私にとって宝の山だった。自分の知らない世界が一冊の本にまとめられ、それがさも当たり前のような顔をして本棚に所狭しと並べられているのだ。目眩のするような専門書や論文から、彼が幼少の頃に読んでいたありとあらゆる小説。何を手にとっても私の知らない世界。そしてそのすべてがリチャード兄さんの頭に詰まっているのだ。

 賢い兄、逞しい兄、二人の兄はどちらも私の自慢であり、この兄二人より素敵な男性でなければ嫁ぎたくはないという私の結婚相手に抱く理想の高さの原因である。私がもし結婚できなかったら二人の兄の責任だ。

「僕もお兄さんの書庫に興味があります、もし叶うなら少し拝見しても構いませんか?」

「帰ったらキャロラインと一緒に一回りするといい。もし気に入った本があれば持っていってくれても構わない」

「本当ですか? 実は是非一読しておきたい論文がありまして」

「君は、元々航空技術者志望だったとか」

「ええ、家の都合で大学には行けず。せめて飛行機に関われる職にと航空部隊に志願したんです」

「君が弟だったら少しは可愛いと思えただろうな。書庫にある本はすべて読み終えたものだ、遠慮しなくていいから好きなだけ持っていきなさい」

「いやだな兄貴、俺ほど可愛い弟もそうそういないだろ」

「そういうところだ」

 ぱちりとウインク一つで兄のため息に応えるトーマス兄さんもけしてリチャード兄さんと仲が悪いわけではない。二人の兄と一人の妹、この三人には一つ共通して好きなものがあった。そして幸運にもエドガー少尉もその仲間らしい。

「俺も兄貴の書庫の常連だろ」

「お前が読むのは冒険小説だけだ」

「キャリーも似たようなもんじゃないか」

「私は兄さんの論文にも目を通しているわ」

「どうせ理解できてはいないんだろ、生意気な妹だ」

 アーサー・コナン・ドイルはページの端がボロボロになるまで読み古されているし新作が出版される度に三人で取り合いになり、ラドヤード・キップリングの本は三回も買い直すことになった。ハーバード・ジョージ・ウェルズの本は私には合わないのだけれどリチャード兄さんは好きみたい。ブラム・ストーカーが好きなのはトーマス兄さん。ちなみにジェーン・オースティンを買い集めているのは私、二人の兄はあまり読まない。

 エドガー少尉の愛読書はディケンズである。リチャード兄さんは書庫のチャールズ・ディケンズをすべて持って帰らせてあげようとしていたわ。でも、無欲なエドガー少尉が基地に持ち帰ったのはピクウィック・ペーパーズだけだった。

「本当に、トムが羨ましいよ」

「羨ましがる必要がどこにある、これからはお前もあの書庫を自由に使っていいんだからな、相棒」

「基地に戻ったら手紙を寄越してくれ、君宛に本を送ると約束しよう」

「俺宛に送ってくれればいいのに」

「エドガー少尉の方がトーマス兄さんに送るより確実に受け取ってくれそうじゃない。ねえリチャード兄さん」

「ありがとうございます、本当に、トムに感謝してもしきれません」

 きらびやかなパーティーの片隅でそんな和やかなやり取りをしていた私たちのすぐ近くで悲鳴が一つ上がった。楽しかった気持ちも一瞬で吹き飛ぶそれに一番に反応したのはトーマス兄さんだった。迷わず悲鳴がした方へと走っていってしまった。

「お兄さん、キャロライン嬢をお願いします」

 兄さんの背中を追ってエドガー少尉もいってしまった。おそらくエドガー少尉は私をここに残していきたかったんだと思うのだけれど、そんなことできると思ったら大間違いだわ。

「兄さん!」

「女性が倒れたようだな。キャロライン、テーブルの水を持て」

 背の高いリチャード兄さんは人だかりの向こうを確認してすぐ私に指示を出してくれる。そうよ、私が首を突っ込まないと思ったら大間違いだし、兄さんも困っている人を放っておけるわけがなかったのだ。

 人混みをかきわけてその中心にたどり着いた時には既にトーマス兄さんとエドガー少尉が女性の傍らに膝をついていた。

「意識はかろうじてあるが体の痙攣、唾液の過分泌、言語障害も少し出ているか」

「美しいお嬢さん、年頃の君に公衆の面前で恥をかかせたくないってのが俺の本当の気持ちだわかってくれよ。先に謝っておくぜ」

「トーマス、早くしろ!」

 エドガー少尉は青いドレスの女性の胴へ腕を回して腹部を持ち上げている。エドガー少尉が愛称をかなぐり捨て急かすように声を荒げ、トーマス兄さんは苦い面持ちだったが躊躇うことなく女性の喉の奥へと手を突っ込んだ。

 その結果は想像に容易いだろう。私はあえて文章に残すことはしないことにした、それが彼女のためだと思うから。とにかく、私たちくらいの年頃の女の子にとっては最悪の事がおきた、とだけ書き残しておく。びちゃびちゃと床を汚す水音がこれほど恐怖心を煽るとは思いもしなかった。

「医者を呼べ、大至急だ。晩酌中でも構うな、引きずり出してこい」

 真っ青な顔をして口元を覆っていた使用人を捕まえて指示を出すリチャード兄さんの声はいつも以上に鋭い。私が持っていたグラスはいつの間にかトーマス兄さんに奪うように取り上げられていた。

 私はそこでようやく事の重大さに気がついたのだ。これは事件であると。

「どう思う?」

「何らかの中毒症だろうが、僕にもそれくらいしか分からないよ」

「急性反応だとすれば、まさかヒ素か?」

「いま俺たちにできることはこれが限界だな、俺は手を洗ってくる。キャリー、なにも口に入れるなよ」

 こんな状況で何かを食べたり飲んだりできるわけがないというのに、と思ったがおそらくトーマス兄さんは私に向かって言っているのではない。私は近くに立っていた数人が手にしているグラスを机へと移動させているのを視界の端で確認した。

 トーマス兄さんがここから離れたのとほぼ同時に使用人たちが集まってきたので私たちも事の中心から少し離れることにした。大変なことになってしまった、社交界デビューにこんな事がおきてしまうなんて私はどれだけ運が悪いのだろうか。

 離れていく途中、おそらく彼女が口にしていただろう美味しそうな料理をちらりと横目で確認した。軽くつまめるようなものばかりで、いやだわ、私もあのパスティを食べたばかりだというのに!

 思わず手で口を覆ったその時気がついた。素早くリチャード兄さんの片袖を引いた私を怪訝な顔でエドガー少尉が見下ろしていた。

「兄さん、グラスを見て。銀よ、銀が黒く変色しているわ。私本で読んだ事があるの、銀の食器は毒を見分けると」

「厳密に言えば毒ではなく硫黄化合物等に強い反応を示す、だ。すべての毒物を防げるわけではない。それに中世での毒殺を防ぐのには十分な精度だっただろうが、現代ではヒ素の純度が上がり硫黄成分への反応はほぼない。もはや失われた護衛術だ、いまだにその迷信を本気で信じて使っている者の方が希少だろう。いいかキャロライン、この現代で銀食器がいまだに使われているのはその家の権威をひけらかすためでしかない。劣化しやすい銀食器を綺麗なまま保てるだけの使用人を雇える、だとかな」

「もう、兄さんは本当に頭が固いのね、こんなときに講義を開いてる場合?」

 私は事件の証拠を見つけたのだ、リチャード兄さんの長話に付き合っている暇はない。女性のシャーロック・ホームズになるチャンスだ、私の側にジョン・ワトソンがいない事だけが悔やまれる。

「しかしキャロライン嬢、中世でもあるまいし、今時こんなに分かりやすく毒を盛るとは思えないんだけれども」

「いや、無知な者ならやりかねん。ヒ素の純度が上がり銀製品に反応しにくくなくなったとはいえ、学者でもない者が純度の高いヒ素をわざわざ購入することなんてそうそうない。代用品を使うとなれば当然不純物が混じり、原子として不安定な銀はその不純物に反応を示して変色する。多くの場合、ヒ素などは」

「兄貴、結論から頼む」

 御手洗いから戻ってきたらしいトーマス兄さんが会話に割り込んできた。いいタイミングだった。おそらくエドガー少尉はリチャード兄さんの説明癖を知らないから途中で止めるなんて思い付きもしないだろう。

「ヒ素や青酸カリウムが含まれた別の薬品を使った、と仮定してみてはどうだ」

「農薬、殺虫剤、枯葉剤、なるほど。誰にでも買える」

 私の頭の上で三人が顔を見合わせていた。ああ、なんてことかしら。目眩がしてきた。あちらこちらでいろんな話が飛び交っている。その人だかりをかきわけて顔面蒼白の一人の男性がその中心へと近づいている。

 トーマス兄さんは自分の唇を人差し指で二度ほど軽く叩いた。内緒話をしたい時の癖だ、声を潜める兄さんの方へみんなが一歩ずつ近寄った。

「彼女の名前はエリザベス、つい先日結婚したばかりらしい。なかなかの資産家のところへ嫁いだらしいな、ライバルも多かったろうに玉の輿に見事成功したってわけだ。で、どう思う?」

「トム、この短時間でよく情報を仕入れて来れるな、君は」

「女性はゴシップ好きだと知ってれば簡単なもんさ」

 ニヤリと口角を上げるトーマス兄さんの背後でエリザベスさんの名を呼ぶ声が聞こえる。先程の男性が彼女の旦那なのだろう。ハンサムで資産家、その寵愛を一身に受ける女性。嫉妬に駆られて、そんな悲劇は小説の中だけで十分よ。

 結婚に夢をみている一人の女性として、怒りが込み上げてきた。神様は絶対に犯人に罰をくださなければならないはずよ。他人の幸せを壊すことが許されてたまるものですか。

「自分の手で毒を盛ったとなれば、その手につけていた宝飾品が変色しているかもしれないわ」

「美しいお嬢さんたちの指輪を盗み見てくればいいってことか。それなら俺の得意分野だ」

「トム、酒場の遊びとは違うんだぞ」

「分かってるって」

「くれぐれも手にキスなんてするなよ」

「じゃあお前の手で済ませて行くよ」

「いや、その必要はなさそうだぞ」

 リチャード兄さんが指す扉の方が賑やかになっていた。人だかりが二つに割れ扉から入ってきた誰かに道を譲っている。その人物の後ろに見知った顔を見つけた。

「フィリップ!」

「キャロライン! よかった、君になにかあったらと到着するまで気が気じゃなかったんだ」

 黒いコートの襟を立てた若者が私たちの方へと足を向けて近づいてくる。私はその胸へと飛び込んだ。これでもう大丈夫だ。

「よう、仕事だからと断ったパーティーに仕事で出席できるなんて幸運なやつだな」

「冗談はやめてください、本当に仕事で来ているんですから」

 そう、彼は仕事で来ているのだ。彼、フィリップは私の婚約者であり、スコットランドヤードの刑事なのだ。本当なら今夜私の隣にいるのはエドガー少尉ではなくフィリップだったのだが、どうしても仕事を休むことができないと私とのダンスの約束を反故にされていた。でもそれは仕方のないこと。

 そんなことはどうでもいい、もう私たちが探偵ごっこをする必要はなくなったということ。ぎゅっと抱きついている逞しい体に今までの出来事と私たちの考えをこっそりと伝えた。フィリップはまだ半人前だけれど頭はいい。それに、彼の上司にこれだけ伝えればあっという間に事件は解決するはずなのだ。

「みなさん、どうか落ち着いてください」

 私の額に一度キスをしてフィリップは彼の敬愛するボスの元へと行ってしまった。もう私たちの出る幕はない。この事件がどうなったかですって?

 新聞を読んでみるといいわ、まるで小説のような出来事が記されているはずだからね。見出しはこうかしら、スコットランドヤードの警部の名推理は小説よりも奇なり。いつか彼を主人公にしたミステリー小説を書くのが私の目標なのだ。

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