最後まで
油断は禁物です
「明日のこと、覚えてる?」
覚えているかどうか、私を試すかのような、それとも本当にただ確認したいだけなのか、電話越しの彼女はそう聞いてきた。まあ、彼女の少しいたずらな口調からすると、前者の確率の方が高い気がする。
「10時に例の場所だろ?わかってるよ」
当たり前だろ?と、お返しと言わんばかりに語尾をあげて、茶化すように返す。すると、彼女は、はぁーっと間の抜けた深い息をつく。
「なーんだ。つまんない。忘れてたら何してやろうかと思ってたのに」
やっぱりいたずらだったな。全く。まだ会ったこともないってのに、人をおちょくりやがって。
「忘れる訳ありませんー。ずっと楽しみにしてたんだから」
そう、俺たちは明日、楽しみなイベントを計画していたのだ。
それはズバリ、「初対面」。知り合ってから今までの半年の間、電話やメールなんかでのやり取りしかしてこなかった俺たち。やっとお互いの予定が合い、二人の時間を作れるようになった。
「明日、遅れないで来てよね。散々待ったのに、また待つことになるなんて嫌だからね」
念を押すように、少し乱暴な口調で彼女は言う。
「お、おう…」
「そんなにかしこまらないでよ。ね?待ってたっていうのも冗談だから。明日は楽しもう?」
やっぱりおちょくっていやがる。俺はどうやら、女性には勝てない習性でもあるのかもしれない。
「ああ、そうだな。というか、君も遅刻してくるんじゃないよ」
「は、はぁー!?してくる訳!?ないないないない!大事な日に遅刻なんて絶対にしませんー!」
お、おう…。テンション上がってんな。このテンションだと徹夜してまで間に合わせて来そうで、ちょっと怖い。
「ま、まあちゃんと寝ろよ。俺も体調万全にしてくるから」
「うん。おやすみ〜」
快調なトーンを俺の耳に置いて、彼女は電話を切る。
はぁ〜…。
明日を思いすぎた心労が祟ったのか、彼女のおちょくりのせいなのか、大きなため息が漏れる。
心がザワつく。緊張のせいでただ寝っ転がるのも億劫だ。
しかし、このまま寝付きまで悪くなってしまっては、具合が悪い上に、何より明日に支障が出てしまう。 それではやっぱり面白くないし、彼女にいびられるのは目に見えている。
今日は早めに寝てしまおう、と勢いでベッドに転がる。
心を落ち着かせようと、深呼吸をする。一旦、彼女のことは頭の中から消そう。もう一つ、大きく深呼吸をする。ああ、どんな顔してるのかなぁ…。あんなに気持ちの良い声をしているのだから、きっと可愛いのだろうなぁ。いや、美しい系かもしれない。どっちにしろ、早く会いたい気持ちはきっと一緒なんだよなぁ。
ハッ。消えてないじゃないか。むしろ頭の中それで埋め尽くされているではないか。
勢いよく頭を横に振り、もう一度消そうと試みる。更に目を閉じて、あわよくばこのまま寝てしまおうとも考えた。
しかし、耳に残された彼女の声が、脳内に語りかけるようにこだまする。
もう無理だ。天井をぼうっと見つめながら思う。自分の欲求が大きく膨らみすぎて、溢れさせないと気が済まないようになっているのだろう。
もういっそ、そのことだけを考えてしまおうと考えた。その方が結果良い睡眠をもたらしてくれるのではないかと考えたからだ。
考えるとしたら、どこからだろう。最近あった面白いこと?最近吐かれた暴言集?いや、この際だ。どうせなら出会いの頃のことから始めてみよう。
そっと瞼を閉じて、あの頃のことを思い出す。
俺だって、SNSくらい利用する。というのも、彼女との出会いはこれがきっかけだったのだから。
別に、生活が充実していない訳ではなかったし、人間関係も至って良好だった。むしろ十分すぎるくらいに満足できる環境であったとは思う。古い付き合いの友人とは継続して仲良くしていたし、職場内で親密な仲を築いた人もいる。
しかし、俺は退屈だった。満たされた箱の中に安住することは、どうやら性に合わなかったようで、繰り返される安定した生活に、どこか自分の不安定感を感じていたのかもしれない。
俺がSNSに手を伸ばしたのはそんな理由からだった。顔の見えない友人の、手の届かないもどかしさが良い刺激になるのではないかと考えたからだ。強固とはいえない、文字と記号だけの仲に、きっと満足感は見出せないだろう。俺はなるべく満足していたくなかったのだ。
最初のうちは、ただ友人を作ることに面白さを感じていた。しかしそれも、日を追うごとにだんだんと面白味が無くなってきて、繋がった縁も自然と切れ、また味気の無い日に戻ってしまった。画面を挟んだ関係なのだから当たり前なのだが、正直もう少しだけ親密な仲になりたかったのだ。会話に時間差ができると、今度は妙に苛立ち始めるのだ。もちろん、多少の時間のロスは致し方ないことなので許せるのだが、一日や二日、更には一週間や一ヶ月なんて待たされると流石に腹が立つ。会話を発生させようと行動しても、反応が一切無いのでは意味をなさなくなる。
そんな中、俺はあることを思いついた。
例え画面という壁を挟んだ仲だとしても、親密な仲になれないなんてことはきっと無い。きっと恋仲でいられる人だって、この広いネットの世界にきっといる。何十億という人の中に、一人くらいは自分に合う人がいるはずだ。
当てはあった。仲良くしていた“ネット友達”の中にも、もちろん女性はいた。その中の一人は俺をがっかりさせる反応はしなかった。会話はちゃんとしてくれるし、何より楽しかった。話はしっかり聞いてくれるし、それに秀逸なツッコミを入れてきたりと、とにかく楽しく会話できた。画面を挟んでも会話のキャッチボールってできるのだな、と思えるような人の一人であった。
俺はこの一人に狙いを定めた。名前は小春。穏やかな名前とは裏腹に、中々にキツい性格の持ち主であったが、恋愛にはどうやら飢えているようだった。「彼氏とか欲しいわ〜」が彼女の口癖。何かの拍子に必ずこれを口走るくらい、しょっちゅう言っていた。
俺はこの人との会話に力を入れた。むしろ、この人としか会話をしないくらい没頭していた。
会話を重ねていく度に、少しずつ俺たちは仲良くなっていった。お互いの波長がほどよく噛み合い、心地の良いリズムを刻んでいた。楽しかった。こんな会話が、ネット上でもできるということに驚きさえ感じた。
そんな中、俺たちの距離をより近づける出来事が起こる。引き金を引いたのは彼女の一言。
「あの…、そろそろちゃんと連絡先交換しません?」
意外だった。いっつもキツい彼女の方からそんなことを言い出すこともなのだが、ネット友達間での連絡先交換なんて、作り話の中でしかないと思っていたのだから。
正直、返事には困った。確かに恋仲になることは望んでいたが、その段階まで進んでしまうと、欲求が溜まりすぎて、爆発しかねないことになるのではないか、という不安があったからだ。
「後悔しない?」と彼女に問うと、「あなたとなら大丈夫」とすぐに返信が来た。文字から伝わる力強さに、俺の持っていた不安は消し去られた。
電話番号、メールアドレスをお互いに登録する。途端に電話がかかって来た時のことは今でも鮮明に憶えている。
「ごめん、早く声が聞きたかったから…」
いつもの我が強い印象とは裏腹に、その理由はとても可愛らしいもので、その声は女神をも連想してしまいくらい、透き通った美しいものだった。
その時、俺の中で何かがふつふつと湧き上がってきたのを憶えている。そして、それはすぐに声となって飛び出していった。
「会いたい…」
途端に、パッと大きな笑い声が咲く。
「素直すぎか!」
彼女から最大の突っ込みをされた。
「しょ、しょうがないだろ〜!だってそう思っちゃったんだから〜」
「分かった分かった。そんなに焦んないで。私も同じだから、安心して?
ね?今度都合いい日にでも会おう?」
と、まあそんな感じで現在に至るわけだ。この約束をしたのは三ヶ月くらい前のことになる。つまり、俺たちは会いたい欲求が満たされないままここまできてしまったということだ。
ただ、そんな欲求とも明日でバイバイだ。
奇跡的に予定が合った今回。行き先は彼女の希望で遊園地。俺からしてみれば、人の多い遊園地のような場所はできるならば避けたかったのだが、押しに押された結果、俺の意見は揉み消されてしまった。
というか、そろそろ本格的に眠たくなってきた。時計を見ると11時と寝るには早い時間か?とも思ったが、襲ってきた眠気に抗ってもどうせ勝てない。明日への興奮も胸に収め、大人しく寝に入ることにした。
「おやすみなさい…」
誰もいない空間にポツリと呟いて、部屋の灯りを消した。
待ちに待った明日が今日に変わる。待ちくたびれたのか、今日の起床時間はいつもより二時間早い4時半。二度寝はもちろん試みたのだが、俺の二度寝はとっても危険なのでやめておいた。前に一度、遠方への出張日に二度寝をして、二時間ほど予定より遅れてしまったことがある。その日は幸い、会議の時間の30分前になんとか着いたのだが、息つく暇なんかなかったし、あるはずの時間でやる予定だった仕事のせいで、帰りは夜遅くなってしまったりと散々だった。
そのときはなんとかやり過ごせたが、今日という日は遅刻なんかしたらどんなことになるかわからない。最悪公開処刑だろう。
(逆にくたびれるっつーの)
そんなことを思いながらも、俺はせっせと支度を進める。
今日は何を着て行こう?とか、どんな気持ちで行けば良いのだろう?とか、柄にもなくそんなことを考える。
(カッコつけるのもありだろうけどなぁ…)
無駄に気を張っていては、それこそ彼女に笑われそうだ。ここはあえて、普通通りにすることにした。全身真っ黒。面白味なんてかけらもないが、彼女には普段通りの自分を見てもらいたい。とでも言っておけば納得してもらえるだろう。
(っと時間は…全然余裕だな)
集合時間の三時間くらい前。さすがに時間を気にしすぎだと思う。見た目を普段どうりにしていても、これでは気を張っている雰囲気がきっと滲み出てしまうであろう。
(普段どうり、普段どうり…)
自分にそう念じ、気を紛らわそうと朝食の準備に取り掛かる。
トーストに目玉焼きを挟むだけという簡単な飯。とは言ってもこれは俺の好物だ。サクッと香ばしいトーストに絡んでくる半熟の黄身。そこから奏でられる幻想的な音楽が、穏やかな朝を告げる。絶妙な相性を持つこれらは、きっと毎日食べても飽きないのであろう。そのくらい、俺はこの単純な飯が好きなのである。
食事後、いつものように朝のコーヒーを淹れる。コポコポコポ…という小気味良い音が静かな家の中に響き渡る。俺は、特にすることもないまま椅子に腰掛けてただその音を愉しむ。
(お、そろそろだな)
コーヒーのいい匂いが俺の鼻を刺激する。淹れたてコーヒーの芳ばしい香りが癒しをもたらす。少し熱めのコーヒーを啜る。ほのかに広がるコーヒーの風味が、俺に「今日も一日頑張って下さい」と囁きかける。
俺は、すぐそこに放置していた書物を手に取る。コーヒーに少しずつ口をつけながら、活字の海に沈み込む。作者の思想が頭に流れ込む。水圧を感じることのない深海にどんどん、どんどん沈んでいく。底にはまだまだ辿り着けやしないが、周りに広がる景色を愉しみながら、ゆっくりと沈んでいく。
ちらと上を見る。視界に映る時計の針は、九時丁度を指している。
(もう一時間前…。あ、まずい!)
深海から猛スピードで顔を出す。一時間前。余裕が一気に無くなった。ここから目的地までは四十分くらいかかる。今の今から行けば間に合うが、まだやるべきことが残っている。
(飛ばせば三十分で行けるか?いや、あまり飛ばしすぎると事故になりかねないだろう)
高速で皿洗いをしながらそんなことを考える。手元がおぼつかない故、皿を何回か割ってしまいそうになるが、落ちる直前のナイスセーブのおかげで事なきを得た。
次に簡単な身支度を済ませ、ダッシュで家を出る。マンションの5階から駐車場までダッシュ。車の鍵を探しながら、学生ばりの階段飛ばしで駆け下りる。
(あーーーー、しまった!)
鍵がない。駐車場の手前で気づき、ターンをしてまた階段に向かう。学生ばりの階段飛ばしで、今度は駆け上る。鍵のかかっていない家に入り、靴も脱がないまま部屋に上り込む。勢いで鍵を取り、慎重に鍵をかけて、また階段を駆け下りる。
車を飛ばすこと三十分。幸いにも事故になることなく目的地へ辿り着いた。彼女から服装の特徴は聞いてある。
(上がベージュで下はジーンズか…)
随分と雑破な説明をよこしたものだ。そこらへんにいくらでもいるじゃないか。
探すこと十分。未だに見つけ出せない。すると、彼女から急にDMがくる。
「私、小春。今、あなたの後ろにいるわ」
えっ!?とっさに後ろを見る。そこには、ベージュのカーディガンとジーンズに身を包んだすらっとした美人がいた。
「瑠斗さん、ですよね。間違えていたらすいません…」
本当に彼女が小春さんなのだろうか。だとしたらイメージと違いすぎる。服装も落ち着いているし、ロングヘアから漂う雰囲気はむしろおしとやかである。インターネット上と現実で性格が変わる人がいるとは言うが、まさかこの人がそのタイプだとは思っていなかった。
「小春さんですね。初めまして」
そっと握手を求める。俯いていた彼女はスッと顔を上げ、俺の方を見る。真ん丸に開いた瞳が、俺の姿を映す。すると緊張が解けたように彼女の頬は緩んで、柔らかい笑顔になる。
「よろしくお願いします」
柔らかい手が、そっと俺の手を包み込む。画面を挟まないやり取りが、この時初めて成立した。
「軽く自己紹介でもしましょうか」
そう提案したのは彼女。まずは落ち着いて話したいと言っていた彼女は、最初に園内のカフェに入った。 向かい合う形で座った俺たちはそれぞれコーヒーを頼んだ。
彼女はコーヒーを少し飲むと、「じゃあ、始めますね」と言って軽く紹介をしだした。
「中村小春といいます。えっと、仲良くしてくれると嬉しいです…」
この人は、本当にあのネットでいつも会話をしていた小春さんなのだろうか。顔を合わせてから今まで、その疑問が絶えない。勝気な様子など微塵も感じられない。いわゆるギャップ萌えというものなのだろうか、さっきから彼女の様子が気になって仕方ない。
「向井瑠斗といいます。もちろん仲良くさせていただきます。それと…もっと力抜いていいですよ」
カマをかけてみる。多分、あくまで多分なのだが、彼女はかなり緊張している。こんなに口数が少ないはずがないのだ。
「えっ…?」
彼女は驚いたように俺の顔をみる。すると彼女は目をそらすように下を向いて
「えっ、なっ、なんで私が力を抜く必要があるの…っ!別に変な力なんて入ってないし、緊張とか、別にしてません!」
ああ、やっぱりボロが出た。口調も、敬語を忘れかけているあたりだいぶ素に近づいている。
「ちょっと!何ニヤニヤしてるの!…ですか!」
赤面に早口で指摘する姿はあまりにも面白くて、ニヤついていたらしい頰が更に緩む。
「わ、笑うな!」
こうなってしまっては止まらない。周りに気を使いながらも、笑いを爆発させた。
「っごめんなさい、本当に面白くて…ククッ、…痛っ!?」
いつまでも笑い続ける俺に、彼女は鉄拳制裁を加えてきた。殴られた頭がジンジンする。しかし、やっぱり予想どうりだった彼女の性格に安心して、これまた頰が緩んでしまった。
「フン、殴られてニヤつくなんて、やっぱり予想どうりの変態ね」
コーヒーに口をつけながら彼女はそう吐き捨てた。
俺の認識って変態だったのだな…。
ショックを受けながら口をつけたコーヒーは少し苦かった。
カフェを出た俺たちは、ようやく本格的に遊園地を楽しもうと、アトラクションのある広場へと繰り出した。
「最初は、あれね。空いてるから丁度良いわ」
彼女が指をさした方向にはコーヒーカップがあった。口調なんかもう崩れきっている彼女は、ずんずんとその方向に歩いていく。
ここから地獄の時間になるなんて、この時は微塵も予想をしていなかった。
グルグルグルグル……。視界が歪む。脳が回転させられているような錯覚にさえ陥る。それでも、まだ回転は止まらない。
「アハハハハハッ」
高らかな悪魔の笑い声が聞こえる。なぜこの人はこんなものを楽しめるのだろうか。疑問に思ったが、そんなことをいちいち問う余裕など存在しなかった。
回転が止まる。足元をフラつかせながら、その場を離れる。
(休憩できる…)
甘かった。序盤から休憩など、入る訳がなかった。
浮かれた足取りの彼女は、次にジェットコースターに乗ろうとか言い出した。また、有無を言わせずに無理やり手を引いて、処刑用の乗り物へと向かう。
人が並んでいて良かった。待ち時間のおかげで休憩できる。着々と列は減っていくが、俺たちの番が来るまでは回復する見込みはある。
「次の方〜、こちらへどうぞ〜」
まだ完全ではないが、頭のグラつきは取れたようだ。高らかな案内人の声に誘われて、前から三番目の席に並んで座る。
「ワクワクするなぁ」
彼女がそんなことを呟く。ワクワク、か…。そんな気分にはなれやしないな。ただ途中で吐瀉物を漏らさないかどうか心配なだけだ。
カタカタカタ……嫌な音が聞こえてくる。遂に始まってしまった。
(吐きませんように吐きませんように…)
何度も何度も祈る。最初のデートから醜態を晒したくない。もし吐き出したりなんかしたら、彼女の気分まで最悪にしてしまうだろう。それだけは避けなくてはならない。
(何なんだよ…)
速度差が異常だ。急発進、急停車。繰り返されるそれに、あまり揺らしたくない身体が揺らされる。ついでに、回転を繰り返す車体が、俺の胃の中もグルグル回転させた。かき回される胃。いつ込み上げてきてもおかしくない吐瀉物。俺はなんとか耐えてくれと祈ることしか出来ない。早く、早く終わってくれ…!
「はぁ〜、楽しかったね!」
顔面真っ青であろう俺に話しかける、とても元気な彼女。ここで一つの光と影ができているのではないかとも思ったが、そんなことを悠長に考えている余裕なんてない。
(早く休まないと…)
そう思った矢先のことだった。「あっ、あそこ空いてるよ!今度はあそこに行こうよ!」
指さされた場所に映るのは、もう一つのジェットコースター。
「こんなに空いてるのはきっと今しかない!」
凄まじい力で引っ張られる。ああ、連れて行かれる…。行き先は天国だろうか、地獄だろうか…。
そこから先の記憶は、あまりない。
「ごめんね、つい楽しくなりすぎちゃって」
遠くから声が聞こえる。彼女の声だ。
うっすらと目を開けると、周りはお花畑で……いや、違う。木で囲まれた静かな空間――休憩所にいた。
「こんなに顔真っ青にするまで放っておいて…。本当にごめん」
頭の方からまた彼女の声がする。なにかを悔やむような口調から、そこはかとない違和感を感じる。だって、一時前まであんなに元気に人を振り回していた人が、こんなにシュンとしているのだ。また、彼女の可愛らしさの要素を見つけてしまった。
折角だから、もう少し寝たふりをしておこう。騒がしい遊園地の中とは思えないくらい静かな空間で、普段の彼女とは思えないくらい優しい言葉に、少し浸っていたかった。
俺は再び瞳を閉じた。
彼女の声は、まだ続く。「ごめんね、ごめんね」と呟く声は、次第に弱くなっていき、途中からすすり泣く声も混じってきた。
「私だけ楽しんで…苦しかったの気付かなくて…ごめんね…。ねぇ、まだ起きてくれないの…?これからは気をつけるからさ…、早く起きてほしいよ…」
ああ、幸せ…。こんなに良いことを聞けてしまうだなんて…。思いがけない言葉に感激。こっちの頰が自然に緩んでいく。そして次第に、それは笑い声となって身体の奥から込み上がってきた。
「起きたの!?」
びっくりしながらこちらを向いた彼女は、俺の笑い顔を見ると急に目を細めた。
「ふぅ〜ん。いつから聞いていたのかな〜?」
まだベンチの上に寝っ転がっている俺の目を覗き込む。狐のように細くなった目が、俺の心を見透かすように見つめてくる。
俺の頰から力が抜けてくる。それどころか、全身から気持ちの悪い汗が噴き出す。
(まずい…。やられる…)
冷たい視線に冷たい汗。先程までの幸せな空間は、一瞬にして凍りついた。
彼女の手が頭に伸びてくる。勢いよく振られた手に、思わず目を瞑る。しかし、感じるはずの痛みはなく、それどころか柔らかな感触が頭の上を這っている。
「私はもうさっきまでみたいに振り回さないようにするから…あなたもそういう事しちゃダメ…」
撫でる手つきは、慣れていないのか少し弱々しかった。
休憩所から出てきた頃には、夕焼けのせいで辺りは真っ赤に染まっていた。あと少しでなんやかんや幸せだった一日が終わってしまう。すでに薄ぼんやりと光る月を見て思った。
「ねぇ、これが最後だから。もう一回だけ私の言う事を聞いてくれない?」
彼女もすっかり調子を取り戻し、やっぱり少し高圧的な態度で話す。
「良いですよ。今ならジェットコースターでもコーヒーカップでもどんと来いです!」
そう言うと、彼女は呆れたようにため息をついて
「馬鹿。最後くらい穏やかにいくわよ」
と俺の頭を軽く叩いた。
向かった先は観覧車。定番と言ったら定番だが、彼女の穏やかが本当に穏やかである事に少し驚く。
やはりやや強引に俺の手を引いて、目的の観覧車へと連れて行く。手の引きの強さが先ほどより強くなった気がする。いや、引きが強くなったのではない。手を握る力が強くなったのだ。まるでなにかを決心した時のように。
彼女は観覧車に乗るまで、一言も発さなかった。
「ごゆっくり〜」
冷やかしだろうか。それともただの決まり文句なのだろうか。案内人は夜も間近だというのに、高らかな声をあげて俺たち二人をゴンドラに乗せた。
俺が先に席に座ると、彼女は少し間を空けてから俺の隣に腰を下ろした。
ゆっくり、ゆっくりとゴンドラは上へと登っていく。
未だに、彼女は一言も発さない。ただ自分の手を気にしているだけである。緊迫した空間の中では、外の景色を楽しむ余裕なんて出てこない。
ゆっくり、ゆっくりとゴンドラは上へと向かう。しかし、二人の空間は止まっている。
もどかしい。こうなってしまうと、どう話をしたら良いものか分からない。俺たちの間を流れる空気は、見えないなにかが首を締めているかのように苦しい。
「あの…っ!」
重苦しくのしかかる沈黙に抗う。彼女はハッとしたようにこちらを見る。
「はいっ…!な、なんでしょう!?」
声が震えている。急に喋りかけられて驚いたのか、折角向けた顔をまた下に向けてしまった。
「い、いや〜。なんかこのまま終わりってのもなぁって…」
まずい。沈黙を破る事ばかりを考えていたせいで、喋る内容は考えていなかった。
「あ、いやぁ〜。そ、そうですよね〜」
その場をはぐらかすように言葉を返される。再びあの重苦しい空間に葬られるのか…と鬱になりかけた時、
「あの…、手握っていいですか…?」
と彼女が身体を寄せてきた。握られた彼女の手は、信じられないくらい震えていた。
「ごめん…観覧車に乗った時からずっとこうなの…」
言いたいことがあったのに、と彼女は語る。
「タイミング、逃しちゃったな」
彼女は笑ってそう言った。緊張が解けかけているのか、手の震えは少し収まってきた。しかし、ゴンドラの位置は既に一番上を通り過ぎていた。
ゆっくり、ゆっくりとゴンドラは下へ向かう。
彼女は大きく深呼吸する。一番上でなにかを言うことはできなかったが、あくまで観覧車の中でそれは言うつもりのようだ。
彼女が息を吸うたびに、こちらの鼓動が早まってくる。いつ吐く息に言葉が乗せられるのかを、今か今かと待っている。駆け引きをするように、焦らすように息を吐くだけの彼女と、息が吐かれるたびに少しがっかりするような、落ち着くような気持ちになる自分。奇妙な空間が二人の間を流れる。
その時は不意に訪れた。
「私とずっと一緒に居てくれませんか?」
俺たちを包む空間が綺麗な夕焼け色に染まった時、素朴でも美しい質問が耳に響いた。彼女の手からはいつのまにか震えは消えていて、代わりに握る力が強くなった。
「もちろんです…!」
言葉は迷わず口から出てきた。自然すぎるくらいにすんなりと、滑るように放たれた言葉は、彼女の耳に届いたようで、彼女は黙って笑うと、俺に口付けした。
彼女の顔は影になってよく見えなかったけれど、ささやかな幸せを噛みしめているように、そしてそれを放したくないかのように、このひと時を味わっているように感じた。それは俺も同じで、一瞬一瞬がやたらと貴重なものに感じた。
「っと、もう終わらなきゃね」
いつのまにか、ゴンドラは出発点へと戻っていた。どこか物足りない気持ちは、あっても口には出さなかった。美しい時間は短いからこそ美しく感じるのだ。貴重なものに触れている時間は短い方がいい。
しかし、彼女はこう言った。
「今夜、空いてますか?」
近場にあるホテルに駆け込む。やや急ぎ気味にチェックインを済ませると、流れるように部屋に入り、そのままダブルの大きなベッドに飛び込んだ。
「小春さん。後悔、してないですか」
「当然よ」
俺の確認さえ余計なものらしく、彼女は急かすように俺の身体を強く抱いた。
感触、体温、吐息…それぞれが深く混じり合う空間が濃厚で、頭がぼうっとしてしまう。このまま色々溶け合って、重なって……
『バタン…』
何か聞こえた。ハッキリとは分からないが、そこはかとない不安感が俺を襲う。そしてその不安感は、見事に的中した。
そこには、見慣れた悪魔が佇んでいた。
「あ〜ら、随分とお楽しみのようじゃない」
悪魔が上半身裸の俺を見て嘲笑う。はだけた服の小春さんも、俺から身体を離し、服装を戻そうとしている。
「あっ…おっ俺…」
「何も言う必要はないわ。私はあなたに少しの作業をしてもらうだけ」
悪魔は俺の手を掴む。そして、何かを握らせる。
「ビビってんの?さっきまで何も怖くなかったようだけど」
グシャグシャグシャ…
握られた手は、何か紙のようなものを押していた。しっかりと押さえつけられて、パッと離したかと思えば、念を押すかのようにもう一度グシャグシャという何かに押さえつけられた。
「お仕事かんりょー。じゃーねー」
不意に現れた悪魔は、何事もなかったかのように去っていった。
脚の力が抜ける。自重すら支えられなくなった弱っちぃ脚は、その場で崩れ落ちてしまった。
「なんで、あの人が……」
未だに理解ができない。しかし、こんなことは一生かけて考えたところで答えは出てこないのだろう。
「あっ、あの、瑠斗さん…」
抜け殻のように思考も何もない状態になった俺に、彼女は二枚の紙を見せてきた。
不幸の切符と幸福の切符。その二枚には汚ったない印鑑が押されていた。
「これで、約束守ってくれますね…?」
小春は、ある女と向かい合わせで喫茶店の一席に座っていた。
「良かったんですか?本当に旦那さんくれちゃって」
小春がそう聞くと、女はコーヒーを一口啜って言う。
「良いのよあんな屑、さっさと貰ってくれた方が嬉しいわ。
それに、あんただって好きになったんでしょ?あいつのこと」
「まあ、そうですけど…」
小春は赤面で俯く。
「はぁ〜甘い甘い。砂糖吐くわ〜。ま、せいぜいあの屑と仲良くしなさいよ〜」
女はそう言うと、一枚の紙をヒラヒラと振った。
「私も半年経ったらこれ提出しちゃおっかな〜?」
判さえ押せばいつでも提出できそうな婚姻届を、女は丁寧にバッグの中にしまった。
「あんた達のも、あとは好きな時に提出しちゃえば良いから」
それだけ言うと、女は残ったコーヒーを一気に飲み干し、金を置いて席を立った。
「あの…!ありがとうございます!」
「はいはいお幸せに〜」
背を向けて手を振る女に、小春は何度も深々と頭を下げた。