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小噺の玉手箱  作者: Suck
5/7

ねぇクリーピー?

僕は幻覚でも見ているのだろうか。冷蔵庫の中のように負の感情で渦巻いた自室。その隅っこで僕は膝に顎を付けて座っている。


壁には黒い染み。


いや、違う。



僕の悩みの種だ。今にも発芽して僕を狂わそうとしている。


ここ数日、家の壁に棒人間のような黒い染みが現れた。

顔には「○・」のように不釣り合いな目玉。


その目はこちらを凝視して離さない。


僕はコイツを「クリーピー」と呼ぶ事にした。そのままの意味だ。


クリーピーは2日前、仕事帰りに疲れた身体のままベッドに倒れ込んだ時に初めて会った。


近づくとふわっと、壁の奥に吸い込まれるように消えていく。離れるとまた現れる。


クリーピーには口が無いから笑っているのかも怒っているのかもわからない。でも、僕が本当に辛そうにしている時、彼は僕の傍に寄ってくる。


慰めているつもりだろうか。




元々群衆の端で愛想笑いしているような僕に渉外業務はとても辛い。


交渉の場では活力ある若者を演じるが、帰って来た後の疲労感は酷い。


上司との付き合いで日を跨いで帰る

ことはザラ。空腹を満たす気力も無く、何ヶ月か洗っていないベッドに埋まる。


疲労の臭い。



「何だこれ...仕事するために生きてるのか...」


上司を殴ってどこか遠い島の砂浜で寝転びたい。会社に爆弾を仕掛けて森の木漏れ日を浴びながら昼寝したい。


そんな妄想をしていても、明日はやってくる。目のクマはキャバ嬢のアイシャドウみたいに濃く、歯茎から血が出てくる。


鉛筆削りにかけられたようにガリガリと削られる命。


この世界はどこかおかしい。




ある日、フラつきながらも徒歩で会社に向かう途中、踏み切りに差し掛かった。赤の点滅と何かを急かすような警告音。


このレールの上に飛び込めばどれだけ楽になれるだろうか。死ぬ事よりも生きる事のほうが難しいと身に染みて感じる日々。


先月自殺した同僚の元へ向かいたい。

よく週末のくだらないバラエティの話をしたよね。それは僕の密かな楽しみで、その話をするために興味のない番組を見てみたり。


数ヶ月前から君は千円札を泣きながら鋏で切り始めた。


職場に流れる険悪な空気。





あ、もうダメだな。



僕はそう思った。





それからしばらく経って、君からe-mailが届いた。件名に表示される「黒い人がいる」


本文は無し。

液晶の向こうではどんな顔をしているのだろう。


僕は返信できなかった。







彼が呼んでいるような気がする。僕はいつの間にかポツリポツリと立っている人々を縫うように避けていき、遮断機の目の前まで歩いた。


先頭にいる眼鏡をかけ、禿げた初老が僕の顔を見てギョッとした。


死を見据えた顔。


そんな顔をしていたのかもしれない。




僕が遮断機を潜ろうとした時、レールの上に得体の知れぬ黒い影が現れた。


それは真夏の陽炎のように揺れて僕の様子を伺っている。


「クリーピー!!危ないよッ!!!」


僕は、横から迫る車両には目もくれず、クリーピーを救うために線路に足を踏み入れた。



と、同時に誰かに襟を掴まれ、後方へ投げ飛ばされる。


一瞬息が出来なくなって目がチカチカした。情けない姿で尻餅をつく僕。


見上げると、先程僕の顔を見て驚いていた禿頭が鬼の形相で僕を睨みつけていた。


「危ないのはお前だッ!!!」


近くにいたお婆さんも「大丈夫か兄ちゃん!!アホか!!」と僕を叱った。




あぁ、なんて優しい人達だろう。







「何かあるなら話を聞くから。自分の身体を大切にしなさい」


そう言うと、鬼の形相から一転して、紳士のような優しい顔をした。

この人もサラリーマンだ。


よく死なずにこの歳まで頑張ってられるな。


「うっ...」



大人気なく、僕は十数年ぶりの涙をその場で流した。

押し殺した感情を全て吐き出すように僕は泣いた。


優しく背中をさすってくれるサラリーマン。ティッシュを渡してくれる老婆。



暖かい。家よりも、灰色のビル群よりも。




過ぎ行く人々は僕に哀れみの眼差しを向ける。そんなこと知らない。


もう会社なんて行くものか。会社よりも僕の身体のほうが大事なんだ。


死ぬ為に生きる人生なんてあり得ない。


僕は泣き続けた。怒り続けた。憂い続けた。



...

......

.........



以前の会社は退職し、今は小さな塾を経営している。誰かから求められることはやはり嬉しい。


過去の自分を作り出さないためにも、従業員には最良の待遇をしている。


社員間の関係も良好で、離職率も低い。


例のサラリーマンのおじさんとは月に一度居酒屋で話をする仲になった。偶にあの頃の僕を弄られて苦笑する。


「はは、あん時のお前の顔。本当に死に際って感じだったよ」


「目の前で何かが呼んでいたんです。黒い、靄のような、人のような」



人々の会話が飛び交う居酒屋の隅の席で、僕は言った。おじさんは真剣な表情になる。


「家にもそいつは現れて、偶に僕の袖を引っ張るんです。家にしか出ないと思っていたんですけど、ついに踏切にまで現れて...」



「お前さん、そいつはきっと、良くないものだろう。あぁ、良くないものだ」


彼は自分に言い聞かせるようにそう言った。


「数十年前か、俺も新卒で入った会社が所謂ブラックでな。そこの先輩が黒い人を度々見るようになったんだ。そんで数ヶ月後、死んじまった」



僕はそれを聞いて同僚のe-mailを思い出した。


「あんた、危なかったな。本当に」


おじさんはそう言うと、焼き鳥を頬張り、ビールを胃に流した。




クリーピー。


彼は僕をどうしたかったんだろう。


今は見ない彼の姿を鮮明に思い出す事はできない。



今も彼は、誰かの袖を引っ張っているのだろうか。


死へ誘っているのだろうか。







そして今日もまた、どこかで首を吊った心の壊れた者の傍で、クリーピーは嗤うのであった。







○・


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