思い出に変わるまで
「フラれたぁ!」
同期生の上木真央がアパートに泣きつきに来たのは、夏も暮れの時期のことだった。
矢吹涼香は、寝ぼけ眼をこすりながらそれを迎え入れた。
太陽は既に天高く昇っている。涼香は夏休みに甘えて、多少昼夜逆転気味だった。
真央は同期生の井上誠とカップルだ。それも最早過去の話になってしまったようだが。
卒業したら二人は早々に結婚するものだと思っていた涼香は、多少驚いた。
部屋に彼女を招き入れ、テーブルを挟んで向かい合う。二人の前には紅茶の入ったカップが一つずつ。
「……原因はー?」
涼香は寝起きでまだ頭の回転が鈍い。だが、目の前で泣いている友人を追い返すわけにもいかない。
「核心は教えてもらえなかった。就職先が離れるからって、その一点張りで」
真央はそう言って、瞳から次々に涙を零す。
「酷いと思わない? 私、大学生活のほとんど全部を彼に捧げたのに!」
真央は随分感情が高ぶっているようだ。一人で盛り上がっているとも言える。
「面倒臭いと思われたんじゃないの。あんた、メールの頻度異常だったもん。講義中だってメール送ってたじゃん」
しまった、と思った時には遅かった。
今の一言は、真央には直球過ぎた。こんな時は赤子をあやすように返してやるべきだったのだ。
どうやらまだ寝起きで頭の回転が鈍かったようだ。
真央の涙が勢いを増す。
「私のせい? 私が悪いの?」
「いや、どっちのせいかとかはわからないけどね。確かに急な話で酷いよね」
慌てて、調子を合わせる。
「酷いよ。急すぎるよ。わけわかんないよ」
真央は泣き続ける。そしてスマートフォンを取り出して、親指を動かす。
「ちょっと待って。あんた誰にメールかラインかしようとしてるの」
「……誠」
別れた相手に別れ話の愚痴を話す。それは倒錯した行動だ。流石に涼香はそれを止めることにした。
「あんた、別れたんでしょ? やめときなさいよ。次の相手探せばいいじゃない」
「彼以上の相手なんて見つからないよ。彼が私の一番の理解者なの!」
真央はいつもこうだ。一人で盛り上がって一人で暴走する。その過剰な暴走が、相手の負担になったのだろう。
これは自分がブレーキになるしかなさそうだ。涼香は、溜息を吐きたいような気分になった。
彼女のスマホを扱う手を掴む。
「……どっか遊びに行こっか。気分転換になるでしょ。メールはやめときな」
「……けど、メールはしてもいいって言われたもん」
真央は泣きながら、手を振り払おうとする。
「それでも、あんたらは別れたんだよ。ちょっとは誠くん離れしなさい。これからは、一人で頑張らなくちゃいけないんだから」
一人。その言葉を聞いた途端に、真央の動きが硬直する。
「いや、私もついてるけどね。とりあえず、今日は付き合うよ。ぱーっと遊んでがーっと飲んで忘れよ忘れよ」
涼香はスマートフォンで連絡をとって、恋人との約束をキャンセルする。
甘い顔をするべきではなかった。そう実感したのは翌日のことだった。やはり寝起きの頭で物事に対処するべきではない。
翌日の昼も、真央はやって来たのだ。
「涼香ちゃん、飲もうよ」
彼女は昼から缶チューハイの入ったコンビニの袋をぶら下げている。
「あー、うん、わかった。付き合うよ」
仕方がないので彼との約束をまた先延ばしにすることにする。
そして、コップを取り出して、テーブルの上に二つ並べた。
「二人で大阪旅行に行った時にね。彼、私が綺麗だねって言ってくれたんだ。俺にとっては世界で一番綺麗だって」
真央が酔うと話すのは今日も誠の話だ。
「口先ばっかりじゃん。嘘つき。誠の嘘つき。大嫌い」
そう言って、彼女はうつむく。
「大嫌いならそろそろその相手の話するのやめなよ。時間がかかるかもしれないけれど、区切りをつけてさー」
「区切りなんか、つかないよ」
そう言って、またスマートフォンを取り出そうとする。
その手を、涼香は掴んで無理矢理に止めた。
「だーかーらー。いい加減誠くん離れしなさいって」
「メールはしてもいいって言われた。文句を言い足りない」
「社交辞令だよ。迷惑だってば」
「私、迷惑?」
「別れた相手から延々メールが来たら、普通は迷惑だよね。相手は新しい相手を見つけてやってくんだから。あんたも新しい相手見つけな」
「新しい相手なんて考えられないよ~。四年間ずっと一緒にやって来たんだもん。これからもずっと一緒だと思ってたんだもん」
そう言って、真央はまた泣き始める。
涼香は溜息を吐きたいような気分になった。
誠の代わりに自分に依存されるようになったらと思うと、涼香もたまらない。
いや、既に依存されているのだろう。あえて涼香の前で誠にメールを送ろうとするのは、静止してほしいからだ。
仕方なく、コップの中の缶チューハイを口に含んで、今後のことを考えないようにした。
真央の悲観もわかる。真央は誠が大好きだった。誠のことばかりを見ていた。誠と多くの時間を共有してきた。互いに家族のような関係だっただろう。
それが一方的に切り捨てられた。
彼女は捨てられた子犬のようなものだ。元の家族を求めて寂しがることしか出来ない。
それを見捨てておけないのも涼香なのだった。
「まあ、しばらくは私が相手をしてあげるから。誠くんにだけはメールしないこと。約束して」
「……わかった」
このまま誠にメールをし続けたら、彼女は泥沼だ。手に入らない相手を求めて永遠に手を伸ばし続けることになる。それは誠にとっても真央にとっても良いことだとは思えない。
それから、すっかり涼香は真央につきっきりになった。
一緒に旅行に行った。一緒に温泉に行った。一緒にショッピングをした。
夏休みということもあって、時間には余裕があった。
旅行の宿の布団に寝ていた時、真央が呟くように言った。
「思い出って優しいよね」
「ん?」
眠りに入りかけた頭で、涼香は返事をする。
「思い出が優しすぎて、私は身動きが取れなくなっちゃってる。いくら過去に手を伸ばしても、届かないのに」
ポエムかよ、と思わず指摘したくなるが、それは我慢した。
真央はいつもこうだ。一人で盛り上がってしまう。
結局のところ、この時の彼女はまだ誠への未練を捨てきれていなかったのだ。
「初恋だっけ、あんた」
「お互い、初恋だった。運命だねって、二人で言ってた」
それは、多少は引きずるのかもしれない。
涼香は淡々と、彼女を冷静にさせることにした。
「それはね、誠くんを思い出にできていないんだよ。過去にできていないの」
「過去に、できていない?」
「引きずってるんだよ」
「じゃあ、どうすれば引きずらなくてすむようになるのかな」
「それは自分でタイミングを見つけるしかないんじゃないかなー。私だって付き合ってるでしょー。気分転換に」
真央が返事をするまで、しばし間があった。その間の心境は、涼香にはわからない。
「……そうだね、ごめんね、起こしちゃって」
そう言って、彼女はスマートフォンに手を伸ばし、しばらく眺めたら何も操作せずに元の位置に戻した。
少しは進展があっただろうか。そんなふうに思った夜だった。
そんな日々が続いて、自分の恋人に関しては後回しになってしまっていた。
恋人が訪ねてきたのは、真央が泣きつきに来てから十日ほど過ぎた時のことだった。
「よ、久しぶり」
急にやってきた彼を寝起きの顔で迎え入れる。
「どうしたのー? 急に」
「いや、久々に顔を見たくなってな」
「あー……そう」
そういえば、最近は真央に付き合いすぎて、自分の恋人を後回しにし続けていた。それに対する引け目は、確かにあった。
今日は付き合えない旨を真央にラインで連絡する。
真央は、流石に十日もすれば落ち着いてきたのか、それをすぐに了承してくれた。それどころか、最近は申し訳なかったと謝罪までしてきた。
心を落ち着ければ優しい子なのだ。だから涼香は、真央を見捨てられない。
誠に連絡を取らないように念を押しておいて、涼香はスマートフォンの電源をオフにした。そして、テーブルの傍の座布団の上に置いた。
「ちょっと寝起きだからシャワー浴びるよ」
涼香はそう言って脱衣所に入る。
「うん、わかった」
彼がそう返事をする。同時に、テレビの音が聞こえ始めた。
「そういえば約束してた映画、見に行けてないな」
脱衣所で服を脱ぎながら返事をする。
「ああ、今日は付き合えるから、見に行こっか」
「うん。それじゃあ時間調べとくな」
「お願いー」
そして、涼香はシャワーを浴びる。
この十日の疲れが溶けていくかのようだった。今の真央と一緒にいたら、気を使ってしまう。そんな状態で毎日を過ごすのは、流石に気疲れしたのだ。
それが、今日は恋人とのデートだ。真央は、開放されたような気分になった。
脱衣所に出て、体を拭き、着替えをすます。そして、居間に出た。
彼が自分のスマートフォンに視線を落としている。
「今、上映時間を調べてる」
おかしいな、と涼香は思った。上映時間のチェックぐらい、涼香がシャワーを浴びている間に済ませてしまえそうなものだ。
そして、真央に少し連絡を取ってやるかと思い、自分のスマートフォンに視線を落とす。
すると、置いたはずのその場所にスマートフォンがなかった。
シャワーを浴びに行く前、涼香はスマートフォンを座布団の上に置いたはずだ。それが、周囲を見渡すと、テーブルの上に移動している。まるで投げ出されたように、斜めに置かれている。
触れてみると、切っていたはずの電源が入っていた。
直感的に、涼香は何が起こったかを察した。
「……見たでしょ」
「ん、何をだ?」
彼は、自分のスマートフォンに視線を落としたまま動かさない。
「私の、スマートフォン」
「見てないよ」
「嘘。位置がずれてるし、電源が入ってる」
沈黙が部屋に漂った。
嘘が下手な男なのだ。彼のそんなところも、涼香は気に入っていた。しかし、今の状況では話が別だ。
涼香の心の中にあるのは、静かな怒りだった。
「そんなに私を信じられなかったんだ?」
「見てないって」
「往生際が悪いわよ。私はスマートフォンを座布団の上に置いた。それがなんでテーブルの上に移動してるの」
「ちょっと着信があったから、代わりに出ようかと思ったんだよ」
スマートフォンをチェックする。着信の後はない。
「出て行って」
涼香は、静かに告げていた。
「プライバシーを尊重できない人とは、一緒に居られない」
「それは、先走り過ぎだと思うけど……」
「多分、この先無理が来る」
「先走り過ぎだって」
彼が気まずげな表情で歩み寄ってくる。涼香は、後ずさった。壁際に、追い詰められる。
腕力では彼が圧倒的に上だ。もしも力に訴えられたら、涼香は一溜りもないだろう。
だから、涼香はただじっと彼を見つめていた。静かに、真っ直ぐに見つめていた。
そのうち、視線を逸らしたのは彼だった。
「こんなことで、終わりなのかよ」
「私は、プライバシーを守れない人とは無理だと思う」
「最近お前が約束破ってばっかりだったのは事実じゃないか」
「それは悪かったと思うけれど、話が別」
沈黙が流れる。二人は壁際で、向かい合い続ける。
そのうち、彼は涼香に背を向けた。
「俺も、恋人放置してばっかの奴とかわけわかんねえよ」
そんな安っぽい捨て台詞を残して、彼は去って行った。
こんなちっぽけな男だったのか。拍子抜けしたような思いで、涼香は扉が閉まる音を聞いていた。
その台詞さえなければ、涼香はまだ彼に対して交渉の余地を残したかもしれない。けれども、涼香の気性とその台詞は相性が悪すぎた。
終わったのだ、という思いがあった。
翌日、真央がまた訪ねてきた。
「飲もうよ」
涼香は、それを見て微笑んでいた。
「待ってた」
早速、酒盛りが始まる。今日は酔い始めても、誠の話は出てこない。良い兆候だ、と涼香は思う。
「今度はもっと友達誘って旅行に行こうか」
「うん、いいね」
真央は上機嫌で同調する。
「コンパなんか開くのもいいかもね」
「……涼香ちゃんは恋人居るじゃない」
真央は苦笑交じりに言って、コップに口をつける。
「別れた」
淡々と告げた涼香の言葉に、真央が目を丸くした。
「私のせい? 私が涼香ちゃんを束縛したから?」
「関係ないよ。元々性格的にあってなかったんでしょ。多分もう無理だって別れ方しただけ」
「涼香ちゃんは、引きずらないんだね」
「……まあ、一々引きずってたらキリがないからね。男なんて星の数ほど居るさ」
「羨ましいな。私は、相手に一途になっちゃうから」
その、自分は一途であるという認識が自己陶酔的なように涼香には映る。一人で盛り上がって、そのうちそれが暴走に繋がる。それが、彼女の悪い癖だ。
「あんたもそうだよ。どんなに楽しいことがあっても、思い出にしなきゃいけないんだよ。私達が学業を終えて社会人になるように、全ては過去になっていく。延々続いたゲームのシリーズ物だって、映画のシリーズ物だって、全ては思い出になる。それにしがみついてたら、新しいものを吸収できなくなってしまう。私達は目の前に現れる次の選択肢の中から選んでいくしかない。人生にはアクセルはあってもバックはないんだ」
「アクセルはあっても、バックはない、か……」
真央はしばらく考えこんだようだった。
「思い出に、しなくちゃいけないのかな」
「思い出にしなくちゃいけないんだよ」
涼香は、淡々と言う。
「相手だって、新しい相手を見つけて人生を歩んでいくんだ。しがみつかれても迷惑さ。相手が好きなら、好きなだけ、きちんと手放してあげるべきだよ」
「好きなら、好きなだけ、手放してあげるべき……」
真央は、しばらくコップにも手を付けずに考えていたが、そのうちスマートフォンを取り出した。
そして、親指を動かして操作をしていく。
「ちょっと、あんた。また誠くんにメール送ろうとしてるんじゃないでしょうね」
「うん、送ろうとしてる」
真央は、躊躇いのない表情でそう言った。
流石に涼香は、顔をしかめた。
「ちょっと、あんたー……」
自分の長話は全く意味を成してなかったということだろうか。それはそれで、この友人に対する認識を改めなくてはいけないかもしれない。
「手を放すねって、連絡をするんだ」
真央の瞳からは、また涙が滲んでいる。
色々な思い出があったのだろう。色々な約束があったのだろう。それを、彼女は過去のものにするという決意を持った。
それは、褒めてあげても良いものだと涼香は思うのだ。
「……そう。そっか」
涼香は両手を後方において、体重を預けた。そして、片手を上げて、スマートフォンを取り出す。
「私も元彼君に、別れようってメール送るわ」
「そっか」
二人して、無言でスマートフォンを操作する。
その日、涼香と真央は、二人ぼっちになった。
けれども、将来に対する不安は微塵ともなかった。
そして秋が来て、冬が来た。
卒業式の日が近づいて来た。
涼香の部屋に、二人は集まっていた。テーブルを囲んで二人は座っている。テーブルの上には、紅茶の入ったカップが二つ。
「結局、あんたとばっかいたわねえ、大学生活の終盤」
「お互いフリーで暇になったんだし、そういうのもいいよね」
「よかーないわよ。あんた、一人でやっていけるの?」
「思い出に変えていかなきゃいけない、でしょう? それでも、私達は友達だけれど」
彼女とも随分思い出ができた。一人ではいられない真央と、暇な涼香は、一緒に遊ぶには丁度良かったのだ。
「……思い出の中から手を伸ばして引っ張りだしてあげるわよ」
そう言って、涼香は微笑んだ。
真央も、微笑む。
穏やかな時間が、二人の間には流れていた。
全ては、過去になっていく。今日も涼香達は、毎日を歩んでいく。
久々に短編をアップしてみました。
こんなこと書いていつつも別れたのにくっつくカップルとかも結構書いています。
ダブスタなのです。