白昼夢
「フランス語で白昼夢という意味だよ」なんて言われても、わたしには何のことだかわからない。
最近、友達グループで流行りのお店の名前のことだ。いったいいつからだろう。気付いたらみんな、その聞き慣れないフランス語を会話に織り交ぜるようになっていた。一年後には会話のすべてがフランス語になっているかもしれない。そうなったらお手上げだ。わたしの語学力は英会話教室の幼稚園児コースで止まっている。
どうやら校区の外にあるお店らしい。ミクたちの話を聞いているだけだと雑貨屋なのかアパレルショップなのかまるで判別がつかない。あるいはその両方が一つの店舗に入っているのかもしれないし、本当はまったく無関係な業種なのをわたしが勘違いしているだけかもしれない。疑いはじめると、そもそもその実在すら疑わしくなってくる。この目で確かめたい気持ちもあるけれど、そんなつかみどころのない理由で、お父さんが校区の外に出してくれるとは思えない。白昼夢の正体は霧の中だ。
その日もみんな白昼夢の話題に夢中だった。三限目の休み時間。朝からずっと続いた運動会の練習が終わって、最初の休み時間だった。一年生からの習い性で、わたしもミクの席に向かったけれど会話の中には入れそうもない。自分が生来の弱視であることに感謝するのはこんなときだ。眼鏡の掃除で時間が潰せる。年季の入ったべっ甲フレーム。ウェットタイプのクリーナーとクロスを使って優しく丹念に磨いてあげると、きゅっきゅっと気持ちのいい音で孤独を慰めてくれる。
とはいえ、ものごとには限度がある。花だって水をやりすぎれば枯れるし、眼鏡のレンズだって磨きすぎれば摩耗する。ついこの間、そのことでお父さんに怒られたばかりだった。勉強部屋に閉じ込められるのはもうごめんだし、他に間を持たせる方法があるのなら教えてほしい。
そんなことを考えていると、不意にミクの言葉が耳に引っかかった。
「今日夢を見たんだけど……」
わたしは息を呑んだ。ミクは疑う余地なく「夢」と発音した。あの訳のわからない店の名前でもなければ、コスメやアイドルの名前でもない。その事実が、わたしの意識を眼鏡から引き剥がした。
連日練習が続くせいだろう、運動会の夢だった。組体操のパートナーが欠席し、ミクはなぜか隣のクラスのイケダ君と組まされてしまう(男女のペアなんて夢の中でしかありえないことだ)。肩車、サボテン、補助倒立。演技はつつがなく進行したが、ミクはずっと落ち着かなかった。自分の足を支える手がやけにじっとりと湿って気持ち悪かったからだ。その感触の生々しさが、朝からずっと消えないのだという。
「何それ、無理」オクダさんが真っ先に反応した。まるで、湿った雑巾を嫌がるような口調だ。
「でも、夢に見るなんてイケダ君が気になるんじゃないの?」別の友達さんがそうはやし立てる。
「えー、そうなの? ミタニ君から浮気?」
「違うってば」ミクは少し困ったような声音で言った。それから急に、「■■はどう?」
「え?」急な問いかけだったので、わたしは慌てて眼鏡をかけなおした。視界が澄み渡ると、こちらを振り向いたミクと目が合った。
「夢は見た?」ミクが優しく問いかける。
そのパスを待っていなかったと言ったら嘘になる。ミクはいつもわたしに気を遣って話題を回してくれるのだ。
「夢かあ」わたしは眼鏡をいじりながら言った。「まあ、見たよ」
そこでいったん間を置く。自分の話をしていいのか判断するためだ。わたしだってそれくらいの配慮はできる。みんなの視線がわたしに向いていること、誰も口を挟んでこないのを確認してから、わたしはようやく口を開いた。
「大きいお城なの。周りはこのあたりの街並みなんだよ。ちょうどさっちゃん家の近くかな。そう、あの大きな駐車場のあたり。そこに洋風のお城が建ってるの。おかしいよね」
わたしは続けた。自分は独房みたいな部屋にひきこもって鏡を相手におしゃべりすること。そこに訪れるぱっとしない王子様のこと。瞬きする度に形を変える世界のこと。
話しながら、疑問が次々とわいてきた。この夢は何を意味しているのだろう。お城は? 男の人は? いったい何のシンボルなのだろう。帰ってから考えなければならない。いや、次の休み時間にでも考えよう。夢ノートは今日も他のノートや教科書と一緒に持ってきたはずだ。記憶が薄れないうちにディテールを細かく記録してその意味するところをなるたけ明瞭にしなければならない。頭でそれだけのことを考えながら、口ではずっと夢のことを話しているのだから、われながら器用なものだと思う。
むかしからよく夢を見た。枕元にはいつもノートがあって、起きてすぐ内容を書き留めるようにしていた。わたしの一日はそうしてはじまる。朝食のあともう一度ノートを読み返してからランドセルに突っ込み、学校に向かう。夢の話を友達はいつも興味深く聞いてくれた。「白昼夢」や男の子の話にはついていけなくても、そうやって話の輪に入ることができた。そう思っていた。
その日、オクダさんから指摘を受けるまではずっと。
「■■さんってさ」わたしが話し終えた後、彼女は言った。「夢について話すときが一番生き生きとしてるよね。まさに夢心地ってやつ?」
「何を動揺する必要がある? 君は夢が好きだ。そうだろう? スポーツやアイドルが好きなのと何が違う? 友達にもはっきりそう言ってやればいい」
「顔なし」は励ますように笑った。彼――と言っていいのかわからないけど――はいつも違う顔をしている。家族、友人、タレント、スポーツ選手、歴史上の偉人、わたしがまったく知らない顔を貼りつかせていることもあった。それでも、わたしには一目で彼だとわかる。あるいは、わたしがそう決めた時点で彼は彼になるのかもしれない。何せ夢の中のことだ。たしかなことなんて何一つ存在しない。その日の彼はむかし通っていた英会話教室の先生の顔をしていた。ジム先生だ。ミクの初恋の相手だからよく覚えている。背が高くて、サファイア色の瞳にはいつも理知的な光が宿っていた。
「言えるわけないよ」わたしは言った。
「かわいそうに」顔なしは心底同情するように言った。「馬鹿にされた気がしたんだろう。それで自分を見失っているんだ。君は繊細な子だから」それから、顔なしは急に語気を強めた。「だから、言っただろう。あのオクダって子とは付き合うなって。あの子はいけない子だ。狼の子供だよ。子供のくせにめかし込んで、まるで商売女じゃないか。純朴な子羊がかかわりを持っていい相手じゃない」
「友達を悪く言わないで!」
「嘘を言っちゃいけない」顔なしは優しく諭すように言った。「あの子は君のことを友達だなんて思っていない。君だってそうだろう。お互い、相手をグループから追い出したくて仕方ないはずだ。ミクがあんな子を連れてこなければ……いまでもそう思っているはずだ。そうだろ?」
それは鋭い一撃だった。オクダさんとは五年生のクラス替えで一緒になった。その手のことに疎いわたしでも一目でおしゃれとわかる女の子だ。ファッションやコスメに詳しくて、いつもきらきらした雰囲気を振りまいている。同じクラスになってすぐ、思ったものだ。自分とはなんと縁遠い存在だろう、と。
「それは、オクダさんと二人きりで話せなんて言われたら困るよ?」わたしは正直に言った。「共通の話題なんて何もなさそうだし。でも、友達ってそういうものでしょ。話が合わない子の一人や二人はいるのが普通だよ。いちいち喧嘩してたら周りに誰もいなくなっちゃう」
「なるほど。それが素晴らしき友達付き合いってやつか」顔なしは皮肉っぽく言った。
「あなたにはわからないんだよ。わたしたちのことなんて」
「そうかもしれない」予想に反して、顔なしはあっさり認めた。「ああ、そうさ。僕はこの世界から出られない。友達と待ち合わせて登校することもできなければ、牛乳の早飲み競争もできない。運動会で順位を競うことも、修学旅行の夜に好きな人を打ち明けることも。もちろん、その気になれば夢の中で再現することはできる。でも、そんなのはマッチ売りの少女が見たような儚い幻想、一時の夢だ。君たちの事情なんてわかりっこない」
ジム先生の顔が悲哀に歪む。わたしがどうしてもRの発音ができなかったときと同じ顔だ。その顔を見ると、いつも自分がとても悪いことをしている気分になった。自分が世界で一番愚かな子供であるかのように思えた。
「そんな顔をしないで」わたしは顔を背けながら言った。「わたしだっていつまでも子供のままじゃいられないの。いつか恋だってするだろうし、メイクだってするようになる。あなたとばっかり遊んでもいられない」
そうだ。そうなのだ。いつまでも夢の話ばかりしていたんじゃまたからかわれてしまう。今回はオクダさんだったけれど、今度は別の誰かかもしれない。あるいはミクかも。
「本当に? 本当にそう思ってる?」顔なしはこちらを振り返った。それから、大げさに手を広げて訴えを続ける。「友達っていうのはそこまで大事なものかい? 自分に嘘をついてまで守らなきゃならないものかい? 僕はどうなる? 僕だって友達だろう。君の一番古い友達」気づけば、すぐ目前にジム先生の顔があった。長い脚を折りたたみ、わたしに目線の高さを合わせている。驚く間もないまま、顔なしはわたしの手を取り、こうささやいた。「いや、友達よりももっと大事な存在だ。そうだろう? お姫様」
完璧な発音の「princess」に背筋がぞっと粟立った。
ずっと一緒だったのに、どうしてだろう、ときおり彼のことが怖くてしょうがなくなるときがある。日中、ふとした瞬間に彼のことを思い出して背後を振り返ることがある。もちろん、そこには誰もいない。いたとしても、それは顔なしではない。そのはずだ。彼は特定の顔を持たない。誰でもなくて、誰にでもなり得る。その気になればどこにだって潜り込めるし、四六時中わたしを観察することも可能なはずだった。その可能性を否定することは、誰にもできない。
ミクに頼んで例のなんだかわからないお店に連れて行ってもらうことにしたのは、その数日後のことだった。
「校区の外だよ、いいの?」
ミクの声を落として尋ねた。
「わたしだってもう五年生だよ」わたしはあえて冗談めかして言った。「校区の中で飼い殺しにされたんじゃ、息が詰まっちゃう」
最近は二人きりになるだけでも一苦労だ。朝から機会を窺っていたのに放課後までまるで隙がなく、ようやっとオクダさんたちがいなくなった頃には、もうわたしの家のすぐ手前まで来ていた。「じゃあね」という言葉を遮って用件を切り出す。ミクは驚いたようだった。鶏が飛んだってあんな驚き方はしないだろう。ミクはしばし呆然とした後、今度は周囲を見回し、それから傘がぶつかる距離まで寄ってきてひそひそ声で話しはじめた。わたしの家を避けるようにして、同じ小路を何度も往復する。まるでスパイの密会だ。曲がり角の理髪店で、主人のおじさんがいぶかしむような目線を投げかけてくるのがわかった。
ミクは、小学校に上がる前からの友達だ。近所の英会話教室で隣同士になって以来、ずっと一緒にいる。きっかけは眼鏡だった。「眼鏡かけてるのわたしたちだけだね」小柄な女の子がそう話しかけてきたとき、わたしたちは友達になった。以来、クラスで「眼鏡の二人」と言えばそれはわたしたちのことだった。
ミクがコンタクトレンズに鞍替えしたのは、オクダさんの後押しによるものだった。オクダさんに出会ってからというもの、ミクは一足飛びに大人の階段を上って行くような気がした。門限は延びたし、「白昼夢」にだって頻繁に足を伸ばす。わたしが勝っているのは身長だけだ。それだっていつ逆転してもおかしくない。胸が膨らみはじめたのだって彼女の方が先だった。
うらやましかったわけじゃない。妬ましかったわけでも。ただ、ほんのちょっと悲しかっただけだ。そして何より、そのことを負い目に感じているらしいミクを見ていると胸を締め付けられる思いになった。わたしはきっと、ミクの負担になっている。その事実が、何より堪えた。わたしみたいに陰気な人間がそばにいることで、ミクの印象を損ねているとしたら、わたしには耐えられない。彼女の友人として、恥じるところのない存在になりたかった。笑い者にされることのない存在になりたかった。そのためにも、わたしは「白昼夢」に行かないといけない。
「わかった」
ようやくミクが折れたとき、雨はすでに小降りになっていた。
「じゃあ、今度の土曜日ね」
そう約束して、別れた。理髪店のおじさんに見せつけるようにして、大げさに手を振って見せる。ちらりと窺うと、おじさんは興味をなくしたように手元の新聞に目線を落としていた。
「いいのかな。お父さんの言いつけを破って」その夜、顔なしは言った。「いまの君はどうかしている。こんなのは全然君らしくないよ」
顔なしの言いそうなことだ。長い付き合いだから、そのくらいのことはわかる。だけど、もう相手にしない。わたしは理髪店のおじさんの顔から目を背けた。
「本当は興味なんてないくせに」顔なしは急に無表情になって言った。「そうだろ? そのお店の名前だってすでに忘れているはずだ」
我慢しろ、と言い聞かせた。ここでむきになったら顔なしの思うつぼだ。
「あくまで無視するつもりか。いいだろう。君がその気ならこっちにも考えがある」
その考えがどのようなものかはすぐわかった。
その日は、三日ぶりの晴天だった。グラウンドで組体操の練習ができるとあって、先生たちは朝からご機嫌だった。職員室にてるてる坊主を吊るして晴天を祈っていたという話は本当だったのかもしれない。運動会はいよいよ来週末だ。先生たちはみんな熱が入っている。わたしだって、お父さんの目の前で失敗するのはごめんだ。練習には全力で取り組む。グランドが多少ぐずついていたってやる気をそがれたりはしない。その意気込みに水を差すようにして、それははじまった。
最初に違和感を覚えたのは、一人技から二人技へと移ったときのことだった。一瞬、相方のアソベさんの体が二つにちぎれて左右に分かれたように見えたのだ。驚いたせいで、演技がワンテンポ遅れてしまった。わたしたちのトンボは慌ただしく見えたことだろう。アソベさんに軽く睨まれたので、錯覚のことはすぐに頭から追いやられてしまった。
違和感はその一回で終わりじゃなかった。アソベさんの倒立を受け止めたとき、目の前の足が四本に増えて見えたのだ。白い靴下と日に焼けたくるぶしがそっくり四本。わたしの腕も四本あった。思わず手を離しかけて、やはり後でアソベさんに睨まれた。軽くぶたれたけど、今度はそれどころじゃなかった。
何が起こっているのかわからなかった。レンズを磨きすぎて度数が変わってしまったときのことを思い出す。視界が微妙に歪み、水彩画のようにぼやけて見えた。二度の幻は、その感覚と似ているようでどこか違っていた。どちらかと言えば、夢だ。夢を見ているときの感覚に近い。
わたしの戸惑いをよそに、演技は進行していく。二人技から三人技へ。五、六年生が横一列に並んだ様はさぞかし壮観だろう。失敗すればそれだけ目立つ。集中しなければならない。さっきのきっとただの錯覚だ。他の女の子たちと合流しながら、わたしは自分に言い聞かせた。顔なしの言葉を気にするあまり、神経がすり減ってていたのだろう。そうであってほしい、と祈るような気持ちで演技を続けた。
扇、飛行機ときて、最後は三人タワーだ。向かいの女の子と腕を組み合わせて、アソベさんが上るための土台を作る。上の子が肩に足をかけたその瞬間、三度その感覚が訪れた。女の子の膝小僧が四つ。目線を上げると、左右にダブった顔と目が合った。サファイア色の瞳が四つ。やがてそれが重なって一対に戻り、ジム先生の顔が現れた。
「やあ、迎えに来たよ」
心臓が跳ね上がって口から飛び出しそうだった。どうしてここに――そう叫びたいのを堪えて、青い瞳をねめつける。顔なしは動じなかった。それどころか、ハリウッドスターがファンの子に送るようなウィンクを返し、彼と組んだままの腕をそっと撫でてきた。
「驚かせてごめんよ」顔なしは上目遣いに言った。「でも女の子はサプライズが好きというからね」
ジム先生の吐息が頬をくすぐる。肘のあたりでは、彼の手が撫でたり揉んだりを繰り返していた。できることなら、いますぐ腕を解いて逃げ出したかった。アソベさんを振り落としたってかまわない。なのに、どうしてだろう、その場で固まって動けなかった。
約束の土曜日、ミクはわたしと顔を合わせることなく家を辞した。塾の宿題がたくさんあるのだと、お父さんは玄関で説明した。中学受験の意義、過酷さ。志望校の偏差値と、最近のテスト結果。そんな話が勉強部屋にも漏れ聞こえてきた。
あの日以降、わたしはしばしば白昼夢を見るようになった。授業中や組体操の練習中、宿題をしているときや食事の最中でさえ、顔なしは他人の顔を乗っ取りわたしの前に現れた。危害を加えられることはない。ただ、ちょっとしたサプライズを手土産に現れ、コミュニケーションを求めてくるだけだ。それだけでどうしてこんなに恐ろしいのか、わたしにはわからなかった。
どうして世の中にはこんなにも多くの顔があるのだろう。
友達、学校や塾の先生、家族、街ですれ違う無数の人々。わたしは顔を伏せるようにしてやり過ごす。友達からは心配され、お父さんからは目を見て話せと怒られた。でも、それが顔なしの罠ではないと誰が断言できるだろう。彼らの言葉に従って、顔なしの邪悪な微笑みに対面したことは一度や二度のことじゃない。一人になれるのは、勉強部屋に押し込められているときだけだ。あの独房みたいな四畳半が安らぎの場所になるなんて思いもしなかった。もはや、夢を見るのも恐ろしい。睡魔と戦いながら参考書や問題集に向かうのが習慣となりつつあった。
週末に運動会を控えたある日のことだった。顔を伏せながら、ちらと横目で伺うと、友人たちは今日もオクダさんを中心に盛り上がっている。その彼女が話しかけてきたのは、お昼休みのことだった。
「今日はしないの?」半ば嘲るような口調だった。「夢の話」
彼女はもはやわたしへの悪意を隠そうともしていなかった。
「あんたさ、暗いんだよね。自分の話しかしないし」
心臓をぎゅっと握られた気がした。鼓動が早まり、息がつまりそうになった。
そこで、ミクが割り込んできた。「リナ、やめなよ」
「もういいでしょ、ミク」オクダさんは振り返りもせず言った。「ミクはよく我慢したと思うよ。こんなのと五年も一緒にいたんだから。あたしは半年でもムリ」
「我慢とかそういうのじゃないよ。友達なんだから」
「だから、そういうのはもういいんだって」オクダさんは語気を強めた。「八方美人って言うの? ミクのそういうとこ嫌いだよ。裏ではいつもこいつと手を切りたいって言ってるのに」
「言ってない!」ミクはわたしに向き直って言った。「言ってないよ、わたし」
「うん」わたしは頷いた。ミクと出会ってから、いつもそうしてきたように。
「信じてくれる?」
「もちろん」その言葉が真実らしく聞こえることを願った。ミクのことはオクダさんよりもずっとよく知っている。ミクは風向きを読む子だ。周りに合わせて、わたしの悪口を言うこともあるのだろう。想像すると胸が少し痛むけど、それはあくまでお追従であって本心ではない。ミクはきっと口にする度に心を痛めているはずだ。そのことを思うと、むしろわたしの方が申し訳なくなってくる。
頭がぐらぐらしはじめてきた。眼鏡を外して、掃除をはじめる。視界がぼやける。そこにはもはや、ミクもオクダさんもいない。壁の染みのように曖昧な何かがあるだけだ。ここまで来れば、わたしは安全だ。そのはずだった。
「むかしからいつもそう」それは、どこか懐かしい声だった。「自分に都合が悪くなったら、すぐ眼鏡をいじりはじめるよね」
そこに立っていたのは、眼鏡の女の子だった。背格好からして低学年だろう。絵具をぶちまけたような混沌の中で、その一点だけがくっきりとした輪郭を持っていた。
その顔には見覚えがある。
「ミクなの?」
ミクは無視して、
「そうしたら同情が引けるとでも思ってる? 弱い自分を誰かが守ってくれるとでも思ってる? ジム先生のときみたいにいつも大人がころっと引っかかってくれると思う?」
なぜ急にジム先生の名前が出てくるのだろう。ミクが何を仄めかしているのか、わたしには理解できなかった。
「逆効果だよ。眼鏡を取ったって全然かわいくない。むしろ、眼鏡をかけてる方がまだまし。眼鏡を外したあんたはバケモノだよ」
「何を言ってるの?」
「わたしはずっと後悔してた」ミクは続ける。「あの日、あんたに声をかけたことを」
嘘だ。声に出して叫びたいのに、言葉が喉に引っかかって出てこなかった。
「自分が金魚の糞だって自覚はある? わたしの真似ばかりして、わたしがほしいものをほしがって。わたしがどれだけうんざりしてきたか」
ミクはわたしににじり寄った。眼鏡の向こうで、幼い瞳がわたしを睨めつけるようにして見上げていた。
「ねえ、どうしてなの。どうして真似ばかりするの。どうして先生を取ろうとしたの」
「わからないよ。ミクが言ってることわからない」
世界が二重写しになる。ああ、これは夢なんだと思った。気にするな。ただの悪夢だ。これよりひどい夢はいくらでも見てきたじゃないか。いま喋ってるのは本物のミクじゃない。顔なしだ。彼が化けているに違いない。
「幻とでも思ってる? 夢とでも思ってる? 違うよ。これがわたしの本当の気持ち。嘘偽りない真実なんだから」
誰が騙されるものか。
お前は顔なしだ。
次の瞬間、ミクが吹っ飛んだ。悪夢にしてはぬるいものだ。次に、ミクのわき腹に足が食い込み、髪の毛が引っ張られ、そのまま窓際に引きずられていった。窓がひとりでに開き、風が吹き込んでくる。ミクの顔が窓から外に引っ張り出される。わたしは彼女が転落するか、窓ガラスによって首をはねられるかするだろうと予感した。だが、次の瞬間にミクは教室の中へと引きずり戻されていた。気づくと、後ろから羽交い絞めにされている。顔がぼやけて、誰かわからない。そのときはじめて夢じゃなかったことに気づいた。
「やっと二人きりになれたね」
顔なしはわたしの髪をなでながら言った。
「このときをずっと待っていた。君が、本来の君に戻る日を」
運動会当日のお昼だった。学校から近い我が家には、朝からずっと運動会のアナウンスが届いていた。
「もうあんなところに戻る必要はない。あんな嘘偽りだらけの場所には。君にはもっとふさわしい場所がある」
わたしは耳をふさいだ。しかし、声は手をすり抜けるようにして、頭の中に直接響いてきた。
「お姫様にはお姫様にふさわしい場所がある」その瞬間、身体がふわりと持ち上げられるのを感じた。「さあ、僕の城に案内するよ」
その瞬間、大きな音が聞こえた。何かが軋むような音が。やがて部屋が消え、わたしが消え、巨大な城門が目の前で閉じるのが見えた。