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箱の中


 冬の冷たさに抱き締められているけれど、仕事帰りに目眩に襲われ手が痺れるように震えてしまい、少し休むために通りかかった公園へ寄った。

 あっと言う間に夜に染まる。

 市内で一番大きな公園には、ウォーキングやジョギングのための道があって、夜でもちらほらと利用者を見掛けた。その道のそばにベンチが置いてあって、私はそこに腰を下ろして夜空をぼんやりと眺めていた。

 特に空を遮るような建物がない街だから、公園を囲む木々が縁のようになって私の目に夜空が映る。その夜は、三日月がぼんやりと浮かんでいた。


「君は、なにを視ているの?」


 ふと、声が聞こえてきて、つい顔を向けてしまった。

いつの間にか、隣には男の人が座って、私に笑いかけていた。

 まだ他の人が利用者している遅い時間ではない夜だから、私もぼんやりとしていたのだけれど、声をかけられるとは思わなかった。知らない人と喋るほど、社交的ではない私は、すぐに顔を背ける。でも、無視をすることは少し罪悪感を覚えてしまい、私は答えた。


「月、です」


 か細い声だったから、ちゃんと彼に届いたのか、不安だ。

よく人に聞き返されてしまうから、時々私の声は聞き取りにくいくらい小さすぎるのかもしれないと疑う。

でも、彼には届いたらしい。


「んー……それはどうかな」


 妙なことを言うものだから、私はもう一度隣の彼に目を向けた。

薄暗くてはっきりしないけれど、長身で黒髪の男の人は黒っぽい服に身を包んでいて、暗闇に溶けてしまいそうに思えた。でも肌は色白いと、薄暗くてもわかった。

 離れた街灯のせいか、月明かりのせいか、私に向けられた瞳の色をよく覚えている。

 まるで硝子玉のような光を放つ藍色だった。


「君はもっと、月よりも遠くを見ているように見えるよ」


 彼のそれは、言い当ていた。

 月を見上げていても、私は……――――多分、月を見つめてなんかいなかった。ぼんやりとしていた。私は、なにも見ていなかった。


「どうして?」


 私よりも歳が上に見える男の人は、とても子どものような無邪気な笑みを向けて首を傾げた。

 それが私と"彼"が初めて口を交わした夜。


 昔から私はどうしても、ぼんやりしてしまう子どもだった。

 両親はいる、兄妹もいる、友だちもいる。でもふとした瞬間、そばに誰かがいても孤独に思えた。ふとした瞬間、楽しさが嘘のように消えてしまうこともあった。ふとした瞬間、幸せというものと無縁に思えてならなくなる。ふとした瞬間、何故自分がここにいるのかわからなくなってしまう。

 まるで箱の中にいるように、世界が遠くに感じて、酷く寂しい人生で、時折壊れてしまいそうだと思ってしまう。


 そんな私を、一目見て理解したようにいう彼に妙な親近感を抱いてしまったらしく、それ以来毎晩会うようになった。会いに行くようになった。

 名前は知らない。互いに名乗らなかった。名前を知らない方が、いいと私は思っていた。

 月が出ている時だけの、泡沫の一時であってほしかったんだ。

幻のように儚くとも、優しく惑わしてほしかった。

 その公園の隣には神社があって、墓もある。戦争の慰霊碑もあって、正直そこには近付けない。だからそういう存在が出ていてもおかしくなくって、そうであってほしかったんだ。

泡沫の癒しで、あってほしかった。

 実在する人間にまた悲しい思いをさせられることは、嫌だったから。あのふとした瞬間がこない、泡沫の一時。


「貴方は人をよく見ますね」


 三日月がほんの少しだけ太った夜。私は膝を抱えて、"彼"に言ってみた。

 月明かりが強くなって、彼の顔は最初の晩よりよく見える。整った顔立ちをしているけれど、どこか輝きに欠けたように感じた。それは彼がいつも同じような黒い服を着て、無造作に長めの髪を垂らしているせいか。地味、と表現するとぴったりなのかもしれない。黙っていると、まるでそこにいないと思えるくらい、大人しすぎる雰囲気をした人。

 それはまるで夜空に浮かぶ月だ。輝きを纏う美しいものだけれど、淡い。太陽の輝きとは別、強くもなく眩しくもない。彼は、月みたいな人。


「僕がかい? そうかな……ただ、自然と見ているだけだけれど」


 彼は、少し可笑しそうに笑う。

彼にとって、自然なことらしい。

 私が月ではなく、もっと遠くを見つめていたことを、言い当てたことが。

今まで、誰にも指摘されたことがなかった。誰も、視線の先なんて気にしなかった。


「君がなにを視ているのか、気になったんだ」


 そう言って笑うけれど、私は答えられなくって苦笑を溢す。

 強いていうなら、私はなにも見えていないから。


「ほら、また遠くを視ている」


 公園のグラウドの奥にある遊具になんとなく目を向けてぼんやりしたら、言われてしまった。


「どんな風に見えますか?」


 その時の私は、どんな風に見えるのか。彼に訊いてみた。


「まるでなにも視えていないようにも見えるよ」


 すんなりと答えた彼の言葉は、まるで一筋の月明かり。箱の中の私を、照らす。淡くとも、心地のよいもの。


「……貴方は、普通の人と違う見方をしますね。まるで……」


 人じゃないみたい。

その言葉は飲み込んだ。


「世渡り上手なのに、あまり人と接してこなかったようにも思えます。だから……先入観がなく、見ているように思います」

「え? どうして、わかったの? すごいね、君の方が人をよく見ているよ」


 彼は無邪気に笑って驚いてくれた。大袈裟にも思えるけれど、照れてしまった私は俯く。


「うん、僕ね、あまり人と接して来なかったんだ。でもいつも眺めていたんだよ」


 優しい声音で、彼はそう答えた。

膝を抱えた腕に頬を擦り寄せながらも、私は彼を見てみた。ただ笑っているから、私もそっと笑い返す。

 彼にとって、私は数少ない話し相手。勝手ながら、自分が特別に思えて嬉しかった。


「……箱の中にいるみたいに、世界が遠くに感じるのです……」


 だから、彼に話してしまう。

 普段は、あまり深く自分の話をしない。長話にならないように、簡潔に話す。自分の気持ちさえも削るように、省略してきた。

時には嘘もついた。大丈夫、なんでもない。

 でも、彼は違う。

静かな夜にベンチに座っているから、落ち着いて話せていられる。ゆっくりと穏やかに、言葉を紡ぎ出せた。


「なにも視えて、いない気がします……」


 自分の気持ちを削りすぎて、自分の話は希薄に思える。それでも、自分に唯一できる話だから、精一杯答えた。


「ふぅん……。じゃあ」


 彼は、ほんの少し空いていた隙間を埋めるように、私に寄り添ってきた。


「こうして寄り添えば、同じものが視えるかもしれないね。箱の中で何も視えないのなら、僕が蓋を開けるよ」


 そう言って、彼は夜空に向かって右手を上げた。箱の蓋を開けるように。


「ねぇ、教えてくれる? 君の目に映るもの」


 私のすぐ隣で、私を覗き込むように、笑いかける彼の瞳は、ほんのりと光っているように感じた。

 夜空に浮かぶ月のように。

硝子玉のような藍色の瞳は、月のように優しい光だった。

 優しい一筋の光が射し込んでいる。だからもう箱の蓋は、彼が開けてしまったのだと思う。


「私……目が悪いから三日月が霞んで視えるんです。でも、その霞む月が……まるで睡蓮のようにも見えて……夜空に睡蓮が浮かんでいるようで素敵に思えるんです」


 霞んだ視界に映る月の睡蓮。それは錯覚でも、幻でも、素敵で見とれる。

 不確かなものでも、素敵だと眺めていたかった。

こうして、名も知らない彼と話すことも……


「夜空に浮かぶ月の睡蓮……素敵だね」


 彼は目を閉じて想像した。そして見とれるように、微笑んだ。

寄り添って、共感してくれる。

それが嬉しくって、私は微笑みを溢した。



 半月の晩。

隣に座る彼は黒いハイネック、その上に黒っぽい羽織を着ていた。

その晩の羽織には、揚羽蝶が描かれていることに気付いた。半月のおかげだろう。上質そうで、触ってみたくなった。


「あの……羽織に、触ってもいいでしょうか?」


 許可を求めてみると、彼は首を傾げたけれど、すぐに笑顔で頷いてくれる。

 そっと、ベンチの上の羽織に触れてみた。ラメのようにざらついた感触。赤色が散りばめられた美しい揚羽蝶だ。夜空を舞う揚羽蝶みたい。


「僕も触ってもいいかい?」

「え? ……いいですけど」


 私はデニム素材のトレンチコートを着ているだけなのに、どうして触りたがるのだろうか。不思議に思いつつも私は頷いた。

 けれども、彼は私のコートに触りたがったわけではない。彼が手を伸ばしたのは、私の髪だった。

 一見ボブヘアーで、襟元は背中まで伸びる私の黒髪。

 その襟元の長い髪を手に取って指で撫でる。そんな彼の手元を驚いて見ながら、私は徐々に逃げ腰になっていく。顔がじゅわりと熱くなるのを感じた。


「あれ……ごめん……恥ずかしかった?」

「あ、いえっ……いえっ……」


 気が付いた彼が申し訳なさそうな表情で、私の顔を覗き込んできたから、慌てて首を横に振る。


「綺麗な髪だと思ったんだ」


 私の髪から手を離して、彼は微笑んで褒めてくれた。

 そんな彼も黒髪。でもあまり手入れしていないように、少しボサッとした印象を抱く。


「わ……私は……硝子玉のような、藍色の瞳が、綺麗だと思います」


 トレンチコートの襟を立てて隠した顔を俯かせながら、私も彼のことを褒めてみる。


「ありがとう」


 にこりと、彼は笑ってくれた。私は照れて、また俯く。


「硝子玉かぁ……久しく見ていないなぁ」

「ああ……私は最近この辺で見掛けました。多分、近所の子どもが落とした物だと思いますが、藍色のビー玉が」


 硝子玉とビー玉、同じものだっけかな。とか思いながらも、私は以前見掛けたビー玉のことを話した。


「道端に転がっていても……宝石のように存在感があるように思えました。ただの硝子玉のはずなのに……不思議と宝石よりも価値ある物のように思いました」


 道端のビー玉。

仕事の帰りに見掛けては、思わず足を止めて見た。それはまるで、存在感を放つ宝のようにも思えて可笑しかった。

 でも、私は拾わなかった。拾っておけば、彼に見せられたのにな……


「……君と話すと、とても楽しい」


 少しの間、私を見つめると彼はそう言ってくれた。

なにがそう思わせたのか、よくわからなかったけれど、嬉しくて私は笑い返した。


「私もです」


 月夜の泡沫の一時でも――――……



 彼と出会って、13日目。

仕事帰りに思い出して、私はあの道端を少し探した。そして転がって移動し、泥にまみれたビー玉を見付けた。

 指で拭えば、藍色の輝き。

 久し振りに手にするビー玉をまだ明るい空に掲げて、透かしてみる。汚れていていまいちだ。一度家に帰って洗ってから、彼に見せに行こう。

 弾む胸の上にビー玉を握った手を置いて、歩き出そうとした。

 そんな私に向かってくる車が一台、目に飛び込んだ。次の瞬間、意識は暗闇の中に突き飛ばされる。


「明日は月が満ちて、満月になるね」


 昨日、彼が楽しみに笑っていた声だけが浮かんでは、消えてしまった。




20141208

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