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「……お取り込み中いいですか?」
交わす言葉もなくなり、僕たちの間に沈黙が流れ始めたところを見計らったのか、すごくいいタイミングでそんな声が聞こえてきた。扉の方を見れば、蜘蛛ちゃんがひょっこりと顔だけ出している。
「ん? ……ああ、夕飯か」
何の用だろうか、と僕たちは考え始めていたのだが、僕が答えにたどり着くよりも遥かに早く明紀がポンと手を打った。夕飯。もうそんな時間だったのか。そういえば時計も何も見ていなかったな、と僕は今更ながらに思う。
「はいです。きょーじろーが冷めるから早くおいでって言ってるです。くももお腹すきました」
きょーじろー? 僕たちは揃って首を傾げた。はて、きょーじろーとは誰だっただろうか。でも、つい最近聞いたような名前だ。きょーじろー。きょーじろー。きょうじろう。……恭次郎? 恭次郎!
「渡瀬恭次郎!?」
出てきた答えを僕は思わず叫んでしまった。明紀はとっくにその答えにたどり着いていたようだけど、まだ首をかしげている。一方で、蜘蛛ちゃんは怪訝そうな顔をしていた。
「きょーじろーがどうかしたですか? ええっと……渡り鳥さん、ですよ?」
「いや、そんなことは分かってるんだ」
分かってる。分かっているとも。でも、渡り鳥さんは、渡瀬恭次郎は昨日(僕の体感のため実際は何日前の話か分からないが)姉さんの能力が解けてしまったために消えてしまった。僕たちの目の前で、居なくなってしまったじゃないか。なのに、何故今その名前が。しかも、夕飯を作って待ってるなんて。
「……考えてもわかんねえ。とりあえず行くぞ」
「そうしてもらえるとありがたいです。今日はハッシュドビーフですよ。あ、くもは先に行って熊くんが起きたこと、きょーじろーに報告しとくです」
蜘蛛ちゃんはそう言ってパタパタとダイニングスペースの方へ消えていった。その足取りはかなり軽い。余程ハッシュドビーフが嬉しいようだ。それよりも、蜘蛛ちゃんが車椅子に乗らずに歩いて、更に僕たちと会話をしているという事実への違和感が凄まじいのだけれど。これはもう、慣れるしかないのだろう。
明紀が立ち上がったので、それにならって僕も立ち上がる。ずっと寝ていたわけではないはずなのだけれど、何故かふわふわと不思議な感覚がした。硬い床の上を歩いているはずなのに、何か柔らかいものの上を歩いているような、トランポリンでしこたま跳び跳ねた直後にアスファルトの上を歩いているような、そんな不思議な感覚。ちょっとヤバイかもしれない。
「……ねえ、渡り鳥さんがいるってこと?」
「玖雲ちゃんのニュアンスならそうだな。でも、俺様たちは渡り鳥さんが消えたところをはっきり見てる。……いや、あのとき玖雲ちゃんは居なかったのか」
「じゃあ、蜘蛛ちゃんは渡り鳥さんが地縛霊ってことを知らないの?」
「多分、そうなんじゃねえかな……」
明紀にしては珍しく弱々しい答えだった。無理もない、分からないことが多すぎる。
僕たちの推測通り、蜘蛛ちゃんは渡り鳥さんが地縛霊であることを知らなくて、まだ姉さんの能力の効果が続いているとしよう。そう仮定しよう。この際、そこはどうだっていい(どうでもよくないけど)。問題なのは、僕たちはもう姉さんの能力の効果を期待できないということだ。仮に渡り鳥さんがいたとしても、僕たちは恐らく見ることができないだろう。そうなったら、僕たちは渡り鳥さんが作ったというハッシュドビーフを食べることができるのだろうか? そもそも、ハッシュドビーフなど本当にあるのだろうか?
結論からいうと、ハッシュドビーフは綺麗に盛り付けられていた。ハッシュドビーフだけではない。サラダなども一人一人、しっかりと用意されている。更に言えば、蜘蛛ちゃんはそれらをじっと見つめて食べるときを待っているし、蜂と狐さんはなんとも言えない表情をある一点に向けている。その一点には消えたはずの、地縛霊である渡り鳥さんがいた。
「ああ、目覚めたんだね熊君。……いや、遥矢君と呼ぼうか?」
「え、ええええ……」
実にあっさりとした登場である。
渡り鳥さんは何事もなかったように、今までと変わらない笑みを僕たちに向け、そして早く席につくよう促している。
「渡り鳥さん……これは、どういうことだ?」
「はははー、あっきゅん、玖雲ちゃんに言われなかったかな? 本人が良いって言った場合、もう動物の名前は廃止して本名で呼び合うんだよ」
「掃除するときは別、です」
いつの間にそんなルールが出来たのか。だから明紀が蜘蛛ちゃんの名前を言い直したのか。そんな僕の中の解決なんて誰も知らず、話は進んでいく。
「ワタセ、サン。それで……」
「あっはっは、何だいそのカタコトは。慣れないねぇ。ま、そんなことよりもとりあえず食べ始めようか。玖雲ちゃんがそろそろご立腹だ」
ぎこちなさ過ぎる明紀に渡り鳥……渡瀬さんは愉快そうに笑い、「お腹すいたですー!」と騒ぐ蜘蛛……玖雲ちゃんを親指で指した。くそう、僕も慣れない。
「話は食べながらでもいいだろ? お互いに話すべきことが色々あるだろうし」
渡瀬さんはそう言ってやはりいつもと変わらない笑みを浮かべるのだった。それだけで、すごく安心できるのは、それだけ僕がこの人の笑顔に支えられたということだろう。




