02
五年前、今よりは綺麗だったがしかし誰も使わなくなったビル、つまりここ廃ビに一人の女子高生が男の手により連れ込まれる様子を偶々巡回中だった渡瀬恭次郎は発見した。そして、彼は己の正義感に従い廃ビに単体で突入する。
渡瀬が乗り込んできたことを察した女子高生は、渡瀬に助けを求め、声をあげ、暴れ、出来る限りの抵抗をした。生きるために、彼女は必死だった。彼女はこの機会を失えば、男に殺されてしまうであろうことが分かっていたのだろう。男は当時世間を騒がせていた通り魔だった。
それを知っていたから、彼女の生きたいという意思も汲み取ったから、渡瀬は自分の持てる力全てを使って彼女を助けようとした。必死すぎて、自分が何をしているのか分からなくなるくらいに。
気付いたときには渡瀬は血溜まりに沈んでいた。朦朧とする意識のなか、胸部に走る激痛と口から溢れる血の泡、渡瀬を抱き締め涙を流す女子高生だけは認識することができたという。そう、渡瀬は彼女を守ることには成功したが、代わりに自分の命を捧げてしまったのだった。
「――死ぬ間際に『待ってて。いつか私が、貴方を必ず助けるから』。そんな声を聞いたかな。これが、俺の生前の最期だよ」
過去を懐かしみながら、苦々しく微笑んで渡り鳥さんは語り終えた。僕は――僕たちは、そんな渡り鳥さんになんと言えばいいのかわからず、黙って次の言葉があることを待っている。
「……次に俺が気付いたとき、ここには誰もいなくて、俺は此処から離れることが出来なくなってたかな。たまにここに遊びに来る悪ガキなんかにちょっかい出しても気付かれなくて、そこで初めて自分が幽霊になったって知ったんだ」
誰も気づかないってのは案外寂しいもんだよ、と渡り鳥さんは言う。一体、どんな気持ちだったのだろうか。殺され、成仏することもできず、縛られ、誰にも認識されず、ただ存在するだけの日々。生きている分、僕の方が幸せだったとは思うが、状況は似ているのかもしれない。僕の場合は意図的な無視で、渡り鳥さんの場合は不可抗力といえる無視(無視とはまた少し違うが)であるため、比べることも並べることも難しいけれど。
「ずっとそんな調子で二、三年過ごして、それである日、『彼女』は唐突に戻ってきた」渡り鳥さんはやや恥ずかしそうに頬を掻いて、そして続けた。「『お久し振りです。約束を果たしに来ました』……なんて言ってな、俺を誰にでも認識できる存在にしたんだ。特定の場所になら行くことができるなんて特典までつけてな」
その特定の場所が警察署であり、スーパーであると。だから渡り鳥さんはほぼずっと廃ビにいるし、その他の場所では見掛けることがなかった。そういうことなのだろう。
渡り鳥さんが言葉を切ると、明紀は眉間にシワを寄せて唸り出す。そして、やや自信なさげに訊ねるのだった。
「……なあ、その『彼女』って、もしかして兎さんのことか?」
「…………」
「……そうか」
否定も肯定もせず、ただ微笑んだ渡り鳥さんを見て、明紀は悲しそうな顔で呟くように頷いた。肯定と受け取ったのだろう。しかし、その割には不満げだ。何を考えているのだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
一方で、狐さんは上手く事を飲み込めないのかこめかみの辺りに手を当てて難しい顔をしている。
「つまり――つまり、何だ? 渡り鳥さんは兎を五年前に助けて死んで、今はユーレイってわけか? そんな、アホなこと――」
「アホなことが起こった結果が俺だよ、狐。信じられないのは俺も一緒だ。俺も最初は半信半疑だったさ。でも、今こうしてみんなと会話してる。信じるしかないのさ」
困ったように狐さんに笑いかけると、渡り鳥さんは明紀の方を向いて真剣な顔つきになった。
「もう、あっきゅんは大体のことに気付いたんだろう? だったら、あとのことを頼まれてくれないかな。俺は『時間切れ』みたいなんだ」
「……時間、切れ?」
「そう。シンデレラだって魔法が解けるだろ? ははは、俺みたいなおっさんがシンデレラってのも嫌な話だな」
渡り鳥さんは笑って見せるが、それはとても寂しい響きだった。言わんとしてることはわかる。でも、どうしてそんな急に。今まで、なんともなかったはずなのに。どうして。
「一応、最後に答えあわせをしておこうか。大体想像はついてるとは思うけど――兎の能力は『会話した相手の認識をずらす』だ。錯覚させるって言っても間違いではないかな。まったく、掃除人の能力ってのは言葉で表しづらくて困りもんだ」
愚痴るように渡り鳥さんは言う。
こうやって今まで黙っていた秘密をさらけ出すとき、物語中のキャラクターは自分の死期を悟っていて、その通り死んでいってしまう。既に死んでいる渡り鳥さんにも死期があるとすれば、本人のいってる通り『時間切れ』――兎さんの能力の効果切れだろう。
「それじゃあ――」考える時間を渡り鳥さんは与えてくれない。「――あとは頼んだ。兎を止めてくれ」
その表情は、今後脳裏に焼き付いて離れないような程強烈な、爽やかな笑顔だった。
「嘘だろ……なあ、消えるなんて……嘘、だろ……?」
目を見開いて、震える声で言う狐さんの声がとても虚しく響く。僕だって信じたくはない。でも、これが現実だ。
渡り鳥さんは、元からそこに存在していなかったかのように、綺麗さっぱり消えてしまった。
それと同時に、僕のスマホが狙ったかのように鳴り出したため、空気を読めよと叱責したくなったのは八つ当たりかもしれない。




