10
周囲を見渡せるようになったとき、僕は病室の惨状に驚かずにはいられなかった。確実に、こうなった原因は僕なのだけれど、全く記憶にない。その代わりというべきか、酷く頭が痛む。
「落ち着いたかしら、熊君」
僕を抱き締めたまま兎さんは言う。落ち着いたんだと思うけれど、ある意味落ち着けてなかった。状況が理解できない。
病室だったはずの場所は何もかもが砂と化していた。ベッドも、棚も、椅子も、カーテンも、机も、灯りも、お見舞いの品も。この部屋にあったもの全てが砂となり山を作っている。『ここだけ砂漠のデザインなんですよ』なんて言われても納得できそうなくらいだ。そして、これはどう考えたって僕の仕業だった。僕にしかこんな芸当できるはずか無い。
さて、僕は一体何を考えていたのか。思い出してみることにしよう。
明紀と蜂が帰ったあと、僕は痛み止めを打ってもらって爆睡した。そして夕食を食べ損ねた。うん、ここまではいい。平和だった。このあとが問題だ。
僕が起きたとき、僕の病室に知らない男が来た。面会時間は終わってるというのに、高校生みたいな格好をしたそいつがやって来て、そいつは僕に、
「うぅ……ああぁっ……」
痛い。
頭が割れそうなくらいに痛い。
「大丈夫よ、熊君。無理に思い出したりなんかしなくていいの。ううん。思い出そうとしちゃ、ダメよ。熊君はやっぱりトラウマを抱えちゃったから」
ごめんなさい。そう言って兎さんは一層強く僕の身体を抱き締めた。どういうわけか、それだけで頭痛が治まって落ち着きを取り戻せるような気がしてくる。
「一先ず帰って療養した方がいいわ。大丈夫話はもうつけてあるし、後始末もちゃんと私がしてあげるから。熊君は廃ビで回復に専念したらいいのよ。ね?」
「……帰っても、大丈夫なんですか?」
今日起きたばかりで、撃たれたらしき箇所はまだまだ痛い。同じく撃たれたらしい右足はうまく動かないし、ある程度回復するまではリハビリのために入院していなきゃいけなさそうなのだけれど。
……そりゃあ、帰れるなら今すぐ帰りたい。一人は嫌だ。
「大丈夫よ。安心して? 話はつけてあるって言ったでしょう?」
少し名残惜しそうに僕から離れると、兎さんはにっこりと笑って、そして「ちょっと待ってて」なんて言って病室から出ていく。一人にされて、僕は一気に不安に押し潰されそうになる。嫌だ、怖い。
「お待たせ」
兎さんは案外早くに戻ってきた。その声を聞いて、僕は安堵する。この数日間でこんなにも弱くなってしまっただなんて、少し恥ずかしい話だ。
兎さんは青い車椅子を持ってきていた。どうやらこれを取りに行っていたらしい。
車椅子を押したまま病室へ入り、僕の隣へ来ようとしたのだが、砂の山がそれを阻んでいた。兎さんは顔をしかめ、困ったように砂を見つめていたのでなんだか申し訳なくなった。だから、せめてこの距離ぐらいは僕が歩いて近付こうと思ったのだけれど、立ち上がろうとしたところで転んだ。右足に全く力が入らなかった。これはまずい。
「ああああ、ごめんね熊君。無理しなくていいのよ、立てなくて当然だわ。だから車椅子をもらってきたんだもの」
「え……そうなんですか?」
自力で立てない僕は、兎さんに肩を貸してもらって漸く立ち上がることができた。そしてそのまま、半ば引きずられるように車椅子のところまで連れていってもらい、車椅子に座る。
「そうよ。立てるようになっても、多分松葉杖が暫く必要になるわね……」
車椅子を押しながら兎さんは言う。その口調は歯切れが悪いようなものだったが、足取りには迷いがなかった。あっという間に病室を離れてエレベーターに乗り込む。退院の手続きなんかは一切不要らしく、兎さんは受け付けにもよらずにさっさと病院の出口へと進んでいった。
「もしかしたら、走るのは難しくなっちゃうかもしれない」
「……そう、ですか」
その事実は少しだけショックだった。走ることはあまり嫌いではなかったから、余計に。ああ、走ることができなかったら、いや、そもそも、これから暫くの間は掃除にかなりの支障をきたすことになるのだろう。それを考えると、すごく残念な気持ちになる。
「……ワーカーホリックってこういうことかなぁ……」
「何か言ったかしら?」
「いえ、何でも」
兎さんが不思議そうな顔をしたが、空耳ということにさせてもらおう。こんなときにまで掃除のことについて考えるなんて、最初あれだけ掃除人を拒んでいたのに、と笑われてしまうような気がしたからだ。
一年前の、人を殺すことを強く否定した僕は、今はもうどこにもいないのだろう。
これが慣れか。嫌なものだ。




