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久しぶりに自分の家の自分の部屋で一晩を過ごした気分は、なんとも言えない微妙なものだった。まず違和感がすごい。廃ビの僕の部屋とはレイアウトが違うため、何でもないようなところで家具にぶつかりそうになる。寝ぼけた状態で微妙に馴染みのある部屋を歩くのは危険だということを思い知った。
嫌だけど、行かなければ家から出られないため下の階へ足を向ける。僕に二階から飛び降りるなんてガッツはない。
この時間は確か姉さんはまだ寝てるはずだから、僕に声をかける人間はいないはずだ。一応あの二人が起きているとは思うけれど、僕に声をかけるなんてことはしないだろう。まず僕がいても見ぬふりをするはずだ。
「あ」
廃ビに置いていく分の荷物と、スクールバッグを持って、制服姿で玄関に向かおうとした最中で母親に遭遇してしまった。朝食は抜いていけば遭遇する率はグッと下がるはずだと思っていた僕の予想が綺麗に裏切られた瞬間である。
母親は僕を見た瞬間に心の底から嫌そうな顔をする。嫌悪とその他諸々の負の感情を隠そうともせず僕にぶつけてくる。本来の親子であればこんな感情をぶつけないんじゃないかと思えてくるような、そんなレベル。嫌いという感情は少なくともその人のことを思っているからこその感情だから、無関心よりはマシだとよく言うが、こんな感情を向けられるのなら無関心の方がいいのではないかと思えてくる。僕だってこの人は嫌いだ。二度と会うことがないよう、砂に変えてしまいたいと思ったことが何度もある。
「なんでアンタが居るのよ」
母親は険しい表情で、鋭い声で僕を威嚇するように言う。ああ、これは小言を延々と言われるパターンだ。放っておけばいいのにわざわざ突っ掛かってくる、頭の悪いやつがやるパターンだ。母親は僕の進路を見事に塞いでくれちゃっているため、全てを無視して通りすぎるという手段にも出れない。壁をぶち壊してこの狭い廊下を広くしてしまおうか。そんなことすら考えたくなる。ここはこの人たちの巣であるが、同時に姉さんの住む家でもあるからそんなことはしないけれど。
「ここはアンタが気安く来れる場所じゃないのよ。鍵まで替えたのになんでいるの。不法侵入とついでに殺人罪で警察に突き出してあげるわ」
おい、ちょっと待て。こいつ、いつの間に鍵なんて替えてやがったのか。姉さんがいなければそもそも帰るつもりなんて無かったのだけれど、もし姉さんに関係なく荷物が取りに行きたくて戻ってきたとき僕にどうしろというんだ。
「散々紗英までたぶらかしてくれちゃって。こっちはさっさとアンタの部屋なんか処分したいのに、いい迷惑よ」
母親の小言は止まらない。ぐちゃぐちゃ言うんだったら僕の部屋なんか勝手に処分して、今ここにいる僕だって無視すればいいのに。これだからバカな女は嫌いなんだ。僕を生んだ存在がこんな奴だと思うと心の底からうんざりする。
ちなみに紗英というのは姉さんのことだ。僕が名前で呼ぶことはほとんどない。姉さんは姉さんだ。
「本当、なんでアンタなんて産んだのかしら。産まなきゃよかったわ。或いはその辺で適当に死んでくれでもすれば保険金が入ったのに。そうよ、あのとき死ねばよかったのよ。なんで今も生きてるのかしら。人殺しなんて生きている価値は――」
「人殺しは貴方も一緒だよ」
その一言で母親を黙らせたのは僕ではない。僕の背後にいる人物だ。聞き慣れたはずのその声はとても鋭く、僕の記憶の中にあるものとは合致しない。
「紗英……」
「貴方の場合は未遂、だけど。前にも言ったと思うけど、私は弟を侮辱するやつを許さないよ。それが、誰であっても」
姉さんの声はとても静かだった。だからこそ母親を萎縮させたのかもしれない。「どいてよ」と言うと直ぐにどこかの部屋へ入ってくれた。最初からこうしてくれればよかったんだ。
最悪の気分のまま家を出て学校へ向かう。姉さんはどうやらかなり怒っていたらしく、僕を送り出してくれなかった。それが少しだけ寂しい。廃ビではいつも兎さんか渡り鳥さんか狐さんが送り出してくれるから余計に。
「……はぁ、何も壊さないといいな」
高校に入ってからは過去を全て隠している。ボロが出ないよう、細心の注意を払うことを固く胸に誓って僕は歩き出した。




