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しばらくすると明紀が戻ってきた。ニヤニヤと笑っていて、上機嫌であるということがよくわかる。お目当ての情報はしっかり手に入れられたようだ。
「……どうだった?」
「ま、声は聞けなかったな」
恐らくダメ元で蜂が訊くと、明紀はニッと笑った。声は聞けなかったけど、それ以上のものを知ることができたということだろう。満足そうで何よりだ。どんな情報なのかとても気になるけれど、相当なことが起こらない限りしっかりと明紀のなかに留められるだろう。つまり、僕は恐らく一生知ることがないということだ。少し残念ではある。それは蜂も同じらしく、むしろ蜂の方が未練はたらたらで、いかにも不満そうな表情を浮かべていた。そんな顔をしたって無駄だというのに。
「鍋の片付けも終わったし私は帰るわね。狐はソファーにでも寝かせといてくれるかしら? 私じゃ運べないのよ」
いつの間にか空き缶や瓶を片付けてテーブルも拭き、帰り支度も済ませた兎さんが僕たちにそう言った。珍しく今日は帰るつもりだったらしい。
「チーズのにおいが充満してるのよ。今日はとてもここに居られそうにないわ」
違った。チーズが原因だった。兎さんはそこまでチーズが嫌いだったのか。今まで全く知らなかった。しかし、思い返してみればこの一年、食卓にチーズがあがったことがなかったような気がする。一昨日のブルスケッタだってチーズは使われていなかった。なるほど、僕が知らなかっただけか。
「牛乳の腐った塊を食べるなんてあり得ないわ」
「酷い言い様だ!」
心底嫌そうに言う兎さんに僕は思わず突っ込んでしまった。と同時にとても申し訳なくなった。そんなに嫌いなら、買い物に行く前に言ってくれればよかったのに。首謀者が蜂で、実行犯が僕であるだけに余計にそう思う。悪いことをしてしまった。いや、ある意味そのお陰で兎さんは吐き気を催さずに済んだのだから、逆に感謝してほしいとも言える。性格が悪いことこの上ないけど。
チーズを牛乳の腐った塊と言って気がすんだのか(多分違う)、兎さんは荷物を持って「おやすみなさい。また明日」なんて去り際に言ってから、廃ビを後にした。
「……僕も帰るかなぁ」
少ししてから、スーパーで姉さんに言われたことをぼんやりと思い出した。相変わらず家に帰る気には全くなれないが、僕が帰ってくるまで待ってると言われてしまったのだし。申し訳ないという気持ちはしっかりある。だから帰らなきゃ、と義務的なものを感じる。姉さんには悪いが、闇鍋のあまりの不味さに気を失うか、記憶を失ってしまえたらよかったのにとついつい思ってしまった。僕は家に帰るという行為に対して、どれだけ現実から目を背けたがっているのだろうか。
「ん、珍しいな、お前が帰るなんて」
「姉さんに帰ってこいって言われたんだよ」
「なるほどな。お前のねーちゃん、ぶっちゃけ四六時中お前と一緒にいたいっくらいな勢いだしな」
「出来てたら実行してると思うよ……」
姉さんをよく知っている明紀はカラカラと笑う。きっと、僕と姉さんの関係をドン引きせずに笑って楽しめるやつなんてこいつぐらいしか居ないだろう。実際、蜂にはドン引きされたのだし。
「そんじゃ、帰るなら一緒に帰ろうぜ」
「いいよ」
そう言いつつも僕の身体はノロノロとしか動かない。身体までもが家にいる時間を出来るだけ少なくしたいみたいだ。嗚呼、帰る家がなくなってしまえばいいのに。
ノロノロとした動きでも、いくら現実逃避をしようとも、帰る支度は済んでしまう。まとめる荷物がほとんどないから余計にだ。
「蜂はどうすんの?」
「俺は泊まるよ」
ふと気になって聞いてみると、そんな回答が返ってきた。そして「狐さんに水渡してあげる人がいなくなるし」と冗談っぽく続けた。しかし、狐さんに水を渡すというのは重要な役だ。だから僕は「大変そうだね、代わってあげようか」なんて言う。勿論「帰れ」というシンプルな一言を頂いた。仕方ない、いい加減腹をくくろう。
「それじゃ、また明日」
兎さんに習い、僕たちはそう言い合って別れた。明紀と出来るだけ下らない話をして盛り上がり、ギリギリまで家に帰らないという最後の手段に出たいところだったが、残念ながら会話が盛り上がる前に僕の家についてしまい、僕は玄関に向かうしか無くなってしまった。
ドアノブに手をかける。
残念ながらドアノブに抵抗はなく、あっさりと開いてしまった。
「ただいま」なんて言う気にもなれず、無言で中に入り靴を脱ぎ家に上がると突然の「おかえり」という言葉と共に僕の頭、特に顔面が柔らかいものに押し付けられた。




