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廃ビに帰ると、いつものように兎さんが出迎えてくれた。やっぱり「おかえり」という言葉があるのはいい。家に帰った気になれる。
明紀に「茶を持って参れ」とか偉そうなことを言われたので、嫌がらせにアイスコーヒーを持っていこうとキッチンスペースに向かう。おかしい、この時間なのにキッチンスペースからなんの音もしない。普段なら渡り鳥さんが夕飯を作っている頃なのに。
キッチンスペースには案の定誰もいなかった。とりあえず明紀に渡すアイスコーヒーを持ってリビングへ向かうと、明紀には無言でアイスコーヒーを押し付けて僕は兎さんに尋ねることにした。
「兎さん、渡り鳥さんはどこに?」
「渡り鳥なら今日は用があるからって帰ったわよ。だから今日の夕飯は私担当」
ソファーに足を組んで座って何やら小説を読みながら言う兎さん。担当と言うわりには作る気概が全く感じられない。まさか夕飯は各自でなんて落ちじゃないだろうか。
そもそも、渡り鳥さんに家があったのか。僕が掃除人になってから、僕は渡り鳥さんがこの場を買い出し等の理由以外で出たところを見たことがなかった。家に帰るなんて一言も言ったことがないから、てっきりここが渡り鳥さんの家なのかと思っていたのだ。
「……よし、決めたわ!」
暫くすると兎さんは読んでいた本を閉じ、勢いよく立ち上がった。何が決まったのだろうか。
「今夜は闇鍋よ! 全員、飲み物と鍋の具材、欲しい人はおにぎりとかも買ってきて。何も買ってこなかった人には罰ゲームで私が別口で作る闇鍋を食わせるわ」
覚悟してね。と兎さんは実に楽しそうに言った。悪い冗談と思いたい。いい大人が、夕飯を闇鍋にするという発想を嘘だと思いたい。しかし兎さんの顔は真剣そのものだった。そして鼻唄混じりに「土鍋、土鍋ー」なんて言いながらキッチンスペースに消えていく。
「……え、俺帰っていい?」
いつの間にか帰ってきてたらしい蜂が言った。誰が逃がすか。お前も道連れだ。そんな意味を込めて、僕は蜂の肩をつかんだ。
「どうせお前、鍋にもの入れられないんだろ? 僕が入れてやるから、一緒に買いに行こうぜ」
◇
僕と蜂は近所のスーパーに来ていた。店の前にはクレープ屋の車が止まっており、甘い匂いを振りまいていた。いいなあ……と思うけれど、闇鍋にクレープを入れるわけにはいかない。クレープを食べて鍋も食べろというのも辛いものがある。仕方ない、諦めよう。
「どうだい、にいちゃん」
「もっとタバスコを入れてもいいと思います」
「嘘だろ、オイ。お前の味覚ってどうなってんだよ」
クレープ屋の前を通りすぎようとすると、そんな会話が耳に入った。気になってそちらを見てみると、綺麗な顔立ちの人が真っ赤に染まった見るからに辛そうなクレープを、顔色ひとつ変えずに食べている。隣にいる男は呆れ顔だ。
「食べますか?」
「誰が食うかよ、そんなもん」
「美味しいのに……」
美味しいのにと言う割には、綺麗な顔立ちの人は無表情だった。それに口調がかなりフラットだ。本当に美味しいと思っているのかどうかはよくわからない。
「お、そこのにいちゃん二人組」
そんな変わった二人を凝視してしまったからだろうか。クレープ屋のおじさんが僕たちに声をかけてきた。蜂が男として数えられてしまっているが、これは仕方ないことだろう。
「ちょっとこのクレープ試食してくんねえか?」
「結構です」「いりません」
僕と蜂の声が綺麗に重なり、クレープ屋のおじさんが持った二つの真っ赤なクレープを拒絶した。誰が食べるんだ、あんなもん。食べ物は粗末にしてはいけないと思う。
「……ま、今から闇鍋をする僕が偉そうなこと言えないんだけどさ」
「違いない」
僕たちは仲良く二人で笑いあいながら、店内に入っていった。これから起こるであろう悲劇が、あの真っ赤なクレープぐらいのものなのか、それ以上なのか――そんな恐怖に少し怯えながら。




