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真夏の熱帯夜

作者: 朴念仁

 うだるような暑い夏の夜。

 僕はなかなか寝付けなくて布団から体を起こした。六畳一間の木造ボロアパートにクーラーなんていう文明の利器は存在せず、あるのは無機質に首を振るう扇風機だけだった。

「……暑い」

 自然と口からこぼれた言葉は誰に届く間もなく霧散する。その代わりに外からは夜だというのにも関わらず、蝉の鳴き声が騒々しく鳴り響いている。

「……うるさい」

 またしても一人でに呟く。

 この音がせめて鈴虫であればビール片手にベランダへ出て軽く一杯しようと思うが、何分これは蝉なのだ。一杯どころか一服すらもままならない。

 それでも寝付けないから仕方なく、僕は冷蔵庫と呼ぶにはお粗末過ぎるモノの中から麦茶を取り出し、加えて戸棚から取り出しておいたグラスに氷を入れる。

 カラン、カラン。

 と、涼しげな音を響かせて氷はグラスの中へ落ちていった。続けて、冷蔵庫から取り出した麦茶をそのまま中へ注いでいく。

 軽くグラスを揺らし、氷と麦茶をしっかりと溶け合わせた後、口元へと運び喉の奥へ一気に冷え切ったソレを流し込んだ。

「―――ッア~!!」

 体の中を水分が流れていくのを感じる。

 一瞬だけだが清涼感が体を包んでいく。

 グラスを一度テーブルの上に置き、溶けて小さくなった氷の代わりに新しいものを用意する。さっきと同じ手順でもう一杯の冷えた麦茶を作り、それを手に持ち、閉じられていた網戸を開けて窓の縁に腰を落とす。

 このアパートにベランダはない。

 具体的に言うと、一つの窓と、それを囲うように三分の一ほどの高さまで、柵が取り付けられている。

 そのため、僕は寝付けない体を冷ますために窓柵に体をあずけて夜風を待つ。

 二階に位置するこの部屋から見る景色は決して綺麗とまではいかないが、涼をとるには十分な立地だった。

 部屋の中にいるよりかは、やはりこの場所の方が風通しがよくて気持ちがいい。相変わらずに首を振り続ける扇風機からは、外の涼しげな空気ではなく部屋の生温い空気が送られてくるから嫌いだった。

 グラスを傾けて麦茶を一口啜る。

 それと同時に外から涼しげな風が入ってきた。

 そのおかげで、さっきまでのジメジメとした暑さは一気になくなり、気持ちのいい涼しさを肌で感じとれた。

 グラスを縁の空いている場所に置く。

 コトン、と小気味いい音が耳に響いた。

 視線を窓の外に向けると見慣れた道が続いていた。大学に入ってからこっちに越してきたのに、なんだか随分長くこの部屋に住んでいる感覚があるのはなぜだろう。実際は一年と四ヶ月ほどなのに、思いのほか慣れ親しんでしまっている自分がいた。

「もう大学二年か……」

 そんなことを呟きながらアパートの下に視線を落とすと、そこには良く知る人影があった。

「あれって……、先輩?」

 アパートのすぐそばの歩道。そこを少しふらつきながら歩く姿は、どう見ても僕が良く知る先輩の姿だった。

 僕の通う大学の一つ上の先輩であり、同じサークル仲間。また、僕の隣の部屋の住居人でもあるのが彼女―――月宮先輩だ。

「こんな時間まで外出していたなんて珍しいな」

 時刻は午前十二時を少し過ぎたところ。普段からあまり出歩かない先輩にしては珍しい帰宅時間だった。

 先輩はそのままアパートに入るとゆっくりとした足並みで、カン、カン、と階段に音を響かせながら自室へと入っていった。

「先輩、大丈夫かな?」

 明らかに酔っていたであろうその姿を見たせいで、少し不安になってくる。未だに隣の部屋で続くドタバタとした音を聞いていると尚更だ。

 普段からお酒なんて飲んでいるイメージがなかったので、おそらく飲みの席で半ば無理矢理に飲まされたであろうことは容易に想像はできたのだが、果たして一体どれほど飲んできたのだろうか。

 そんなことを考えていると、目と鼻の先にある、手を伸ばせば届くことのできる隣の部屋の窓がゆっくりと開いていった。

「あれ、村瀬君?」

 そう言って、先輩は窓から顔を出す。

 まだ酔いが醒めないのか、ほんのりと頬が赤くなっていた。色白の肌がわずかに上気しているせいか、どことなく色っぽさを感じる。

「こんばんは、先輩」

「こんばんは、後輩」

 長く綺麗な髪を揺らしながら、どこか艶っぽく先輩は笑った。

 その姿を目にした瞬間、心臓が脈打つ音が聞こえたが、なんとか平静を装いながら先輩を見る。

 一応挨拶は返してくれたが、やはり先輩はどこかボーッとした感じだ。心ここに有らず、というわけではないが、酔った人間特有のどこか浮かれた雰囲気をしている。

「今までどこかで飲んでたんですか?」

 なんだか顔を直視していることが恥ずかしくなってきたので、視線を少しだけ逸らせて先輩に話しかける。

「……うん。近くの居酒屋で友達と飲んでたんだ」

 少し反応が遅れたものの、僕の問いかけにはハッキリと答えてくれている。

「でも……、久しぶりにお酒飲んだからちょっと疲れちゃったかな?」

 そう言いながら、先輩は窓の柵に寄りかかり、目を瞑った。

 そうやってウトウトする先輩はあまりにも無防備すぎた。よく似合う白のワンピースから覗く首筋や、色白で柔らかそうな肌、上気した頬に、薄いピンク色の唇。

 手を伸ばせば触れられる距離にその全てがある。


 ―――触れてみたい。


 突然、そんな衝動に駆られる。

 気が付けば、僕の手は彼女の髪へと伸びていた。サラサラで癖のない綺麗な髪。頭を撫でるようにゆっくりと、そして優しく、僕は手を動かしていく。

 夏の涼しげな風が彼女の髪の香りを運んでくる。その甘い匂いは僕の鼻孔をくすぐり、それと同時に僕の脳を痺れさせた。

 頭を撫でていた手を頬に移動させ、顔に垂れ下がっている髪を耳にかける。

 そうして表れた上気した頬は、ほんのりと熱く、手をあてがってみると僕に微かな熱を与えてくれた。

 そのまま、手のひら全体で彼女の頬を包み、空いている親指でゆっくりと、彼女の唇をなぞっていく。


「―――フフッ」


 我に返ったのは、その笑い声を聞いたときだった。

「……起きてたんですか、先輩」

 そう答えるのと同じぐらいの速さで、すぐさま先輩の頬から手を離す。

 少し、いやかなり気まずい。

 何というか、まるでピエロのようだった。

 道化師もいいところである。

「ゴメンね。からかうつもりはなかったんだけど、どんなことしてくれるか興味があったから」

 そう言って、先輩はとても楽しそうに笑っている。

 何というか、手持ち無沙汰になってしまったので、仕方なしに置いていた飲みかけのグラスを手にとり口にする。

 時間が経って、溶けた氷で薄まった麦茶が喉を通っていく。

「あっ、美味しそう。私にも頂戴」

 ひとしきり笑って疲れたのか、それとも単純にお酒の飲みすぎで体が水分を欲しているのかは分からないが、先輩が麦茶をねだってくる。

「……いいですよ」

 すこし逡巡して、そう応えた。

 別に麦茶なんて減るもんじゃない。まだまだ冷蔵庫の中にはいくらだってある。

「どうぞ、ご自由にお取りください」

 そう言って、先輩からはギリギリ届くか届かないかの位置にグラスを置く。

「……ちょっと、それって酷くない?」

「いえいえ、ささやかなるお礼ですよ」

 笑いながら、僕は先輩にそう返した。

 それを聞いた先輩はしかめ面をしながらも、窓の柵に手をかけ、身を乗り出し、もう片方の手をグラスへと伸ばす。

 体をプルプルと震わせながらも、必死に頑張るその姿は、なんだか見ていて申し訳なかった。

 だから僕は、グラスを先輩の手が届く距離までそっと押しだしてあげた。

「あっ、取れた」

 先輩のはしゃいだ声と、嬉しそうな顔を見た後に、僕はゆっくりと体を起こし、前かがみになって動けない先輩へと―――キスをした。



 唇を触れ合わせるような、軽いフレンチキス。

 一瞬だけ、お互いの熱が混ざり合う。

 重ね合わせた唇は思ったよりも柔らかく、とても甘い味がした。

「―――ッ!?」

 突然の出来事に少しだけ彼女は目を見張る。

 しかし、そんな呆けた姿を見せたのは、ほんの一瞬だけだった。

「へぇ、なかなかやるじゃん」

 そう言って、彼女は僕がキスをした唇をゆっくりと自分の舌でなぞっていった。そうやって、妖しげに笑う彼女の姿はとても美しく、妖艶で、何よりも―――魅力を感じた。



 手にしたグラスを大事そうにしながら、少しずつ先輩は麦茶を飲んでいく。その度に、ゴクリ、と先輩の喉の鳴る音が隣から聞こえてくる。

「―――ふぅ、美味しかった」

 空になったグラスが動かされると、カラン、と残った氷のぶつかる音が聞こえてくる。

「ねぇ、もう一杯頂戴」

 そう言いながら、先輩は僕の方にグラスを渡してくる。

「いいですよ、ちょっと待っててくださいね」

 僕は素直にソレを受け取り、部屋へ戻り、新しい麦茶を入れて、さっきと同じように窓の縁に腰掛ける。

「どうぞ」

「ありがと」

 それだけの短い言葉を交わして、僕たちはまた互いにキスをした。唇を重ねるだけの優しいキス。

夜風が吹いているのに体が熱いのは、きっと夏の暑さのせいだろう。先輩の頬がさっきにも増して赤く見えるのは、おそらくお酒のせいだろう。

 そう自分に言い聞かせて、僕らは今日三度目のキスをした。



 それから数分間、僕たちは何もしないまま夏の夜を過ごした。

 僕はベランダから見える景色を眺めながら、夜風に吹かれて体を冷まし、先輩も何も言わないまま、ゆっくりと僕から渡された麦茶を飲んでいた。

 カラン、と氷の鳴る音がして先輩の方を見てみると、グラスの中身は既になくなっていた。

「先輩、もう一杯いりますか?」

 おそらくいらないであろうことは分かっていたが、一応先輩に聞いていみる。

「ううん、もういいよ。ありがとう」

 そう言って笑う先輩の姿は、さっきよりもどこか落ち着いた表情をしていた。

 もう既にお酒も抜けきったのか、上気していた頬もすっかり治まり、いつもの先輩に戻っていた。

「なんだか、すっかり遅くなっちゃたね」

 部屋の中の時計をチラリと見ると、時刻は午前一時を回ったところ。ちょうど先輩が帰ってきてから一時間が経つかというところだった。

「ごめんね、酔っ払いにつき合わせちゃって」

「いえ、大丈夫ですよ。気にしてません」

 おかげで僕も大分涼しくなれた。あれだけ暑かったにも関わらず、今は全然その暑さを感じられない。

 途中、おかしな暑さに見舞われたが、それも今はなりを潜めている。

 とても涼しく、いい夏の夜だった。

 後は気持ちよく、眠るだけだ。

「さて、そろそろ寝ましょうか」

「そうですね」

 そう言って、僕は自分の部屋へと戻ろうとする。しかし、そのとき先輩が僕に向かって声をかけた。

「あっ、ちょっと待って。グラス忘れてるよ」

 その一言で、先輩にグラスを渡していたことを思い出した。言葉の通り、僕の部屋にはグラスがなく、先輩のベランダにはソレが置かれていた。

「ホントですね。忘れるところでした」

 まぁ、別に忘れていたとしても明日にでも返してもらえばいいのだが、なんとも律儀な先輩である。

「すいません、それじゃあグラス取ってもらってもいいですか、先輩」

 僕の位置からでは手を伸ばしても届かない場所にグラスが置かれていたので、先輩にお願いする。

「……いいよ」

 しばしの逡巡の後、先輩はこう言った。


「―――どうぞ、ご自由にお取りください」


 顔には満面の笑みを浮かべて、おそらく、これが小説ならばオチどころであろう言葉を先輩は口にした。

 やれやれ、まさか自分の蒔いた種がこんなところで返ってくるなんて―――。

「……分かりましたよ。取らせていただきます」

 そう言いながら、僕は渋々先輩の窓縁へと向かって体を伸ばす。

 窓の柵に手をかけ、身を乗り出し、もう片方の手をグラスへと伸ばす。

 体をプルプルと震わせながらも、必死に頑張るその姿を想像すると、自分でも情けなすぎて嫌になってくる。

「あっ、取れた」

 不意にグラスが指先にあたり、ソレを掴むことができた。さっきまでは全く届かなかった割に、いきなり手が届いたことに驚き顔を上げると、すぐそこに―――先輩の姿があった。


「それじゃあ、お礼あげるね」

 聞いたこともないような、女性の声をした彼女は、僕の顔を両手で掴むとその唇にキスをした。

 それは今までのように、フレンチなものではなくもっと熱く、情熱的な、深いキスだった。

 息をつくことさえ難しいほどに、互いの舌と舌とを絡ませあう。口の中で蠢く彼女の舌は、まるで何か別の生き物であるかのように僕の口内を蹂躙していく。

 歯茎、舌の根元、舌先へと順に舌を絡ませる。

 互いの唾液を交換し合い、口から零れ落ちたものはテラテラと妖しく光りながら、透明の糸を引いて下顎を伝っていった。

 けれど、そんなことはもう気にならない。彼女の上気した頬や、火照った身体、その全てが愛おしく感じて仕方がない。

 キスをしながら、彼女と視線がぶつかる。

 段々と僕と彼女の境界線が曖昧になってくる。


 ―――それから僕たちはしばらくの間、ずっと互いを求めて熱いキスを続けていた。


 そうして、一体何秒経ったのか、もしくは何分経ったのかは分からないが、僕たちはどちらからともなく自然と唇を離した。

 まるで名残惜しむかのように、二人の間を透明の線が糸を引いて伝っていたが、それもすぐに切れてなくなってしまった。

 あまりにも唐突で、感情のままに動いてしまっていたため、僕は正気を取り戻すのに時間がかかった。

それは先輩にしても同じだったのかもしれないが、先輩は僕より先に我に返ると―――。

「……それじゃあ、おやすみ」

 と、今まで見た中で一番艶のある笑顔を見せて、自分の部屋へと戻っていった。



 何というか、暑かったり、涼しかったり、とてつもなく熱かったりと、世話しない夜だったが、ようやく僕は寝床に付くことができるらしい。

 依然として、夏の夜は暑く、僕の体は夏の暑さ以上の熱さを抱えてはいるが、自分の布団に体を沈め、眠りに落ちながらこう思った。



 ―――たまには、アツイ(・ ・ ・)夜も悪くはないか。



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