一輪座敷
草いきれの立ち上る茂みの向こうへ足を進めると、熱気に包まれると同時、奇妙に世界が静まり返ったのをよく覚えている。古タイヤにたまった水から舞い上がる蚊の群れ、舗装もされていない砂利道、私の背丈より長く伸びる草の海。
当時の私は一度も見たことのない景色にすくんで、日常に戻る道を求めて、少しだけ振り返ってみた。けれど道なき道を進んできたため、背後も草に遮られるばかりで、どこへも続いていない。ただ、不安そうにこちらを見る光太郎と目があった。
「いけるのか?」
「平気平気。道なんてなくてもいけるって」
おどおどとこちらを見る彼を見ていると、こわがっているのが自分だけではないと思えて安心した。この虚勢に光太郎は気付いていたのか、どうなのか、いまもってよくわからないが、そのときは気付かれていない、と思いこんでいた。
いつも真っ赤なシャツを着ていた光太郎は、その日も服装は変わらず、頭に野球帽をかぶっていた。私よりいくらか背の低い光太郎が帽子を目深にかぶると、もう表情はうかがえなくて、だから私が彼の姿を思い出すときには、口元だけがいやにはっきり浮かんでくる。
私は光太郎を先導しながら、目的の無い進行を続けた。いや、あのころの私には「探険」という非常に重要な目的があったのだろうが、その感覚を正確に理解するには十歳と二カ月だった当時に立ち帰らなくてはならない。私にできるのは、記録と記憶を追うことだけだ。
「いい場所あったら、ひみつきち、作ろうよ」
当時の私は「秘密」という言葉に特別な響きを感じていた。ところが私の名案に、光太郎は異を唱えて口をとがらせた。
「えー、もうちょっと楽にこれる場所のほうがいいと思うんだけどなあ」
「楽にいける場所じゃ秘密にできないじゃん」
「でもここ、西小の学区だぜ」
「でもこないだ章ちゃんは西小学区の子とサッカーしたっていってたよ。親友だってさ、親友」
「そんなかんたんに親友になれるかよ」
ぶつぶつと文句を垂れながらも、光太郎は私の後ろをついてきた。彼は三年生のころに西小学区の子供とけんかになって、鼻血が出るほど殴られる、なんていう大けがをしたことがあった。以来西小学区の子供に対して敵愾心と恐れとを抱くようになってしまったらしく、五年生の終わりごろ彼が広島へ引っ越すまで、周囲にいた友達は私もふくめ全員が東小学区の子供だった。例外は、ただの一人しかいなかった。
「いけるとこまでいってみようよ」
「どこに出るのかわかんないだろ。墓場とか出たらどうすんだ」
「ああ、八月って、ユーレイが帰ってくるんだっけ」
「おぼんだろ」
「おぼんおぼん」
軽口を叩きあいながら、私たちは進んだ。熱気にさらされた草の海を、行く手を阻む変な怪物であると想像して、落ちていた棒きれで薙ぎ払いながら進んだ。
草の海がなくなると、今度はゴミの山だった。廃車が積まれており、もうそこからは草いきれの、むせかえるような夏の匂いが消えていた。ゴミの山は廃車によって視界が狭くとられ、草の海の得体の知れなさとはちがい、作られた迷路のような印象を与えてきた。
この付近について、車が崩れると危ないから近づくな、と全校集会で言いつけられていたのをすっかり私は忘れていて、自然から人工物の残骸に景色が変わったことを、探検の一区切りと捉えただけだった。私の前に進み出た光太郎も棒きれで車を叩きつつ、すげーな、と声を漏らしていた。
「ここ、入れそうだよ」
私が見つけたのは、白いハイエースだった。四つのタイヤすべてがパンクしており、地面に根を下ろしたような車体は、雑草やつる草に覆い隠されており、いかにも基地と呼んでしかるべきもののように思われた。後部のドアを開けるとシートを外された中はきな臭いもののがらんとしていて、私と光太郎は中に踏み込むと、しばらくの間、いい場所を見つけた感動に酔いしれた。
やがて出てきて、ここにいろいろな物を持ちこんでもっと住みよくしよう、などと話し合いながら先へ行くと、次第にゴミも少なくなり、また草の海となった。
遠くには森が見えており、この先は本当に探検になるぞ、と私は意気込んだ。実際には二年もしないうちにその森が拓かれ、小さな団地になってしまうまで、結局私は一度もそこへ踏み込まなかったのだが……。
踏み込まなかったのは、ゴミの山の終わりに、キャンピングカーが停まっていたからだ。古ぼけた車体から察するに、これもゴミのひとつだろうと思った私は、この中はさっきのハイエースよりもよほど住みかとして適しているにちがいないと、ずかずか近寄っていった。ためらわず、戸を開けようとする。だが光太郎と二人で引っ張っても、びくともしなかった。きちんと鍵がかけられていた。
さすがに窓を割ってまで入ろうとは思わなかった私であるが、中がどんな風になっているか知りたくて、近くにあったタイヤを転がしてくると、キャンピングカーに立てかけて、バランスをとりながらのぼってのぞきこんだ。
途端に目があったものだから、驚いた私は窓を叩いてのけぞった。そのままバランスも崩れ、光太郎が避けたせいで、背中から地面に落ちた。尖った石が肩甲骨の下から食い込んで、思わず泣き叫びながらのたうち回った。
五分ほど泣いていたが、落ち着いてくると受け止めてくれなかった光太郎に対して怒りを覚え、わめきながら彼の頭を殴って、追いかけ回した。向こうは戸惑いながらも反撃してきて、そのうち蹴りの一発が脇腹に当たって、熱い鉛が腹部にじわりと入るような感触に、また私は泣いた。殴られた光太郎も泣いていて「ばか、くそ、死ね」と暴言を吐きながら最後に棒きれを投げつけ、もと来た道を引き返していった。
残された私はしばらく悶絶していたが、やがて立ち上がったころ、すっと光太郎への怒りが冷めた。こんなゴミ捨て場の、しかもキャンピングカーの中に人がいたことに、興味と恐怖を抱き始めていた。
光太郎が投げつけていった棒きれを拾い上げて、そろそろと、この場をあとにした。鍵のかかっていたあのドアが開いて、いまにも追いかけてくるのではないか。この一帯のゴミ山の主で、勝手に踏み込んできた私を返さないつもりではないか。想像するだけで恐ろしかった。
かなり距離を空けて、草の海に飛び込めるところまで下がると、遠くにキャンピングカーが見えた。そうっと窓の位置を眺めると、はたしてそこに、人影はあった。ぞっとして、棒を握りしめる。
ところが人影は、私に向かって手を振っていた。いまにして思えば昼間であったし、さほど怖い状況でもなかったのだが、得体のしれないものに手招きされているという実感が薄気味悪くて、私は急いで逃げた。
翌日の昼過ぎ、夏休みの宿題を終わらせた私は、いつものスーパーの前で光太郎が来るのを待った。けんか別れしたため、ものすごくばつが悪くて会うのも躊躇われるほどだったが、昨日の発見と感動と、そしてキャンピングカーの謎を共有できるのは、やはり光太郎しかいなかった。なにより、一人で行くのは怖かった。これが私の謝罪を後押ししてくれた一番の要因だったと思う。
昨日の今日で私がいると思っていなかったのか、光太郎は私の姿を認めると、きびすを返してそそくさと去ろうとした。素早く追いすがった私は、勢いのままに練り飴とモロッコヨーグルトとどんぐりガムを差し出した。そして、頭を下げた。
ややあってから顔をあげると、光太郎は私の手から駄菓子を受け取り、「べつに、怒ってねえし」と笑った。ぎこちなく、私も笑んだ。
彼はガムを、私は自分用に買ったラムネ菓子を食べながら、昨日訪れた場所まで歩く道すがら、私は自分が見たものについて手早く説明した。光太郎は「本当に見たのかよ」「すげーな」としか口にしなかったが、おそらくはまだ私に気を使っている部分があったのだろう。
けれど草の海についてしまうと、そこからは互いに無言になった。握った棒きれを得物として正面に構え、息を殺して歩いた。昨日と同じ道を行けばキャンピングカーから私たちの動きが終始見えてしまうので、大きく迂回して、キャンピングカーの死角から近づいた。
二人でいるため、私も光太郎も気が大きくなっていた。逃げる際に通る道を決めると、森の近くから草の中を出てきて、遠目に窓をのぞきこむ。窓辺には、桔梗の花が一輪、ガラスのコップに挿してあった。人影は見当たらない。
「どうする」
「中見てみようぜ。今度はきちんと支えてやるよ」
「おいかけてきたら?」
「すぐに草むらに入って、どこいったかわかんないように逃げる」
よし、と決心がついて、私たちはタイヤよりは安定していそうな、古いソファを引っ張ってきた。二日前の雨の染み込んだソファからはいやな臭いがして、肘かけを持つと手に水気が張り付いた。
「気持ちわる」
「けって運ぼう」
あとはかわるがわる、ソファを蹴飛ばしていった。キャンピングカーの下につくと、光太郎が周囲を見張って、私がのぞくことになった。互いに棒きれは担いだままで、なにか起きたらすぐに退散する姿勢をとったまま、ぐずりと沈む布張りのソファに足をかける。
そっとのぞいてまた目があうようなことになってはたまらないので、勢いをつけてばっと室内を見渡した。花のコップが置いてある棚、U字型のシートと中央に設置されたテーブルが見えて、シートには横になっている人影があった。
シャツと下着だけを身に付けた、簡素な身なりをしていた。髪の毛はゆらりと長く、肩を越える程度。全体的に細身で、こんな夏の盛りだというのに、肌は白かった。唇が赤いのが際立って見えて、横たえた身体を丸めている様は、赤ん坊のように思えた。
「どうだ?」
「やっぱり、人がいる」
「本当?」
光太郎は私と交代して、ソファにのぼった。ああ、と溜め息を漏らした光太郎は、ついでちぇっと舌打ちをしてこちらを向いた。
「先に使ってるやついたんじゃ、ひみつきちにはできないな」
「いっしょに使わせてもらえば?」
「見たとこ、こいつおれたちよりけっこう背、高いぜ。中学生だよ」
中学生、と口に出してみて、遠い存在だと思えた。私と光太郎より、少なくとも三年は長く生きているのだ。三年後、自分はなにをしているんだろう。考えてみても当時の私はなにも想像つかなかった。三年前の自分が四年生の自分に対して抱いていた思いも、回想できなかった。
いま、こうして四年生当時のことを思い返している私も、三年前や、三年後の自分といまの私が連続した存在のようには思えない。遠い記憶は記録でしかたどれない。
「中学生かあ」
「ちょっとなあ」
囁き合い、私と光太郎は考え込んだ。と、顔をあげてみたら、光太郎の背後に影が差していた。ひく、と息を呑んで、私は固まった。赤い唇と、白い肌の中学生が、ゆらりと立ち上がっていた。
「うわ」
「え、うわ」
一瞬遅れて気付いた光太郎が、転げ落ちる。とっさに助けに入ったが、もんどりうって二人とも倒れた。鼻を打ったらしい光太郎が叫んだ。けんかで鼻血を流して以来、光太郎は異様に鼻の神経が過敏になっていた。早いとこ助け起こして逃げなきゃ、と思ったが、どうにも光太郎は動けない。思わず私は窓の方を、助けを求めるように、許しを請うように、見上げた。
車の主は窓ガラスに両手をついて、こちらを見ていた。なにをする気なんだろう、とそら恐ろしくなったが、一度見てしまうと目が離せなくなる。視線を交わすまま固まった時間を過ごすうち、私は相手の表情に気付いた。車の主には、こちらに危害を加えようという意志が感じられなかった。
不思議に思いつつも、まだ息は止まったままで、私は反射的に手をあげた。車の主も、手をあげた。そしてどちらともなくゆらゆらと、骨ばった手を横に振った。
「大丈夫か、その子」
「うん、だいじょうぶ。ねえ、光太郎」
「そうか、よかった」
白い印象の車の主は、ユウタと名乗った。わずかに開けた窓の隙間から、ソファを足がかりに背を伸ばす私と光太郎に、ぎこちない笑顔で語りかけてきた。
昨日ここで私と目があったのも、彼だったらしい。髪が長い上に中性的な顔立ちだったので、女の幽霊かと思った、と素直に光太郎がいっても、緩い笑みを浮かべて手を振るだけだった。ユウタは、私と光太郎の思い描いていた「中学生」とは、ずいぶんかけ離れた存在だった。といっても、当時の私が考えていた中学生とは、友人の章ちゃんの兄であるアキヒロくんで、野球部の彼はとても体格がよく性格は粗野で、線が細く温厚なユウタとは対照的な存在だった。
「昨日はおどろかせてごめん。まさか、人が来るとは、思ってなかったから」
「こっちこそ、かってに入ってきてごめんなさい」
「いいよ。ここ、ちょっと町から離れて奥まったところにあるし、遊ぶにはもってこいの場所だろうから。入りたくなる気持ちもわかるよ」
「ユウタもそこであそんでんの? ほかにだれか、いるの?」
まだ痛むのか、鼻をおさえながら光太郎が訊く。ユウタはちがうよ、と答えて、シートの上であぐらをかいた。中は冷房が効いているのか、開いた窓からは涼しい風が吹いていた。
「いいや。ここは俺だけだよ。遊んでるわけじゃなくて、ここで暮らしてるようなものさ」
「暮らしてるんだ」
一人暮らし、などという、想像するにも遠い言葉がまた頭に浮かぶ。それを表情から見て取ったように、ユウタは続けた。
「一人で、じゃないけどね。昼間は俺だけの留守番なんだ。うん、そういうこと」
「なあんだ、そっか」
家族で旅行でもしていて、途中で立ち寄り、ここにいるのだろうと私は思った。光太郎もふんふんと納得したようなうなずきを見せていた。
「暗くなると危ないから、早めに帰りな。昼間遊んでる分にはいいけど、夜になるとそこの草むら、蛇が出るよ」
「はぶ?」
「ハブはいないんじゃないかなあ。マムシならいると思うけど」
笑いながら、ユウタはいった。私と光太郎も、つられて笑った。なんだか少し、大人になったような気がした。相手は中学生だというのに、対等に話せていると感じて。
実際にはユウタが私たちに合わせてくれていたのだろうが、そこに気付けるほど、私は周りと自分のちがいを認識していなかった。
「昼間なら、また来てもいい?」
「ああ。暗くなる前に帰れるなら。でもいろんなものが散らばってるから、けがしないように気をつけてな」
手を振ったユウタは、またシートに横になった。こんな時間に昼寝をするなんて、中学生は夜更かしでもしてるのかな、なんて私は考えていた。ソファから降りた私と光太郎は顔を見合わせて、ハイエースを秘密基地にするべくなにを持ってくるか話し合いながら、その日は帰路に着いた。
それからは毎日、私と光太郎は秘密基地の製作にいそしんだ。といっても、遊び道具や使えそうな粗大ゴミを並べる作業だったので、二日と経たずに完成した。
作っている間の方が楽しかったと思いながらも、ほかに知る者のない隠れ家があるというのは痛快だった。とくにここは西小学区に近い、東小学区の自分たちからしたら縄張りの外なのに、だれも近寄ってこない。ひそかにやってはいけないことをしている感覚が、日々を充実したものに変えてくれた。
ユウタとも、行くたびに顔を合わせるので次第に仲良くなっていった。相変わらず車の中に留まっていて、昼寝ばかりしていたが、暑くてへとへとになった私たちを冷房の効いた車内に招いてくれて、たまに麦茶を出してくれた。私たちは土足であがるが、彼はいつも、車内で裸足だった。
四年生の夏休みのほとんどを、秘密基地で過ごした。道なき道だった草の海も、毎日通る私たちに踏みしめられるうち、きちんとした道として形になっていった。
辺りを探索して気付いたが、同じようにキャンピングカーも草むらを踏みしめて出入りしているらしく、森と草むらのちょうど隙間のところに、一台分通り抜けている痕跡があった。あそこを通って飲み物や食べ物を買いに出てるんだね、と私は尋ねたが、ユウタは半笑いで曖昧にごまかした。言葉に詰まると、彼はきまって、花一匁を口笛で吹いた。花一匁って、女子みたい、と私たちは笑った。
別れが迫っていると知ったのは、お盆も過ぎて、夏休みも終盤にさしかかったころだ。いつものように光太郎と、ユウタのキャンピングカーに入れてもらっているとき、買ってきた練り飴をなめながら光太郎がつぶやいた。
「そろそろ、花火大会だな」
「花火?」
「毎年、二十八日にやるんだよ。場所は西小学区のほう、草むらのむこうの森のむこう」
光太郎の説明に合わせて、私は方角を指差した。しかしキャンピングカーは窓が車体の左側、方角でいうと南側にしかついておらず、私の示した方向は壁だった。それでもユウタは視線をめぐらして、見えない向こう側を見据えながらへえ、とため息を漏らした。
「そうか。もう、月末が近いんだ」
「ユウタもいっしょに行こうぜ。おれ、今年こそ屋台ぜんぶまわるんだ」
「ううん。行きたい気持ちはあるんだけど、俺はここ、留守番してるからさ。勝手に出歩くことはできない」
「夜は帰ってくるんじゃないの?」
「夜は車ごと出かけるんだよ」
思えばあのとき、私たちは自分が話すばかりで、ユウタのことをほとんどなにも訊かなかった。漠然と「夜は親が帰ってくるんだろう」と思っていただけで、夜は出かけると聞いたとき、大層おどろいたことを覚えている。
「親といっしょに?」
「そう。で、留守番は妹と交代する」
「妹、いるんだ」
遊んでもらっている、という自覚はさすがに私にもあったので、妹がいるという言葉がかちりとはまってしっくりきた。年下のきょうだいがいるから、面倒見もいいのだろうと。
「おまえらより、少し上かな。十二歳。俺より二つ下」
答えながら、ユウタは窓辺に目をくれた。日向の窓辺に置かれていた桔梗はすっかり色あせて、ドライフラワーより乾いた風合いをさらしていた。
「だいぶ時間が経ったし、そろそろここを離れると思う」
「どこか行っちゃうの」
「遠くの方さ」
「東京?」
遠くと言われて最初に思いついたのは、一度だけ伯父の元を訪ねたことのある東京、だった。私の言葉にユウタはもっと遠くだ、とかぶりを振った。光太郎が、おれ北海道行ったことある、と口にした。もっとだ、と言われて、私は外国へ行ってしまうのだと思った。
「遠いんだね」
「こっちの方には、もう戻っては来ないだろう。たぶん、月末にはここを出る」
「月末」
「花火、見たかったよ」
苦笑いを見てしまうとさびしくて、私と光太郎は黙りこくった。どうにかして一緒に、花火を観に行けないものかと思案した。
「ねえ、夜ってどこにいるの?」
「駅の近くの、繁華街にあるビル。方角的には、花火があがるのと逆の方だよ」
「おれたち、あっちのほうは夜、ひとりで行ったらだめって言われてるんだよな」
「でもどうにかならないかな」
「無理はしなくていいよ」
私と光太郎が頭を悩ませているのを見て、ユウタはくすりと、いつもの笑みに戻っていた。鮮やかな唇が印象に残る、温度のない笑みだった。光太郎を思い出すときもそうだが、ユウタも口元ばかりが目立っていたので、思い返すときはいつも、八重歯になった彼の犬歯が脳裏に浮かぶ。
「お祭りなんだろう。二人で、楽しんでおいで。俺のことは気にしなくていい、花火を見たいってのは、いってみただけだから」
けれど私と光太郎は諦めがつかなかった。いや、秘密基地を作るというこの夏の大きな目標を達成してしまったので、新たな目標がほしかっただけかもしれない。なんにせよ、次の日からはユウタと花火を見ることはできないかと、二人してこそこそと準備をしていた。
毎日のようにあの秘密基地へ足を運んでいたのが急にぱったりと来なくなったのだから、実際のところユウタにはばれていたのだと思う。しかし当時の私たちはそんなこと思いもしないで、当日になってからびっくりさせてやろうと考えていた。
まず私たちは、夜に出歩くととがめられるので、昼の内に繁華街へ向かった。家から向かうと、秘密基地よりもさらに遠くにある繁華街は、自転車を使っても、道に慣れていないので着くまでに少々かかった。
親と一緒に遠出したときなどに目にした、夜特有の明るさも騒がしさもない街路は、眠りについた灰色の大きな生き物を思わせた。隙間を縫うように走り抜けて、私たちはユウタが夜を過ごすのだというビルに、辿り着く。五階建ての雑居ビルで、通りは呑み屋とスナックばかりが立ち並んでいた。時折、気だるげな大人が私たちを見て、怪訝な顔をして過ぎてゆく。
「何階だろ」
「わかんないな。でも何階だとしても」
ちょっとエントランスに入って、階段をあがり、ドアの並んだ廊下に出たところで、光太郎が北側を指差した。このビルよりももっと大きなビルが建っていて、廊下に出ても、屋上へ行っても、花火の方向を見ることはできないようだった。
ビルから出て、片側二車線の大きな道路を挟んだ向こうを見ても、大きなマンションが並ぶのみ。反対側へ一緒に渡ることができれば、あのマンションをのぼって、北側を見はらすこともできるのかもしれないが。ユウタは夜はビルから出られないらしい。
「これじゃ、見れないよな。どうするよ」
「どうしよう。あー、うちあげる場所がこっちのほうだったら、このビルからでも見えたかもしれないのに」
「場所変えてくんないかなあ」
「たのんでみる?」
「だれにだよ」
「なんか、えらい人。花火うちあげる人」
「どこにいるかわかんないじゃん」
光太郎は呆れたようにいった。むっとした私はいい返す。
「じゃあ探せばいいよ。なにさ、もうあきたの?」
「そんなこと、いってないだろ」
「ならまじめにやろうよ」
「まじめにやったって、花火の場所なんか、そうそう変えられるか?」
遠くまで来て、疲れていたからだろう。些細なことでいらだって、また私と光太郎は険悪な雰囲気になった。だが脳裏をよぎるユウタの笑みが、私のささくれだった心を落ち着かせる存在だった。けんかはやめようと思い、二人してそっぽを向きながらも、共に自転車にまたがって、この日は帰路についた。帰りは道がわかったので行きよりも早かったが、それでもなお、遠かった。
親に花火を打ち上げるのはだれなのか、と相談した私だったが、場所を決めるのは花火師ではないと聞いたところでがっかりして、その後の話は耳に入らなかった。親は花火師になりたいと私が考えているように推測したのか、いろいろと詳しく説明してくれたらしいが、いまもまったく記憶に残っていない。
「うちあげ場所に、ガソリンまいたら場所変えるんじゃないか」
「たぶん、中止になるだけじゃないの。ていうかばれたらすごい怒られる」
光太郎との相談は続けていたものの、実現できるかどうかは怪しい、と私も思い始めていた。もうこうなったら、安い小さな市販の花火を、ちゃんと会える時間にやるしかないかと、妥協案を探し始めていた。そして実際に、私たちは小さな花火セットを、小遣いを出し合って購入した。あとは家族で花火を楽しんだときに、暗闇に乗じていくつか、大きめの花火をくすねた。
これらを持ちよって、私と光太郎は夕暮れ時、ひさしぶりにユウタの元を訪ねた。さすがに昼間やるものではないと思い、わずかばかり暗くなってから、懐中電灯で草の海を照らし出した。夜の草むらは蛇が出る、などとユウタに脅されていたので、足下ばかりを照らしていた。海藻揺らぐ、本当の海のように見えた。
ところが、まだ日が暮れきったわけではないのに、ユウタはもういなかった。キャンピングカーの車輪のあとが草をかき分けて彼方へ走り去っており、暗がりの中に沈殿したゴミの山の中で、私と光太郎は取り残されていた。
することもなかったので、ハイエースの秘密基地に忍び込んだ。そして後部ドアを開け放したまま、いくつかの花火を手探りで握った。
「おれが火、つけるよ」
「じゃあ花火、もってるよ」
大人のいない、だれも知らない場所であぶないことをしている感覚は、動悸が激しくなるほど緊張を強いられた。しゅうっ、と光があふれだすと、私と光太郎の顔が薄い闇から浮上する。二人で一本の花火を、完全に燃え果てるまで続けた。火が尽きても、視界にはちかちかとまたたきが残っていた。笑い転げる私たちは、もう一本に火を点けた。火の先を地面へ向けると、立ち枯れしていた草が、ちりちりめらめら燃え上がった。
「おー、おー」
「放火だ、ほうか」
地面に穴を掘り、枯れ草と枯れ枝を集めて、私たちは束の間、明かりを生みだすことを楽しんだ。ユウタもいればな、とさびしさが一度だけ頭をかすめたが、私たちはすぐ火の扱いに没頭した。
思っていたより慎重にやっていたおかげで、周りに燃えうつることこそなかったが。この日家に帰った私たちは煙くささによって家族に花火をしたことがばれて、子供だけで火を扱うな、とこっぴどく叱られた。罰として、残りの夏休みは家を出てはいけないことになってしまった。
だがこれで、ユウタと会える機会は最後なのだ。夕食後の、親の監視がゆるくなった時間を狙って、私はベランダから抜け出すことにした。私が住むのはマンションの三階端で、すぐ隣には非常用の階段があった。非常時に壊すための壁を、毎日丁寧に彫刻刀の切りだし刀で削り、ついにその日、二十八日。私は音もなく外れた壁を抜けて、急いで階段を駆け降りた。履くものがなかったので、持ち帰っていた学校の上履きを足にはめた。
夜の街を、私は駆けていった。すでに日は暮れかけていて、もうあの場所にユウタはいない時間であったが、もしかしたらと一縷の望みを抱いて、走った。あれほど踏み倒してきた草の海は、数日私たちが通らなかっただけで、また身体を空に向けて伸ばし始めていた。
ハイエースの手前、花火をした場所の焦げ跡は残っていても、ユウタの姿はどこにもなかった。キャンピングカーは車輪のあとを残し、消えていた。遅かった、と自分の足の遅さを嘆く。すると、背後でがたんと音がした。振り向くとハイエースのドアが開き、光太郎が、降りてきた。野球帽をかぶっておらず、細い目で私の顔を見上げていた。
「おれも、さっき来た。もう、いないんだな」
「うん」
また、背後で音がした。
ぼっ、と打ちだす音のあとに、空で火が弾けた。私たちの影が、明滅した。
「あ」
「はじまった」
花火大会は、約一時間続く。私と光太郎は目を交わして、急ぎ、走り出した。草の海を駆け抜け、道路に出ると、走って走って繁華街へ向かう。なにをするという具体的な目標はなく、立ちすくんでいるのがいやで、動くことにした。
――夜の繁華街は淀んだ空気が滲んでいて、明るいのに全体がぼやけているような印象を、視覚に投げかけてくる。自転車でもかなりの時間がかかる距離を、私と光太郎は、ひたすらに走ってきた。普段なら周りの人々から、こんな時間に私たちのような小学生が歩き回っていることに、不審な目を向けられただろう。しかし今日に限っては、花火大会というお祭りがあることがカムフラージュになって、だれにもとがめられることなく進んでくることができた。
やがて、私たちは雑居ビルの元にまで行き着く。上履きなんかで走ったせいで足は痛くて、かかとのところは皮がむけていた。ぜえはあと息を切らして、私たちは鼻にしみこむ排気ガス混じりの空気を吸った。深呼吸しながら、上を向いた。
ビルの三階、ベランダのところに、ちいさな赤い光が見えた。それが煙草の先端にともった光だと気付くまでに、少しの時間を要した。私たちは手を振った。
「ユウタ!」
白いシャツを着たユウタが、ベランダで煙草を吸っていた。煙草を口にしていること以上に、私たちに目を向けていない彼をはじめて見たので、少しだけ、ちがうだれかのように見えた。だというのに次の一瞬、おどろきに満ちた顔で私たちに気付いて手を振るのは、まぎれもなく彼だった。
花火は、ついに見ることができなかったものの。最後にもう一度会えただけで、家を抜け出してきた甲斐があったと、私は胸がいっぱいになった。
ユウタは、声を出すことこそないが、笑顔で、通りの向こうを指差した。なにかあるのだろうかと、私たちがそちらを向けば、車道を挟んで向かい側に建つ大きなマンションがある。
窓ガラスに、花火が反射して映っていた。たくさんの部屋の、それぞれの生活を映す窓に、崩したジグソーパズルみたいに、ぱっと花火が咲いて消えた。最後の二発を、私たちはいっしょに眺めた。
その日を境に、ユウタは、キャンピングカーと共に秘密基地からいなくなった。光太郎も、五年生の終わりに広島へ引っ越して、中学三年生のあたりでまたどこかへと引っ越したらしく、以来一度も連絡はとれていない。草の海は私が高校に入るころ、公園になった。数年経ったいまは遊具も朽ちかけていて、いかにもみすぼらしく、あのゴミの山を彷彿させる。
花火大会は、市の予算が足りなくなったらしく、今年から中止になったということだ。