day6─帳─
翌週、月曜日。放課後のチャイムが鳴り終わるや否や、絢葉は鞄を肩に掛けて、まっすぐ昇降口へ向かった。
職員室にも寄らず、旧音楽室の前を通ることもせず、ただの生徒のように帰宅するフリをして。
外に出たふりをしてから一度周囲を確認し、そして校舎裏に回り込み、靴音を忍ばせながら別の入り口から再び校舎に入る。向かうのは優雅部の部室だ。
史桜の指示はこうだった──「君たちは顔が割れている。吹奏楽部員から君らの動向が漏れている可能性は十分にある」と。ならば、“帰った”と思わせることこそが、相手を油断させる唯一の手だ。尚、奏汰に関しては「彼は部室に来たがらない。雰囲気が合わないらしくてね。だから今日は彼には普通に帰宅してもらう」だそうだ。
部室の扉を開けると、史桜が肘掛け椅子にゆったり腰掛け、開いた文庫本を膝に乗せていた。
「ご苦労様。どうやら気づかれずに来られたようだね」
「ちょっと心臓に悪いですけど……」
「調査というのは往々にしてそういうものさ」
史桜はページを閉じ、指先で軽く机を叩いた。
「今日こそ“幽霊ピアニスト”が姿を見せるだろう。先週は私たちの存在を警戒して出なかったのだ。君が帰宅したと思わせれば、油断して現れるはず」
「……そこまで計算しているんですか」
「計算ではない。あくまで推測だ。だが、試す価値はある」
二人はそのまましばし談笑をし、時を潰す。窓の外は次第に朱を失い、校庭には夜の影が伸びていく。下校時刻が迫り、校舎のざわめきも消えかけた頃、史桜は言った。
「そろそろ頃合いだ」
絢葉は優雅部部室を後にして、廊下を抜け、旧音楽室へ向かう。近づくほどに、かすかな旋律が耳に届いた。
──ピアノの音。
柔らかく、けれども確かなタッチ。月光のように透き通った音色が、誰もいないはずの教室から流れ出している。
絢葉の背筋がぞわりと震えた。
「……本当に、いる」
【物音を立てないように。その場で演奏の録音を】
史桜に促され、絢葉はスマートフォンを構えた。扉越しでは音がややこもるが、旋律ははっきり拾える。情感豊かな演奏。指先が踊るような速さと繊細さで鍵盤を叩いているのが、扉一枚隔てたこちらにも伝わる。
幽霊などいるはずがない──そう思っていても、目の前の現象に心が揺さぶられる。
やがて曲が終わり、短い余韻を残して音は途絶えた。
静寂。廊下の蛍光灯がジリと鳴る音がやけに大きく響く。
史桜からの指示が届く。
【下校時刻が近い。出てくるかもしれない。君は近くの柱の陰へ】
絢葉は素早く静かに、廊下の角の陰に身を潜めた。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴る。視線の先には旧音楽室の扉。
──カチャリ。
扉の取っ手が、金属音を鳴らした。冷たい音が、緊張を一気に張り詰めさせた。
その瞬間。
「こんな所で何をしている」
背後から声が落ちてきた。
絢葉は息を呑んで振り向いた。そこに立っていたのは、村西だった。眼鏡の奥の視線が鋭く、まるでこちらを見透かすように光っている。
「……村西先生……!!」
「もう下校時刻だぞ。それに旧音楽室は立ち入り禁止だ。何をしている」
旧音楽室の扉は、開からずに沈黙していた。中の気配も無く、ただ静けさだけが残る。
まるで、村西の声に反応して、演奏者が気配を隠したかのように。
叱責に押され、絢葉は「すみません」と頭を下げてその場を離れるしかなかった。振り返ると、村西はなおも廊下に立ち尽くし、絢葉の背をじっと見送っていた。
──その眼差しが、何を意味するのか。
夜。帰宅した絢葉は、スマートフォンを通じて史桜に録音データを送った。すぐに返信が来る。
【確かに鮮明ではないが、十分だ。やはり、お手本のように出来の良い演奏だね】
続けて文字が現れる。
【それにしても、村西教諭の登場、あのタイミングで現れたのは偶然だろうか】
【私の存在に気付いて、わざとあのタイミングで?それともたまたま見回りで来ただけでしょうか】
【どちらも可能性はある。疑いの目を向けるならば、演奏者と共犯であり、見張っていた。あらいは、人感センサーで再生するレコーダーが仕掛けられていたように、内部から録音を再生するトリックを仕掛け、かつ君の前に旧音楽室の外から姿を現すことで、自らを容疑者から外そうとした】
絢葉は指先を強く握った。やはり、不自然さは拭いきれない。
【果たしてあの時、中に人は居たのか……。山野辺女子と古谷女子の件は進展がない。明日、再び吹奏楽部の練習を覗いてみよう】
史桜のメッセージはそれで締めくくられていた。
絢葉はスマートフォンを伏せ、深いため息を吐いた。
心に残るのは、あの旋律の余韻と、村西の視線の鋭さ。
幽霊の正体は誰なのか──答えはまだ霧の中だ。