day1─雨音の昼下がり─
六月の雨が、校舎の屋根や窓を静かに叩いていた。梅雨に入った湿った空気が校庭を重たく包み、放課後の静英高校はどこか夢うつつのように沈んでいる。
六時間目の授業が終わり、生徒がまばらになった頃。
鞄を抱えた絢葉は、そっと優雅部の部室の扉を開いた。
──ふわり。
漂ってきたのは、紅茶の香り。
中では史桜が窓際の机の前の肘掛け椅子に腰掛け、優雅にポットから紅茶を注ぎ、三段重ねのティースタンドを前にしていた。そこにはサンドイッチや焼き菓子、そしてレモンタルトまで並んでいる。
「やぁ、東雲君。今日も来てくれて嬉しいよ」
史桜が顔を上げ、ゆったりと微笑んだ。
(なんか本格的なアフタヌーンティー楽しんでるこの人!どこからこんなの持ち込んでるの……)
絢葉は心の中で小さく突っ込みを入れつつ、思わず一歩立ち止まる。
「さ、遠慮はいらない。君もこちらへ」
史桜に手で促され、絢葉は「は、はい……!」と少し緊張しながら机に向かい合って腰を下ろした。
ティーカップを手に取りながら、史桜は得意げに言う。
「今日のレモンタルトはなかなかだよ。レモンの酸味とカスタードの甘さが、互いを引き立てている」
「た、確かに美味しい……!まるでお店みたい……」
絢葉はタルトを一口食べ、思わず感嘆の声をもらす。
そのとき──
コン、コン。
部室の扉が、小さく控えめに叩かれた。
「ほう。久々のお客様かな。どうぞ」
史桜が朗らかに声を掛けると、ゆっくりと扉が開いた。
姿を見せたのは、小柄な女子生徒。
肩まで伸びた髪は手入れされずぼさぼさに乱れ、前髪が顔にかかっている。大きな丸眼鏡の奥の瞳は、その髪に隠れてほとんど見えなかった。小さな体をさらに縮めるようにして猫背で立ち、制服の袖口をぎゅっと握りしめている。
「あ、あの……」
震える声。
「し、白石……琴音。に、二年です……」
史桜は微笑みを崩さず、椅子を指さした。
「存じているとも。君は図書委員だったね。どうぞ、掛けたまえ。今日は何の要件で?」
促されて腰を下ろした白石琴音は、肩をさらにすぼめ、か細い声で話し始める。しかし言葉はしどろもどろで、途切れ途切れに消えていく。
「えっ……?あの、すみません、もう一度お願いできますか……?」
絢葉は首を傾げ、必死に耳を傾けるが、それでも聞き取れずに戸惑った。
そんな中でも、史桜は眉一つ動かさず、柔らかい声を差し出す。
「落ち着きたまえ。我々は君の味方だ。きっと力になってみせよう」
その言葉に、白石の張り詰めていた肩がほんの少しだけ緩む。そして、途切れ途切れながらも、やっと本題が口にされた。
「……と、図書室で……あの……雨の日になると……窓に、も、文字のような、記号のような……何かが……浮かぶんです……。最初は落書きかと……でも、怖くて……何度も……出てきて……」
「ふむ、雨の日に窓に……」
史桜は指先でカップの縁を叩き、少し考える素振りを見せる。
「今日は、まさに雨だね。君は、今日はもう図書室に行ったのかい?」
琴音は小さく首を振った。
「い、いいえ……今日は、まだ……」
「ならば、今から向かうとしよう」
史桜は即座に立ち上がるでもなく、絢葉へと視線を送った。
「東雲君、頼んだよ」
「えっ、今から!?は、はいっ!」
絢葉は背筋を伸ばし、慌てて答える。
「うむ。現場を観察するには、まず素直な眼が必要だ。奏汰もまだ校内に待機しているだろう。合流して、白石君と共に向かってくれたまえ」
こうして、絢葉と白石、そして呼び出された奏汰の三人は、連れ立って図書室へ向かうことになった。
雨脚は次第に強さを増し、校舎の窓を叩く音が一層はっきりと耳に届いていた。
図書室へ到着し、中に一歩踏み入ると、紙の匂いと湿った木のにおいが混ざり合う。本棚の長い影が低く床を這うように伸びている。
「……あ、あそこ」
白石が示した先の窓には、確かに文字らしいものが滲んでいた。輪郭はまだはっきりしない。雨粒が走るたびに線は揺れ、文字なのか記号なのか、ただの落書きなのか。それは捉えどころなく形を変える。
絢葉は息を詰める。指先が、少しだけ震えた。奏汰は眉を寄せて窓の表面を覗き込む。「なんだこれ?ペンとかで書いたもんじゃない。窓に、そのまま文字みたいなもんが浮かんでる」
「読めますか?」
白石が囁く。答えはだれにもない。
そのとき、
「やー、何やってんの?」
背後から明るい声が響いた。
振り返ると、黒髪短髪の男子が立っていた。ジャージの胸に『佐伯』と書かれたワッペンが光る。やや日焼けした肌と軽い彫りの顔立ちが、ぱっと目を引く。誰が見ても明るく、声が大きいタイプだ。
「佐伯……」
「知り合いですか?」
ぽつりと呟く奏汰に絢葉が問う。
「佐伯悠斗。クラスメイトだ。陸上部の練習中じゃないのか?」
佐伯悠斗はニカりと笑った。
「今日は雨だからなー、室内で簡単な自主練して終わったんだよ。そしたらお前らを見かけて、なんか珍しい組み合わせだなーって思って。奏汰が居るって事は優雅部だろ? あの呉宮が部長の」
(やっぱり呉宮先輩、有名なんだな……)
脳内で史桜の得意げな顔を思い浮かべる絢葉。すると、何があったのか佐伯が問うてきた。
ここに来た経緯を簡単に説明し、窓の文字を見せる。
すると彼の顔には、好奇心と、どこか少年らしい無邪気さが浮かんだ。
「へぇ!面白そうじゃん!なぁ、よかったら俺も混ぜてくれよ。部活ある日は来られないけどさ、出来る範囲で手伝うよ。白石も一年の時は同じクラスだったよしみでさ」
悠斗は肩をすくめて、再び笑った。その無遠慮さが、図書室の空気に少しだけ日常を取り戻す。
奏汰は面倒くさそうにしながら、
「オレは知らん。呉宮に聞けよ」と言い、絢葉は史桜にメッセージを送る。
直ぐに携帯が震えた。画面には史桜からの返信。
【ほう、面白い。よろしい、佐伯君を優雅部の臨時調査員として任命しよう】
「よっしゃ!」
メッセージを覗き込んだ悠斗は両手を挙げて得意げに笑う。絢葉はやや呆れ顔で呟いた。
「ほ、本当に、良いんですね……?」
部室で腰掛ける史桜には、驚きや戸惑いを許さない確信がある。だが、その確信は決して威圧ではない。調査は遊びでもあるし、真剣勝負でもある。悠斗のような風は、ばらつくピースを動かす拍子木にもなるだろう。
図書室の窓は、相変わらず薄い文字を揺らしている。誰が書いたのか、何が書かれているのかは分からないままに、雨がまた一滴、窓を伝った。
その日、絢葉は胸の奥で静かに、物語が動き出したのを感じた。
──優雅部の新しい“事件”の幕が、そっと上がったのだ。