9 アーネンコールの教会で
フィガロが魔王城で健康診断を受けていた、ちょうどその頃。
シュテルンビルトの隣国のアーネンコールでは、一人の若き天才ピアニストの話題で持ちきりだった。
その人物の名前はニコロ・ヴァイツ。クリームイエローの前髪で顔の右半分を隠した美しい顔立ちの、十七歳少年だ。
彼はフィガロの弟子であり――彼女を殺害した張本人でもあった。
◇ ◇ ◇
その日、アーネンコールの王都にあるオルトノス教の教会では、いつも以上に賑わっていた。
教会の椅子に座った彼女達は、ソワソワとした面持ちで何かを待っている。
事情を知らない人がこの様子を見れば、場所が場所だけに神に祈りを捧げに来た熱心な人達かと思うかもしれないが、今日は違う。彼女達はここで開かれる、とある人物の演奏会のために集まったのだ。
「ニコロさん、素敵ー!」
「ニコロくん、こっち向いてー!」
その人物が現れたとたんに、あちこちから歓声が上がった。
ニコロことニコロ・ヴァイツ、今日の演奏会の主役だ。彼はファンからの黄色い声援を受けながら、それに応えるように手を振って笑顔を振りまいている。
「……まったく、嘆かわしい。教会を何だと思っているのです」
遠くでそれを眺めながら、一人の神官が不快そうな顔で吐き捨てるようにそう言った。
彼の名前はリヒトと言い、この教会を任されたオルトノス教の神官だ。歳は三十代半ばで、銀色の髪に金色の鋭い目をした長身痩躯の男だ。
「皆さん、今日は僕の演奏を聞きに来てくださってありがとうございます。楽しんでいってくださいね」
リヒトの視線の先では、ニコロが胸に手を当てて、そう挨拶をしている。それを見てリヒトは眉間のシワを深くした。
実のところリヒトはこの演奏会に反対していたのだ。
もちろんリヒトだって音楽は嫌いではないし、音楽の神ルクスフェンが守護するアーネンコールの教会で音楽を奏でる事は推奨される行為だ。なので本来であれば、目の前に広がる光景には「さすがに教会でこれはないだろう」と不快感は感じているものの反対する事は無かった。
リヒトが反対したのはもっと別の理由がある。
このニコロ・ヴァイツという人間に不信感を抱いているからだ。
ニコロという名前のピアニストは、つい先日まで顔も名前もほとんど知られていなかった。
それが彼の保護者兼ピアノの師匠であるフィガロ・ヴァイツが死んだ事件から、一気に有名になったのである。
ただしニコロが事件の被害者としてだが。
「…………」
目を細くしながらリヒトは懐から手帳を取り出した。そしてパラパラと捲り、あるページで手を止める。
そこには件の事件についてリヒトが集めた情報が書かれていた。
ニコロ・ヴァイツは幼い頃に両親を亡くし、王都の隣にある村の孤児院で育てられた。
しかしその孤児院は火事で焼け、ニコロは命からがら逃げ出したものの行く当てがなく、路地に蹲っていたところをフィガロに助けられたのだそうだ。
フィガロと暮らす内にニコロはピアノに興味を持ち始め、彼女の指導でめきめきとその才能を伸ばしたらしい。フィガロは常にお金に困っていたのを知っているニコロは、自分のピアノで何か家計の足しにならないかと作曲を始めたのだそうだ。
しかし、それが悪かった。
ニコロの作曲の才能に気付いたフィガロが、彼の作った曲を自分の作品だと発表し始めたのだ。
それを知ったニコロだったが、彼女に拾われた恩があるからと黙って耐えながら曲を作り続けた。
そんな折、フィガロの元に国から大きな依頼が舞い込んだ。アーネンコールの勇者が、シュテルンビルトの魔王を倒すために出立する際に、勝利と旅の無事を祈って演奏する曲を作って欲しいというものだ。
フィガロはこれは有名になれるチャンスだと考えたらしい。だから当然のようにニコロに作曲するように命じたようだ。
そうして何とか曲を完成させたニコロだったが――その時、彼は初めてフィガロに反抗した。
「こんな大舞台で嘘を吐いてしまったら、もう二度と取り返しが尽きません! 僕は……僕はセンセイの音楽が大好きなんです! だからもうやめてください!」
ニコロはフィガロにそう訴えたが、彼女は話を聞かないどころか逆上し揉み合いになった。
フィガロがナイフを掴んだ時、ニコロは必死で抵抗して、そして気が付いた時には彼女を刺し殺してしまっていた、という事だった。
目撃者はおらず、あるのはニコロの証言と犯行に使われたナイフ、そして部屋に散乱した血塗れの楽譜だけ。またナイフに関してもフィガロが家で使っているモノのようだ。
ニコロの証言を信じるのであれば、正当防衛が成立する。
しかし警察はニコロが犯人ではないかと疑っていた。理由は警察が以前にフィガロを誤認逮捕した事があったからだ。
以前に警察は、フィガロの勤め先で起きた横領事件で一度彼女を逮捕した事がある。
けれども捜査を進める内に、彼女の同僚が犯人だという事が判明したのだ。
その同僚は、金に困っているフィガロが真っ先に怪しまれるだろうと利用して、彼女に罪を被せようとしたと自供した。
実際に、その同僚の思惑は半分くらいまでは成功していた。警察もフィガロが犯人だと考え、取り調べの間も厳しい態度で彼女から話を聞いていたのだ。さすがにまずいと思った警察は、フィガロを釈放する際に上の人間も呼んで丁寧に謝罪した。
するとフィガロは笑って、
「いや~、良かった~。調べてくれてありがとうございます。ほっとしました。捕まっている間は美味しいご飯も三食しっかりいただいちゃって! 逆に申し訳ないですよ」
なんて言っていたそうだ。
もっと怒っても良いだろうし、何なら訴えたって良いくらいの状況だったのに、人が良いにもほどがある。
さらに事件のせいで勤め先に居づらくなって退職する事にもなったのに、彼女は恨み言一つ言わなかったそうだなのだ。
その時に取り調べ等を担当していた警察官が数人、今回の事件の捜査に加わっている。そして彼らはニコロの証言を聞いて違和感を感じたらしい。
だから彼らはニコロが犯人なのではないかというセンで事件を調べていたのだ。
にも関わらず、フィガロを犯人だと決めつけた者達がいる。
世論と国だ。あの事件が起きた直ぐに、アーネンコールで発行されている新聞に、その横領事件の記事が載ったのである。
今回の刺殺事件で死亡したフィガロ・ヴァイツは過去に、その横領事件で疑われた事があると記事には書かれていた。
横領事件に関しては彼女の犯行ではないと証明されている。けれども世間の印象では彼女は未だ「犯罪者」のままだった。
当時の新聞記事のせいだ。その頃、たまたま話題に飢えていた記者達が、横領事件について記事で大きく取り上げて騒ぎ立てたのだ。
それが冤罪だと分かっても紙面での謝罪も訂正もなく、こういう事でしたと小さな記事を掲載するのみ。それで自分達は報道の義務を果たしたと言わんばかりに。
人の記憶はわりと曖昧だ。インパクトが強い方が残ってしまい、特に面白みのないものは忘れ去られる。その結果、フィガロは冤罪だったにも関わらず、今も犯罪者というレッテルを貼り続けられているのだ。
今回の事件の記事を読んだ世論は、ニコロを支持した。そういう物語を好むからだ。そしてフィガロが犯人だと、彼女こそ悪だと声高らかに叫んだ。
それはそうだ、事件の内容と合わせて、恐らく本人にインタビューしたであろうニコロの過去を、めいっぱい記事にして載せたのだから。その号の新聞は相当売れたと聞く。
悲劇のピアニスト――それがニコロのあだ名である。
けれどもフィガロが犯人だと結論が出たわけではない。実際に捜査はまだ続いているし、ニコロの疑いが完全に晴れたわけでもないのだ。
なのにどうしてこんな状態になっているかと言うと、国が原因だ。
勇者の出立を遅らせたくなかった国が「依頼した曲はニコロ・ヴァイツが作曲したものである」と発表してしまったからである。
アーネンコールは音楽の女神に守護された国だ。だからこそそういう行事には、女神に捧げるためにも新しい音楽が必要になる。
しかし新しく音楽家を探して曲を作ってもらうには時間がかかる。そこで国は今回の事件の発端となったあの曲をそのまま使おうと考え、そんな事をしたのだ。
(とんだ悪手だ、まったく)
思い出しながら、リヒトは心の中で悪態を吐いた。
最終的な捜査結果が出る前にあんな発表をしてしまったら、取り返しがつかない事になるのは目に見えている。
国は確かにフィガロが犯人だとは言っていない。けれども、あの発表を聞いた者からすれば、
「じゃあ他の曲もそうなのではないか?」
「そうなると犯人はフィガロだろう」
という話になってしまうのだ。
そして捜査結果でもしフィガロが犯人ではなかったとなれば、今度は世論が手のひらを返して国を批判する事だろう。
「やあ、リヒト。実に不機嫌そうではないか。ほらほら、もう少しそのオーラを抑えたまえよ、周りにダダ漏れしているぞ?」
そんな事を考えていたら背後から声をかけられた。
ハッとして顔を向けると長い赤髪を揺らした女が、ニッと笑って片手を振っている。彼女の名前はマーヴェル。歳は三十代半ばの、アーネンコール王城に勤める役人だ。
「マーヴェル、来ていたのですか」
「ま、今話題の人物の演奏会だからね。私が例の曲を依頼したし、さすがに見に来るさ」
マーヴェルはそう言うとリヒトの隣に並んで、橙色の目をニコロに向けた。
ちょうど演奏が始まる頃だ。
見ているとニコロの指が鍵盤に触れる。
ポーン、と澄んだ音が教会内に響き、ゆっくりと音楽へと変化していく。
「…………」
「後悔しているのかい? フィガロ・ヴァイツの曲を望んだ事を」
演奏を聴いているとマーヴェルがそう問いかけてきた。
先ほど彼女は自分がフィガロに依頼したと言っていたが、そうするように進言したのは実のところリヒトだ。
とある日の夜、リヒトはマーヴェルに引き摺られて、たまたま酒場に入った。そこでフィガロの演奏を聴いたのだ。
あの時感じた衝撃は今も忘れていない。
名前も知らないあのピアニストは演奏自体も素晴らしかった。だがそれよりも驚いたのは、その場に音楽の女神ルクスフェンの気配を感じた事だ。
彼女の演奏をルクスフェンが聴きに来ている。それがどんな意味を持つか神官であるリヒトは直ぐに分かった。
彼女の音楽はルクスフェンに気に入られているのだ。
音楽の女神が守護するこのアーネンコールにおいて、それはとても強い意味を持つものだ。少なくともリヒトのような神官にとっては。
フィガロの演奏を聴いた時、リヒトは久しく感じていなかった熱が胸に広がるのを感じた。
これを埋もれさせてはならない。
そう思ったリヒトは、彼にしては珍しくその感情のまま、マーヴェルに頼み込んだ。それが今回の依頼へとつながったわけだが――その結果起こったのがあの事件だ。
だからこそリヒトは、彼女の死に責任を感じていた。
「私が依頼をしなければ……と思う気持ちはあります。そうすれば彼女は命を落したりしなかったでしょう」
「そうだね。だが君は直感に従った。フィガロ・ヴァイツの演奏は女神に愛されていると信じた。そこに間違いはあったかい?」
「ありません」
リヒトは首を横に振った。このような結果になってしまったとしても、あの時の彼女の演奏は、その時感じた女神の気配は、今もリヒトの脳裏に強く焼き付いている。
フィガロ・ヴァイツの演奏は女神に愛されていた。それだけは間違いがないと、オルトノス教の神官として断言できる。
「なるほど。……では彼の演奏はどう感じる? 今弾いている曲は、あの日、あの時、我々が聞いた曲だ。だから今日、この曲を演奏をするようにと指定した」
マーヴェルは軽く手を持ち上げ、演奏を続けているニコロを指す。
彼女の言う通り、確かに今奏でられているのはあの日リヒトが耳にした曲だ。この曲を聴いたからこそリヒトは彼女をマーヴェルに推薦した。
確かに同じ曲だが、印象がだいぶ違う。
あの日リヒトが聞いたのは、混ざり気のない音楽への情熱を感じられる演奏だった。ただただひたすらに、己の音楽を信じ、奏でられた音楽だった。だからこそルクスフェンは彼女の曲を聞きに現れたのだろう。
「演奏の腕は素晴らしいものだと思います。ですが……私の胸は高鳴りません」
「ハハ。まるで恋でもしているようじゃないか」
「マーヴェル」
「冗談だよ、そう睨まないでくれたまえ。……だが、そうか。やはりか」
ええ、とリヒトは頷く。
「他者の音楽を奪う人間を、音楽の女神は愛さない」
そうしてそう続けた。リヒトの目が、より真剣さを帯びる。
そして、
「早急に捜査を進めなければなりません。このままだとアーネンコールは、音楽の女神から見放されてしまうかもしれない」
そう言ったのだった。