5 魔王様は頭が痛い
その日、シュテルンビルトの王城の執務室で、一人の男がせっせと書類仕事を行っていた。
外見年齢は二十代後半くらい、長い白髪に羊のような丸い角を生やしているのが特徴だ。体格はそこまで良い方ではないが身長は高い、また目つきが悪く、子供の前に立ったら泣かれそうな見た目をしている。
彼の名前はオボロと言って、この城の城主であり、シュテルンビルトを治める魔王様という奴である。
さて、そんな魔王オボロだが、見た目の通り彼は魔族だ。その中でも「魔人」と呼ばれる種である。
魔族の中でも、特に魔力の保有量に優れ魔法の扱いが上手いのが魔人の特徴だ。その反面運動能力は低く、魔法で身体能力を補わなければ、たった十分走っただけで息が上がるくらい体力が無い。
見た目は頭に生えた角と、両肘と両膝の辺りから指先にいくにつれてグラデーションがかかるように黒色に変化しているのが特徴だ。
魔人は魔族の中でもさほど数は多くないが長命種で、魔人によっては千年生きている者も存在する。その点オボロはまだ百年ちょっとなので、魔人からすれば若造である。
しかしその若造は、シュテルンビルトにいる魔人の中で最も魔力が多く魔法の扱いが上手かった。並大抵の魔族では太刀打ちできないくらいの強く、また力押し以外の方法もあるとちゃんと理解し頭を使う賢さも持っていたため、それらの能力を総合して彼は魔王の座に就いたのだった。
――というか押し付けられたのだと、今になってオボロは思った。
「ハァ~~~~終わらない、ほんっと終わらない……前任者さぁ! もうちょっとしっかり整理しといてくれないかなぁっ!?」
書類の山に埋もれながら、オボロは悲鳴のような叫び声を上げた。
執務机に積み上げられた書類には、過去から続くシュテルンビルトの問題点・改善点・その他今まで棚上げにしていた事などが纏めらている。それがとんでもない量で、今、机の上に積み上がっているのは「今日はこれだけは処理するぞ」というオボロの決意表示であって、他にもどっさり存在する。
最初にこれを見た時、オボロは気が遠くなった。それでも魔王になりたての頃は、自分のような若輩者が魔王なんてものを任されたのだから頑張るぞ、とやる気に満ち溢れていた。
しかしその頃の明るい気持ちはすべて書類の山の向こうに消えて行った。
無限に食べられるスナック菓子や野菜のような、けれどもまったく味のしない大量の書類。手に取るごとに、オボロが一般魔族として生きていた頃には知らなかった問題が、次から次へと現れて変な汗が出た。
書類に生殺与奪の権を握られている気がする。誰か助けて欲しい。
オボロが魔王を引き継いだ時に、前魔王が「ありがとう!」と晴れやかな笑顔を浮かべていた理由が今ならば分かる。あれは本当に開放感で胸がいっぱいだったのだ。
当時の事を思い出しながらオボロは深いため息を掃き、次の書類の束へと手を伸ばす。
――その時。
突然、シュテルンビルトの空気が僅かに震えた。
「…………何だ?」
恐らく魔法によるものだろう。不快ではない程度のピリピリとした空気の震えと奇妙な気配に、オボロは椅子から立ち上がった。そして気配を感じた方へ近づいて、窓を開けて外の様子を伺う。
しかし視覚的な異変は特に見当たらない。見慣れたシュテルンビルトの街並みと空が広がっているだけだ。
「うーん?」
オボロは軽く唸ってから、人差し指を立てた。そしてそれを軽く動かせば、指先からキラキラした光の粒が現れた。光は一か所に集まると一羽のカラスに姿を変える。オボロの使い魔だ。
「ちょっと見て来て」
「カァ!」
オボロの指示に使い魔は「分かった!」と言うようにひと鳴きし、シュテルンビルトの空へ元気に飛び立った。
その少し後に執務室のドアが控えめにノックされた。オボロが「どうぞ」と入室を促すと、眼鏡を掛けた知的な美女が部屋の中へと入って来た。
背中に白い鳥の羽を生やした獣人で、オボロの秘書のカグヤである。
「失礼します、オボロ様。今しがた神官より、モントシュテル様から神託があったとの報告が届きました」
「モントシュテル様から?」
オボロは目を丸くした。モントシュテルとはこの国で主神オルトノスと同じくらい信仰されている夜の神だ。シュテルンビルトの守護神でもある夜の神は、何かしらの用事がある時は神官を通じて『神託』が来る。
(とは言え、私が魔王になってからは初めてなんだよな……)
モントシュテルは守護神ではあるが、この国に積極的に干渉をしない神だった。
一応それなりのデリケートな理由は存在するが、一番大きいのは彼が忙しすぎるからである。
モントシュテルは主神の補佐役という立場であるため、任される仕事が膨大なのだ。なのでシュテルンビルトに干渉している時間がないのである。
とは言え、ちゃんと見守ってはくれていて、自分達の手には余るほどの事態が発生すれば手を貸してくれる。モントシュテルとはそういう神だった。
そんな神に対し、オボロは魔王になる前は「大変なんだなぁ」くらいにしか思わなかった。
しかし今は違う。魔王の座について仕事に忙殺されている今、オボロは勝手にかの神に仲間意識を抱いていた。
なので以前よりもしっかりと、モントシュテルに感謝の祈りを捧げている。
まぁ、それはともかくとしてだ。魔王に就任して以来、初めてモントシュテルから神託が届いたと聞いたオボロは、内心ちょっとテンションが上がっていた。逸る気持ちを抑えつつ、オボロは努めて冷静なフリをしながら、
「報告を」
と促す。カグヤは頷くと、軽く眼鏡を押し上げて、
「モントシュテル様のお言葉をそのままお伝えさせていただきます。――ルクスフェンが加護をちょっと多めに与えてしまった人間を転生させたので、しばらく様子を見てやって欲しい。そちらへ顔を見せるように伝えてあるからよろしくね、との事です」
と言った。
「…………はい?」
思わずオボロはそう言った。言葉の意味は分かるが、言葉の理由が分からない。カグヤの言った言葉を頭の中で繰り返しながらオボロは首を傾げた。
「ルクスフェン様って音楽の女神様だろう? その方が加護を与えた人間をシュテルンビルトに転生させた……って事?」
「言葉のままを受け取るとそうですね」
「何で?」
「さあ」
……これはちょっと整理して考えよう。そう思ったオボロは腕を組んだ。
神が加護を与えるという事はたまにある。その理由はシンプルに神が気に入ったから、だ。お気に入りの店を贔屓にするのと似たような感覚である。この子の事が気に入ったから加護を与えるね、というようなノリで神はわりと簡単に加護を与えるのだ。
つまり転生させたというその人間は、ルクスフェンのお気に入りという事になる。ルクスフェンは音楽の神なので、その人間も音楽に造詣が深い人物なのだろう。
そこまでは特別おかしな事ではない。
問題はその人間を何故かシュテルンビルトに転生させた上で、オボロ達に様子を見て欲しいとモントシュテルから神託があった事だ。
神がそこまで干渉したならば、転生した人間は前世であまり良い死に方をしなかったのだろう。そして音楽の女神が惜しいと思ったからこそ、新たな人生を与えられたのだ。
その辺りも珍しい事ではあるが、あるにはある。だがそこにモントシュテルが関わっているとなると話が変わって来る。
そこまで整理してオボロは「加護をちょっと多めに与えてしまった」という部分に注目した。
神から加護を与えられるという事は、神の魔力の一部が魂に注ぎ込まれるという事でもある。神の魔力は人間や魔族が持つ魔力とは比べ物にならないほどに濃度が高い。だからこそ多く与えられ過ぎれば魂や身体が耐えきれず、内側からパチンと弾け飛んでしまう。
運良く人の形を保てたとしても、場合によってはその加護が毒や呪いのように変化して、周囲に悪影響を及ぼす可能性だってあるのだ。
だからこそ神は加護を与える際はとても慎重になるはず――なのだが。どうにも今回の場合はそうではないらしい。
という事は、つまり。
そこまで考えてオボロの顔がサーッと青くなった。
(おいおいおい、下手をするとシュテルンビルトが滅ぶぞ、これ……!)
かつて加護を与えられ過ぎたがために、周囲に毒をまき散らした末に討伐された魔族の話がオボロの頭に浮かぶ。あんな事がシュテルンビルトで起こったら大事である。
しかもモントシュテルは、件の人物をここへ向かわせているとも言っているらしいではないか。
「まずいぞ、爆弾が歩いて来る……」
「歩行性能のある爆弾は、爆発させる時の罪悪感が半端ないからと、オボロ様が開発を止めさせたではありませんか」
「そういう話じゃなくて。……とりあえず防御系統の魔術に長けた奴を集めてくれ。あと医者!」
「承知しました」
カグヤは胸に手を当てて頭を下げると、そのまま執務室を出て行く。パタン、とドアが閉まったタイミングで、オボロは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「まっずい、まっずい……! モントシュテル様から神託をもらったって喜んでいる場合じゃないっ!」
被害が出ないならそれに越した事はないが、モントシュテルが神託で告げて来るくらいだ。放っておいて大丈夫なら、あんな信託は来ない。
とにかく何かあった場合の被害は最小限に抑えねば。オボロは覚悟を決めた顔になると立ち上がり、執務室の隣にある自分の部屋へと入って行った。