23 眠りの神の権限で
魔法で落下スピードを落としながら、オボロは軽やかにニコロ達に前に降り立つ。
ちょうどステンドグラスを背負うような位置だ。そこから射し込む朝の陽ざしが、まるで光の花弁のようにオボロとフィガロを照らす。
「その楽譜をこちらへ渡してもらおうか」
オボロの第一声はそれだった。静かで、それでいて威厳のある、まさに魔王と言った声だ。
――なかなか雰囲気が出ている。
フィガロは心臓をばくばくと鳴らしつつも、その一方で妙に冷静にそんな事を考えていた。
「誰だ?」
オボロの言葉に応えたのはマーヴェルだ。
事前に打ち合わせをした通り、初対面と言う体である。
他の二人も同様で、リヒトは怪訝そうな顔を、リチェは剣の柄に手を当てて今にも飛び掛かってきそうな態勢を取っている。
「おや、そちらは私の顔を知らなかったか。――シュテルンビルトの魔王、と言えば分かるかね?」
「――――! これは、これは。しかし、このような敵地へおいでになるとは、にわかには信じられないが」
「信用するもしないも自由さ。私はただ目的を果たしに来ただけだからな」
そう言いながらオボロは、わざと靴音を響かせて、ゆっくりと彼女達に近付く。
「目的? 楽譜と言ったが……」
「ああ、そうだ。君が今手に持っているその楽譜の事だよ、赤髪の人間君」
「魔王がこの楽譜に何の用があると言うんだい?」
「いや、何。俺の部下の――本来の持ち主の元へ返してもらおうと思ってな?」
オボロはそう言ってフィガロの方へ視線を向けた。
すると一番遠くの位置にいるニコロがピクリと反応する。
「本来の、持ち主……?」
そして小さく呟いた。その場の視線がすべてフィガロに集まる。
……胃が痛い。
少しマシになっていたのに、注目されたら直ぐこれである。
人前で演奏をする時は大丈夫なのにと思いながら、フィガロは引き攣った顔でへらりと笑ってみせた。
「何を言っているんですか。あれはニコロさんが必死で守った、ニコロさんの魂が込められた音楽でしょう?」
するとリチェが台本通りにそう言い放った。
ちなみにこの台詞を言うのはマーヴェルやリヒトでも良かったが、二人はどうやらフィガロが死んだ事件について、ニコロが犯人の可能性があると捜査してくれていたらしい。
そしてその事を特に隠していなかったため、この発言をするならばリチェの方が良いだろうとなったのだ。
マーヴェルは「リチェの演技は大丈夫だろうか……」と心配していたが、この分だと特に問題なさそうだ。なかなか感情のこもった良い演技をする。そんなリチェに触発されてオボロも興が乗ったようで、にんまりと笑った。
「はっはっは。魂ねぇ……?」
「何がおかしいんですか?」
「いや、何。自分を救ってくれた恩人を私利私欲で殺して。その恩人が人生を賭けて作った曲を自分のものにする奴の魂が、一体どこに込められているのかと思ってな」
本当に、とんでもなく悪い顔をしている。アーネンコールの人間が思い浮かべる魔王像とでも言ったら良いだろうか。
疲れ切った顔か、気さくそうな穏やかな顔のオボロしかフィガロは見ていなかったので、なかなか新鮮だった。
これはたぶん、今の状況を楽しんでいるのだろう。
「ニコロと言うのは、その後ろの人間だろう? 見たよ、この間。なかなかの演奏の腕だった。だが私の部下は解釈違いだと怒っていてね」
「部下って……その妖精さんの事ですか?」
「あ、はい。どうも、ええと。……フィガロと言います」
「――――」
まずは軽くジャブから。
フィガロが名乗ると、ニコロが分かりやすいくらいに動揺を見せた。
その様子をマーヴェルがちらりと横目で見ながら、
「……確かに、その名前は聞き覚えがあるが。彼の師匠の名だ。その名前ならば、関係しているのは分かる」
と言った。その後で、首をゆっくり横に振る。
「だが、在り得ない。フィガロと言う人間は、先日、亡くなったばかりだ。そして彼女は妖精ではなかったよ」
「ああ、それはそうだ。一度死んで、転生したのさ。音楽の神ルクスフェン様のお力でな」
「……信用できない」
「ならば信用させるだけだ。フィガロ、せっかくだ。皆様に演奏してやったらどうだ?」
そう言いながらオボロは、フィガロを乗せた手を僅かに持ち上げる。
フィガロは頷いて立ち上がると、背中の翅を動かして宙に浮かんだ。
すう、と息を吸う。そして手を前に軽く持ち上げると、音楽の魔法を使った。目の前に光の鍵盤が現れる。
フィガロはそこに指を置くと、一度だけ目を閉じてから、マーヴェルに渡された楽譜の曲を演奏し始めた。
「――――」
優しく、温かく、清廉なメロディーが礼拝堂に響く。
するとキラキラとした光の音符も浮かび始めた。
光の音符は礼拝堂を舞い、そしてマーヴェル達の身体に吸い込まれて行く。
その音色に、光景に。リヒトとニコロが目を見張ったのが分かった。
「セン、セイ……」
吐いた息と共に、ニコロが妙に艶のある声で「ああ……」と呟く。
不思議とその声からは、焦りも、恐怖も、怒りも感じられなかった。
それどころかニコロは、夢でも見ているような面持ちで、ふらふらとフィガロに向かって近づいて来る。
「ああ、ああ……すごい、センセイの演奏だ。センセイの……」
「ニコロ・ヴァイツ?」
先ほどとは違う、どこか異様な雰囲気を纏ったニコロに気付いたマーヴェルが、怪訝そうな顔で彼を呼び止める。
しかしニコロの耳には、それが届いていない様子だった。
ただ真っ直ぐに、他の者など見えていないように、ニコロはフィガロに近付いて来る。
それを見てオボロがやや警戒したように目を細くした。
「やっぱり、俺は間違っていなかった……。ああ、ああ、何て事……最悪の気分だったのに、こんなに、こんなに素晴らしい事があるなんて……」
熱に浮かされたように、ぶつぶつと呟き続けるニコロ。
思わずフィガロは演奏を止めた。ニコロが見た事のない表情をしているからだ。
(と言うか……)
聞こえて来たニコロの声が、彼のそれとは何か違う気がするとフィガロは思った。
どう違うのかとはっきりは言えないが、普段の彼の声とは半音ずれているような、そんな気がしたのだ。
フィガロが困惑している間に、ニコロはもう数歩で自分のところへ辿り着く距離になっていた。
これはオボロの方へ移動した方が良さそうだとフィガロが思ったその時、
「――ああ、やっぱり。リュセイノスが白状した通りだ。魂が酷く浸食されている」
トバリの声が聞こえたかと思うと、ニコロの身体に黒色の光の糸が巻き付いた。
ニコロがぎょっと目を剥いて自分の身体を見下ろす。
その直後、ニコロの前に、ふわっと、トバリが降り立った。
「誰だ……!」
「ああ、もう。レテ様もリュセイノスも、大雑把な仕事をしたものだね。モントシュテル様が頭を抱えるわけだよ」
ニコロの質問には答えず、トバリはハァ、とため息を吐いて彼の顔の前に手を広げる。
そこから糸と同色の光が放たれ始めた。
「君は前世で、リュセイノスから加護を与えられ過ぎた人間の死に巻き込まれた。そのせいで魂が酷く浸食されている。リュセイノスの精神に引き摺られているね、可哀想に」
「何を」
「このままだと精神が崩壊してしまうだろう。もっと悪くなると、加護の残滓が悪さをしてまた暴走が起きる。だから眠りの神の権限で、君の魂が執着している記憶をすべて、眠らせる事にするよ」
淡々と言うトバリの言葉に、ニコロは一瞬怪訝そうな顔をした。
それからややあって、彼の言葉の意味に気が付いて、ハッと目を見開く。
「……やめろ」
「ごめんね」
「やめろ、やめろ! それは俺のものだ! 俺の記憶だ! 俺だけの……!」
ニコロの表情がくしゃりと歪む。
唾が飛ぶほどに、ニコロは口汚くトバリを罵った。
「何が神だ。何が神だ! お前達のせいで、センセイはずっと不幸だったんだ!」
「……そうだね」
「何もしなかったくせに! ずっと放っておいたくせに! 今になって何なんだよ! お前達が勝手だから! 俺がセンセイを救ってあげたんだ!」
その叫びを聞いて、フィガロ「ああ」と理解した。ストンと納得が出来た。
自分勝手な理由ではあったけれど、ニコロはフィガロを嫌ってなどいなくて。自分に出来る最善の方法でフィガロを助けようとしてくれたのだ。
歪んでいるし、正直、死が救済というのはフィガロには分からない考え方だ。
ただあの時ニコロに刺されたから、ルクスフェンが転生させてくれて妖精となって、今は結構充実していて楽しい。
結果だけ見れば、それはきっとある意味で『救われた』と言えるのだろう。
――けれど、それでもフィガロは死にたくなかった。
何よりも自分の大事な弟子にだけは殺されたくなかった。
だってニコロは、全部を失ったフィガロにとって、もう一度出来た家族だったからだ。
だからだろうか。本人を前にしても、どれだけ一方的な理由だったとしても、フィガロはどうしてもニコロを恨む気にはなれない。
さすがに甘いとか、そう言うのを通り越しているのだろうと自分でも思う。
それでも目の前で、必死でもがきながらニコロが浮かべている泣きそうな顔が――最初に出会った頃のニコロの顔そのものだったから、それを見て見ぬふりをフィガロは出来なかった。
「ニコロ」
フィガロはニコロの近くまで飛んだ。
「センセイ……!」
助けて、と彼は言わなかった。けれどもニコロの目はそう訴えている。
しかしフィガロはこの事でニコロを助ける事は出来ない。
何故なら自分も似た理由で、トバリがそばについていてくれるからだ。
その神が放置したら危険だと判断した。そうであればフィガロはそれを止める事は出来ない。
……止めない方が良いだろうとも思う。
「あの曲は、だいぶ解釈が違ったよ」
「あ、え……」
「だけどね、それはそれとして、とても良い演奏だった。ピアノ、本当に上手くなったね」
「…………」
フィガロが微笑むと、ニコロは一瞬、ポカンとした顔になった。
それから先ほどとは違う意味でくしゃりと泣きそうな顔になる。
彼の目の前でフィガロは再び光の鍵盤を出現させる。
そして、ぽろん、と引き始めた。
両親から受け継いだ子守歌だ。
演奏と共に光の音符が生まれ、ニコロに吸い込まれて行く。
するとだんだんニコロの瞼が下りて行く。
「いや、だ、センセ……フィガロ、センセイ……」
トバリの黒い光がニコロの身体を覆う。
神の魔法と、フィガロの魔法。まるで合奏のように二つが合わさる。
やがてニコロの目は完全閉じ、身体がから力が抜けて地面に倒れ込んだ。
フィガロは近くまで下りて行くと、
「おやすみなさい、ニコロ。……良い夢を」
そう言って、その頭をそっと撫でた。




