2 音楽の女神の加護
フィガロ・ヴァイツはとにかく運が悪かった。
子供の頃に家族を流行り病で失くし、家族が残してくれた家や財産は親戚に騙し取られ。
独りになって何とか働き口を見つけるも、そこの同僚がしでかした横領の罪を何故か被せられて逮捕され。冤罪だと認められて釈放されても、フィガロをよく知らない他人からは、一度逮捕された人間という印象をずっと持たれ、向けられる目は冷たいものだった。
これがフィガロの二十五年という短い人生で起きるものだから、本当にさんざんだったなぁと思う。
もしも自分にピアノがなかったら、音楽がなかったら、フィガロはきっと弟子に刺されるより早く、自分の人生に幕を下ろしていただろう。
◇ ◇ ◇
感じていた激痛がフッと消えたと思ったら、フィガロはいつの間にか違う場所にいた。
星の無い夜空よりも深い暗闇の中だ。フィガロはその中に、まるで死んだ魚のようにぷかぷかと浮かんでいた。
(まるで、というか……)
実際に死んだのだろうなとフィガロは思う。弟子のニコロに二度刺されて。
(恨まれていたんですかねぇ……)
暗闇の中を漂いながら、フィガロはぼんやりとそんな事を考えた。
恨まれるような事をした自覚はない。
ないが――だからこそ、こうなったのかもしれないなぁとも思った。
ニコロは、ある雨の日に、フィガロが拾った孤児だった。
仕事帰りに買い物を済ませてフィガロが歩いていると、大通りの路地で、ボロボロの姿で膝を抱えて座り込んでいるニコロを見つけたのだ。
それは本当にただの偶然だった。路地の方へトコトコ歩いて行く猫を何となく目で追っていたら、そこに子供が蹲っていたのである。
フィガロは慌てて駆け寄った。そうして顔を覗き込むと、彼は顔の半分に酷い火傷を負っている。
驚いているとニコロのお腹がぐうと鳴ったので、フィガロはもらったばかりの給料で買ったパンとソーセージ、それからミルクを差し出してニコロに話しかけた。
「……火事が」
がつがつとパンを食べながら、ニコロは事情を話してくれた。
どうやら世話になっていた孤児院が火事で焼け落ち、ニコロだけは何とか生き延びたものの行く当てもなく、空腹で動けなくなってしまったそうなのだ。
疲れ切ったようにぼんやりと自分の事を話すニコロの姿が、過去の自分と重なって見えた。
フィガロはニコロを放っておけなくなり、そのまま家へと連れて行って面倒を見るようになったのだ。
そうして一緒に暮らし始めると、ニコロは自然とピアノに興味を持った。暇な時間フィガロはいつもピアノを弾いていた影響もあるかもしれない。
試しにとニコロにピアノを教えてみると、その上達の早い事早い事。彼はフィガロの教え方が良いからだと謙遜していたが、それだけではない。ニコロには才能があるのだとフィガロは確信した。
……まぁ長年音楽家をやっていても、なかなか日の目を見ないフィガロが言ったところで信憑性は薄いのだが。
しかし、それでもフィガロは耳は良い。そして音楽だけは自信があった。だってフィガロにはもう音楽しかなかったから。
これは将来楽しみだとフィガロがどんどん教えている内に、ニコロから「センセイ」と呼ばれるようになった。
家族のいないフィガロにとって、七つ年下のニコロは弟子で、弟のような存在だった。
そんなある日、フィガロに転機が訪れた。
フィガロが雇ってもらった酒場でピアノを弾いていたところ、その演奏を国の要人がたまたま聞いていた。そしてその要人と一緒に飲んでいた友人が「これだ!」と急に叫んだのである。
何でも要人達は音楽家を探していたらしい。理由はこの国の行事で必要だからだ。
この国は隣にある魔族の国からずっと脅かされていて、そこのトップである魔王を倒すため、定期的に「勇者」という役割を担った者達がかの国へ旅立っている。そして勇者達の出立の際には必ず新しい音楽を演奏するという決まりがあった。
その曲を作って欲しいとフィガロは頼まれたのである。
どうして自分が選ばれたのか、その理由はよく分からない。けれどフィガロにとって、人生で初めて掴んだチャンスだった。
だからこそフィガロは睡眠も食事も忘れて曲作りに没頭した。
そうしてようやく曲が完成した時、
――フィガロはニコロに刺されて死んだ。
「はは……あっけな……」
フィガロの目かぽろりと涙が零れた。
ニコロにずっと恨まれていたのだろうかとか、もう少しで自分の曲をたくさんの人に聞いてもらえたのにとか、後悔も心残りもたくさんある。
そしてそれ以上に、あまりにあっけなく全てが終わってしまったために、喪失感が大きかった。
(ピアノを弾きたい。音楽を作りたい。もっと、もっと、もっと――!)
フィガロの喉から嗚咽が漏れる。目からは涙がとめどなくあふれ出す。
どうせこんな静かな暗闇なんだ。誰も見てやしないだろうから、いっそ大声で泣き喚いてやろう。そう思いフィガロが口を大きく開けた時、
「あら、あらあらあら、悲しいわ。悲しいわ。何て事でしょう……!」
突然そこへ、第三者の声が響いた。
その声はとても綺麗な声だった。ハープの音色のように柔らかく優しい響きを持ったそれが、フィガロの近くから聞こえる。
「え、何……?」
きょろきょろと顔だけ動かして周囲を見たが、暗闇が広がっているだけで誰もいない。幽霊でもいるのだろうかと考えた時、フィガロの目の前に光の塊がふわりと現れた。
その光はゆっくりと人の姿へと変化していき、やがて女性の姿になる。長い髪に星のようなきらめきを宿した美しい人だ。
「こんにちは、フィガロ。こうして会えて嬉しいわ。嬉しいわ。でも……少し早い出会いで悲しいわ」
女性は両手を身体の前で組んでそう微笑んだ。
そんな彼女の姿を見て、フィガロは「あれ?」と思った。面識はないのだが、どこか既視感を覚えたからだ。いっそ親しみすら感じる。
フィガロは疑問を抱きながら、目の前の美しい人におずおずと声を掛けた。
「あの、すみません。あなたは一体、どちら様でしょうか……?」
「私はルクスフェン。音楽の神よ」
すると彼女はそう名乗った。
その言葉にフィガロはぎょっと目を剥いた。同時に既視感の正体に気が付いた。
そう、そうだ。目の前のこの女性の姿をフィガロは見た事がある。
音楽関係の本に描かれていた、音楽の女神の姿とそっくりなのだ。そしてルクスフェンと言えば、フィガロが生まれ育った国の守護神でもある。
動揺するフィガロを見ながら、目の前の美しい人は相変わらずにこにこ微笑んでいる。
「めがみ、さま」
「ええ、うふふ。名前で呼んで?」
「なまえ……」
「うふふ、うふふ。びっくりさせ過ぎちゃったかしら。目が丸くなっていて可愛いわ、可愛いわ」
ルクスフェンは白い手でフィガロの頭を、まるで愛玩動物にするように、よしよしと撫でてくれた。たぶん神様という存在からすれば、人間なんてものはそんな印象だろう。
フィガロは大人しく撫でられながら、恐る恐る彼女の名前を呼んでみる事にした。
「ル、ルクスフェン様……」
「はぁい」
「ええと、あの……私の事をご存じで……?」
「ええ、知っているわ。あなたの音楽が大好きだから、時々、見ていたのよ」
ルクスフェンの言葉にフィガロは衝撃を受けた。
音楽の女神が自分の音楽を大好きだと言った。一人の音楽家として、こんなに嬉しい事はあるだろうか。
驚きで止まっていた涙が再び競り上がって来る。ぽろり、と目の端から零れたそれを、ルクスフェンはその指先で拭ってくれた。
「特に最後の曲は素晴らしかったわ。あなたの演奏で、あの曲を最後まで聴きたかった」
「…………私も」
声が掠れた。
「私も、もっと弾きたかった。曲を作りたかった。まだ……まだ、音楽家として私は、何も成していない……っ!」
嗚咽が零れる。涙が次から次へと溢れて来る。
ルクスフェンはそんなフィガロに慈愛の眼差しを向け、優しく頭を撫でながら、静かに話を聞いてくれた。
それは長い時間だったと思う。身の上話から最近の苦労話まで、初対面の女神相手に話す内容じゃないどうでも良い事まで話してしまった。
だってあまりに女神が優しかったから。情けない顔で、声で、態度で、フィガロは全部をぶちまけた。
「……ふう」
全部を吐き出してだいぶすっきりして、フィガロは息を吐いた。どうやら後悔以外にも、自分では気づかない内に色々と溜まっていたようだ。
「ありがとうございます、ルクスフェン様。おかげで……心残りはありますけど、ちゃんと死ねそうです」
「良かったわ。……でもそんな、もったいない事を言わないで」
「もったいない?」
「ええ」
ルクスフェンは大きく頷くと、フィガロの身体をひょいと横抱きにした。
あ、意外と力持ち。ルクスフェンが華奢な見た目をしていたので、フィガロは意外だった――が、まぁ、死んだんだから身体の重さとかはないかと思い直す。
「あなたの音楽が聴けなくなるのは悲しいわ。だからね、あなたに新しい人生をあげようと思うの」
「は、え?」
フィガロの口から間抜けな声が出る。
今、何かとんでもない事を言われなかっただろうかと、フィガロは困惑しながらルクスフェンを見上げた。
「記憶はそのまま、ピアノの腕もそのまま。……あ、でも、そうね。また命を落したりしたら大変だから、身体をすこーし丈夫にしましょうね」
「いや、え、あの、ルクスフェン様?」
「どこが安全かしら。どこが良いかしら。元の国はダメね、また刺されたら可哀想だもの。どうしましょう、どこがいいかしら」
戸惑うフィガロだったが、ルクスフェンはまったく気にしていない。というか呼び掛けても聞いていない。
良い事を思い付いたと言わんばかりに「ああしましょう」「こうしましょう」と、どんどんアイデアを増やして行く。
(これはもしかしてまずいのでは……?)
新しい人生には興味があるが、このままだと自分はとんでもない化け物として生まれそうだ。
しかし与えられる側の自分がそれに口を出して良いものだろうか?
フィガロがだらだらと冷や汗を流しながら、どうしたものかと考えていると、
「おーい、おーい、ルクスフェンー! ちょっとストップストップー!」
また別の声が聞こえた。今度は男性の声だ。
少ししてルクスフェンの近くに金髪の男が姿を現した。
ゆったりとした黒衣を身に着けたその男を見て、ルクスフェンは「あら」と楽しそうに声を上げる。
「まぁ、モントシュテル。百年ぶりね、久しぶりだわ。元気だった?」
ころころと笑うルクスフェン。
彼女が言った名前を聞いてフィガロは再び目を剥いた。聞き覚えがあったからだ。
モントシュテルとは、この世界の主神の補佐を務める、かなり格の高い夜の神の名前だ。
「元気ですよ。って言うかね、久しぶりと感じる理由の大半は、ルクスフェンがあっちこっち歩いているせいですからね? また会議をほっぽりだしたって、主神がだいぶ怒っていましたよ」
「あらあら。そうだったかしら、うふふ。怒りんぼさんねぇ」
「ルクスフェン……」
モントシュテルは頭を抱えて、ハァ、とため息を吐いた。それから彼はフィガロの方へ目を向ける。
「それで、この人間を転生させるって? ちゃんと許可は取っているんです?」
「うん。レテちゃんにお願いに行ったら、眠いから邪魔しないで、勝手にしていいよって言ってくれたわ」
「あいつ……」
半眼になるモントシュテル。彼はそのまま再度ため息を吐く。
「……まぁ、許可しちゃったんなら良いか。だけど加護を与えすぎないようにしてくださいよ」
「え~? だって強くしないと、また死んじゃうわ」
「人間の魂って脆いんだから、加護を与えすぎると風船みたいに弾け飛びますよ」
「弾ける!?」
物騒な言葉に、ついついフィガロは声を出してしまった。
するとモントシュテルは苦笑して「大丈夫大丈夫、止めてやるから」と言ってくれた。
この神様優しい。フィガロはジーンと胸が熱くなった。
「そう言えば、前にそれをやってリュッ君がすっごく怒られたって聞いたわ」
「でしょ。だからほどほどに。……まぁ、そうだなぁ。ある程度しぶとくて、そんで誰かの庇護下に入れそうな感じならいいんじゃないですかね? 俺の担当地区にちょうどいいのがいるでしょ」
「あら、いいわね。モントシュテルのところなら安心だわ。あなたもそれで良い?」
「え? あ、はい……?」
神々の会話に呆気にとられたせいで、フィガロはついつい頷いてしまった。
ルクスフェンは「決まりね!」と嬉しそうに言うと、自分の額をフィガロの額にぴたりとくっつけた。
するとフィガロの身体がふわりと光り始める。だんだんと『フィガロ』の身体が光の粒子へと変わっていく。
「一度、おやすみなさい、フィガロ。次に目覚めた時にあなたは、新しいあなたになっているわ」
ルクスフェンはそう言って微笑む。ああ、きっとこれが皆が想像する女神の微笑だとフィガロは無意識に思った。
そんな彼女の顔を見ていたら、だんだんと瞼が重くなってくる。
(あたたかい……)
陽だまりのような優しい光に包まれて、フィガロは目を閉じた。
「あっ」
――意識が途切れる間際に、何か嫌な声を聞いた気がしたが。




