第8話 玉梓 1446年
玉梓
もと都落ちした遊女、のち神余長狭介の賢妻(改変)。原作では妲己をモデルとした悪女。
女が見初めたのは酔い覚ましに庭を眺める後姿であった。
土豪、と称すべき階層であろう。おろしたての素襖は清潔そのものにしてあくまでも野暮。それでも関東随一の実力者である雲洞庵こと上杉長棟(憲実)に謁見を許されはしたらしい。
「梧桐、か。庭に」
己が声の響きその皮肉に驚き、首を振っていた。「いや、さもありなん。さあるべきか」
接遇を生業とする女としては――さほどの仕事でもなしと心中に呟いて――誘いの声をかけぬわけにもいかなかった。
「北からおいでなさいましたか」
振り返った男の目にはまだ幼さが残っているようにも見えた。女とは似たような、男ならば若いと評されるであろう、そうした年頃。
「安房にござる。伊豆に同じく暖かき国ながら、梧桐は見かけませぬゆえ」
自分のような女にはふさわしからぬ丁重な言葉遣い。「共通語」以外の応酬を知らぬ、やはり田舎者であった。
その男だが梧桐に目を止めていた。秋を、憂いを教えるものとして詩に現れる名木だ。
庭に植えるあたり中華趣味と切って捨てるのは容易いが、文化に関心の深い上杉憲実らしくはある。目の前の男にせよ同じ趣向を持つものでもあろうかと。
「お国とはまた異なった趣と?」
「房州では、まずは槇にござろうか」
「人に先んじて憂うるはこれ良材。所を変え人を違うるとも、その趣には変わるところもなく」
刮目には怯えたふうで顔を背ける。梧桐に槙を持ち出す男だ。ならば志操堅固を、安い女ではないふうを演じておくのが無難でもあろうと。
それでも駄目は押しておいた、薄味は酔客に通じぬがゆえ。
「みやこでは松柏失われて久しと、おおかたの噂。坂東の奥ゆかし……」
言い終える前から手を捕らわれ一室に引き込まれた。こうした宴は早い者勝ちと知らぬでもないらしい。つまりは慣れているのであろう、接待に。それなりには有徳でもあるものか。
いずれにせよおかしな男ではあった。なすべきことも匆々に、話ばかりをしらじら明けまで求め続け。
明くる日届く余禄には女も期待していた、そのために仕事をしている。
「また来るだとよ」などと告げながら遣り手が見せる笑顔のだらしなきこと、それも近ごろは穏やかな心持ちで応えられるようになったけれど。我もまたやがて行く道と思わばこそ。
見立てはしかし、誤りであったらしい。
「家宰の長尾どのにそこもとを願い奉った。房州に来てくれるか」
若いなりに慣れている。そう感じたものだが、目が曇ったか。さすがに老いたなどとは認める気にもなれないが。
「愚かな。恩賞ならば土地を求めなさることだ。その心算も立たぬ男になど従えませぬ」
上機嫌だった遣り手が女を睨む。大慌てに執り成しを始めだす。そちらに袖の下を握らせたところで動くはずもなかろうが。
ま、それでも。話ぐらいは聞いておかねば逆恨みが怖い。
「分かってくれるか。そも、この伊豆には遅れ馳せながら上杉清方公のお悔やみに参ったものだが、その前に鎌倉で……」
女の前に現れた男は、代替わりした神余家と義弟の所領安堵を願いに来たものであった。しかしその申請先である関東管領職が不在である旨、役人に告げられた。
後任候補としては三人の名が挙がっている。
まずは実力者、雲洞庵。前管領上杉清方の実兄にして元職の上杉長棟(憲実)である。そして就任を固辞するその憲実が推す、従兄弟の上杉(佐竹)実定。くわえて家宰の長尾景仲が、憲実の嫡男にあたる上杉憲忠を擁立した。父の憲実は認めていないが、山内上杉家の大方はこの憲忠を支持しているのだとか。
いずれ事情を聞くまでもなく、女は断言を下していた。
「ええ、次はご世子でしょう」
鎌倉から再び伊豆に取って返した男は、長尾景仲から報酬を得たと告げた。つまり三者のうち上杉憲忠に「張った」わけだが、その判断は悪くない。
「なぜ鎌倉殿が管領がたに敗れたか。伊豆に参り、いまの雲洞庵さまを見て腑に落ちた」
ひと目で見抜いたとでも言うつもりか。馬鹿なのか悧巧なのか、どれほど数を見てきても男とはやはり分からぬものらしい……が、いまは交わす言葉が心地よかった。
「職責から逃げ、仕事を投げ、力を与えたがゆえと仰せになりますか」
「やはりそこもとしかいない」
再び腕を捕らわれた。あの晩よりもよほど強い力で。
「鎌倉殿と関東管領、雲洞庵さまと家宰長尾どの。まさしく同じではないか。やがて下から突き上げられる。雲洞庵さまが何を言おうと詮が無い」
つまらぬ話をなさることと気を持たせておく。
我を連れ去る話のはずと言いおおせずに息を飲む。
「それゆえご世子また長尾どのに忠義を誓う代わりの恩賞に求めたのが玉梓、そこもとだ」
捨てるものか。そなただけだ。若かった玉梓に男たちは揃って嘘を口にした。
だが神余長狭介のこの言葉に嘘はない。いや噓にできない、裏切れない。主君の恩賜を捨てるわけにはいかぬのだから。
女を、我を得るためにそこまでするか。若気の至りと嘲られ、好色と蔑まれてまで。
「頼む、房州に来い。清水の舞台から飛び降りる心地で」
男は先に飛び降りてみせた。かりにも一郡を領する豪族が、我のごとき女を。
「そこもとにはその価値がある。よそ人は知らず、我の目にはそう映る。天与の好適としか思われぬ。共に神余の家を栄えさせるのは我とそこもと、二人を措いてほかに無い。我とともに歩んでくれ」
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