第29話 失意 1455年下半期 下総古河
古河に奔った里見義実は失意の日々を過ごしていた。
鎌倉奪還の主張が周囲に受け入れられなかったのだ。
「上杉と今川と、両面を相手取る余裕はない」
「銭金物、流れとはよく言うたもの。利根に面し内海までを睨むここ古河こそが肝要の地。鎌倉は辺陬よ」
武士にふさわしく実利を重んずる衆議と異なり、義実の主張はいわばスジ論であった。
「鎌倉にあってこその鎌倉殿ではないか」
鎌倉殿は鎌倉にいるから鎌倉殿なのだ。
古河に住まう限り古河公方と称されざるを得ない。
鎌倉殿の名が持つ重みを、権威を失う損は大きい……と言いたいのだが、当時の日本語で抽象論を組み上げるのは至難の業、何より義実自身が能弁を持たなかった。即座に反論を呼び込んでしまう。
「里見どのは安房に地所をお持ちゆえ」
嫌味に過ぎぬが、事実でもある。
義実としては、古河よりも鎌倉に成氏がいてくれるほうが良い。出仕が楽だし政権に対する影響力も揮いやすい。
「鎌倉あってこそなどと、どの口が申すものか」
嫌味と言えばもうひとつ、戦に負けた武士の発言権は小さい。
何を言っても「鎌倉を守れなかった分際で」「公方さまの信に背いた侍が」である。
言い訳せぬなりに、義実が勝てぬにも理由はある。
いつの世にあっても戦力とはつまり財力なのだ。
永享の乱に結城合戦と負けが込んでも、じつのところ奉公衆の多くは下総古河の近辺に所領を保ち得た人々であった。代々の財を受け継いでいる。
翻って、常陸の旧領を失った里見家はそこが厳しかった。兵から装備から、全てを一から揃えぬことにはどうしようもない。
加うるに、義実が抱えた手持ちその半ばは船手――あるいは、水戦に多少なり重心を置かざるを得ない人々――であった。
そして船手と言えば褌いっちょにダンビラ提げて板子一枚地獄は下よ、すなわち軽装水兵である。
いっぽう15世紀の半ばにあって関東平野で行われる陸戦の主力とは――激戦の続く中で変化の兆しも見えつつあるが――鹿毛の駿馬に大弓提げてイガ星兜に大鎧とは言わぬまでも、つまりは重装弓騎兵である。要するに金がかかる。
戦が重なり兵が失われるにつれ、その補充にやり繰りにと義実の苦悩は深まるばかり。
失意に沈むその脇をさざめ笑いが過ぎてゆく。
古河に来てから義実の見知らぬ顔が増えた。
若き足利成氏の元には、これまた若く優秀な武者たちが出仕していた。
彼らの間にあっては四十の義実、どうしてもくすんで見える。
近習連中は利け者だけに、古参を嘲り喧嘩を売られるがごとき隙など見せるはずもなかったが、冷たい視線はどうしようもない。
そんな義実とは打って変わって、あるじ足利成氏は絶好調であった。
若き力の勢いを駆って常陸小栗を落とすや、実弟足利定尊を下野足利に駐留させる。
そのままみずから馬を出し上野に進出。
越後の援軍を受けた上杉方も黙ってはいない。
上野は淵名荘(伊勢崎市)にて成氏方を撃ち破り、東へ反転攻勢に出た。
下野の天命・只木山(足利市)に籠城する長尾景仲と力を併せ、足利へと攻めかかる。
――――その隙を逃す足利成氏ではない。
9月、上杉方が足利に引き付けられたと見るや、成氏はその南を縫うようにして長駆征西。
淵名荘を突破するや南のかた利根を渡り庁鼻和城を襲撃。
城外の野戦で長尾景仲・上杉房顕を打ち破る。
――――その間、里見義実の動きは――何とも鈍いものに見えた。
怪我の療養と称して義実、戦にも出ずと古河の館に引き籠る。
手勢を失い怪我も負い、いいかげん四十も越えて「過去の人」となった……はずの里見義実、その眼をぎらぎら光らせていた。
「違う」のである。彼に言わせれば。
下野の戦線は鎌倉攻略において関わりが薄い。
いや、古河に留まるにせよ、山内上杉を攻めるにせよ、枝葉であると踏んでいた。
鎌倉を落とすには武蔵の資力が要る。武蔵に出るほかない。
衆議のごとく古河を御所と定め成氏の宸襟を安んずるならば――そう胸中につぶやいて、義実は不意に可笑しくなった。
思えばいつもこれであった。
鎌倉殿を、万寿王さまをお守りすると。
けっきょく我にはそれ以外のことができぬらしい。
成氏を守りたいならば、その安全を確保するには――義実とて武士である、それぐらいは分かる。川向うに緩衝地帯を得るに限る。
騎西だ。
古河の喉元に擬された匕首。
奪えば利根川と荒川(元荒川)に囲まれた広大な土地を、武蔵の北東部を掌にできる。西に庁鼻和を睨む一石となる。
必ず攻防が起こる、その前提のもと義実は沈思を重ねた。
騎西城。利根川と元荒川、その支流に囲まれた……沼の城、水の城。
庭に出た義実、池水に映ずる顔を眺めて苦笑した。
金椀坊主の歪んだ笑顔によく似ている。




