第27話 鎌倉失陥 1455年6月
足利成氏の居所であった鎌倉は難攻の地と言われる。
だが鎌倉は難攻であっても、新田義貞が例のごとく、不落ではない。
「いざ鎌倉」の標語で知られる武士団の支持あってこそ成り立つ政治都市なのだ。
武士どもが裏返れば広大な関東平野から湧き上がる大兵の圧をまともに受ける形となる、それもまた鎌倉の地勢である。
ゆえにこそ成氏は北伐の挙に出た。
鎌倉府を政治的安定に導くべく、立命の地を保つべく。
上武の勢がもたらす圧を己が力に変えるため。
分倍河原また島河原の大勝によりその戦略的意図は達成された。
武蔵をもがれ相模半国の勢力となった扇谷上杉家が相手ならば、地勢ひとつで鎌倉は保ちうる。
そこに成氏がたの誤算があった。
一国相当の兵、その出処は何も坂東に限られない。
「鎌倉公方の横暴、目に余る」
「ご先代の高見を活かす時ぞ」
享徳の乱勃発の一報を――同時代的に言うならば、関東管領上杉憲忠暗殺の報せを――受けた翌二月、室町幕府では足利成氏を追討する方針に決まったのである。
三月には在京の上杉房顕(憲実の次男にして憲忠の弟)を新たな関東管領に任じ、天子御旗を持たせ関東に送り込む。
やはり室町の鎌倉に対する不信感が大きかった。
なにしろ鎌倉公方と来た日には、累代室町幕府に反旗を翻してくる。隙あらば足利宗家の跡を継ぎ征夷大将軍に成り代わろうと策を巡らす。煩わしいことこの上無い。
それもこれも、血筋が離れすぎているからではないのか。
足利基氏の流れに跡を継がせるのではなく、室町の将軍に親しい宗族を送り込み鎌倉公方に立てるべきではないのか。
永享の乱の時点でその計画を立てていた先代将軍足利義教は非業に斃れてしまったが、彼が築いた建付けは残っている。利用せぬ手はない。
「先手として駿河の今川、越後の上杉、信濃の小笠原を遣わすべし」
室町幕府の即断が功を奏して――上の意志が固ければ下も気を回さずに済む、千載不易の道理である――坂東包囲の警戒網また即応部隊に位置づけられた彼ら守護の動きも活発であった。
山内上杉の分身とも従兄弟とも言うべき越後上杉家が真っ先に動き、房顕を迎え入れる。
続いて四月に駿府を発った今川範忠により、鎌倉はあっさりと陥落した。
時折触れているところでもあるが、政略―戦略ー戦術の切り口により享徳の乱三十年を事後孔明する限り、足利成氏は優れた戦術・戦略に比べ政略で一歩を譲っていたように思われてならない。あるいは長尾景仲、のちには越後上杉房定が老巧であったと言うべきか。
分倍河原の深傷を押して防備に当たった甲斐も無く、里見義実もまた印東・木戸ら留守居の同僚と共に、河越(埼玉県川越市)へと退去せざるを得なかった。




