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第20話 「足利成氏率いる五百」 1455年1月21日、22日 分倍河原

この一話は2025年4月11日に発表したものです

 ――1455年1月21日、足利成氏率いる五百騎と上杉二千騎一万が対峙した。

 分倍河原の戦いは他に表現が難しい。


 成氏(がた)は上武への進出を謳い北上、多摩川もほど近き高安寺に籠ったと伝わる。

 鎌倉公方の陣屋として要害化された寺ゆえ、上杉勢もそこは予測の範囲内。理の赴くところとしてまずはその手前、多摩川まで進出したところで行軍を止めた。

 向いの寺を眺めるは錚々たる上杉が武将連イツメン、余裕の笑顔で評定の座に席を取る。


「上州を征すると称して、わずか五百騎では」

「哀れなもの。鎌倉公方の権威など今は昔、坂東は関東管領の掌握するところと言うに」

 衆論を受け満足げに頷いた長尾景仲が総大将の扇谷上杉顕房また庁鼻和こばなわ上杉性順に会釈を送り向き直る。

「明朝を期して攻城に移る。皆々(・・)さようお心得ありたい(・・・・)


 上杉勢を眺める公方がたの武将もまた凄惨な笑顔を浮かべていた。

「籠城と思うておろうな、小勢を侮るあの布陣」

「籠る虚勢かまえは大当たりであった」

 みな自信ありげに頷いて総大将の足利成氏を仰ぎ見る。何者かが声を励ます。

「鎌倉殿にあっては寺に留まり、高所より我らが働きを実検ごらんいただきたい」


 その足利成氏だが、人物評価が難しい。なにせ昔のことだけに判断材料が少ないのだ。

 戦闘こいくさ上手であったようには見える。古河へ目をつけるあたり、大きな視野を持っていたとも思われる。一方でさらに大きく捉えるならば、享徳の乱を起こし鎌倉府を――自らが拠って立つ体制を、権威の源泉を――崩壊させた暗君と断ずる主張も一概には否定できない。

 だが分からぬながらもただひとつ、確実に言えることがある。

 足利成氏は果断の人であった。


 鎌倉殿ご出馬の一報に耳を疑い、曙光に映えるその姿を目にして五百騎が、二千五百が奮い立つ。戦を生きる武士どもがその機を活かさぬはずもない。成氏を背に二千五百が一丸となって上杉勢に襲い掛かった、陣も隊列も整えぬまま。

 迎え撃つは犬懸上杉憲秋、先陣を譲ったためしとて無き誉の将。突貫の衝撃をまともに受けて小ゆるぎでも見せるどころか太刀を奮ってつわものどもを薙ぎ倒す。その強悍に業を煮やした公方がたでも諸将が声を励ました。

「鎌倉殿直々のご実検ぞ。報酬むくいはあらたか、手柄せよ」

「主に後れる侍やある。馬前にて死ねや者ども」

 かく煽られては押し寄せる公方がたに抗い上杉憲秋もよく粘ったが、そもそもが意想外の奇襲である。奮闘のうちに馬廻りからひとりふたりと斃れゆき、ついに孤影が包まれる。なおも躱した一刀にしかし乗騎が耐えかねた。傷の痛みに棹立ちとなり狂騒のすえ逃げ奔る。

 公方がたの兵どもも、さて首級てがら争いに群がるかと思いきや数騎に任せ次の陣へと掛かり行く。二刻のうちに次鋒大石憲儀までも陥れた。

 貴重な犠牲を無駄にはせぬと上杉勢も建て直す。陣を構えて押し戻す。早朝に端を発した戦は午を過ぎてもなお続き、公方がたの勢いにもようやく衰えが見え始めた。

 だがどう見ても奇襲は痛手、初手は負け戦。ここは損害を抑え数の利を活かすためにも仕切り直すが得策と判断した長尾景仲、早々と退き鉦鳴らして日を終えた。


 翌22日、雪辱の怒りに燃えた上杉顕房が馬を出し新手の五百騎を繰り出した。

 主将の登場に上杉勢の士気も上がる。成氏がたは前日の激戦に数を減らしたところへ連戦とあって、鋭鋒にも翳りの色が増してゆく。


 形勢逆転かと思われたその頃合い、新手の兵が現れた。

 右三つ巴の旗印を目にした両軍なにを思ったことか。陣の再編、勢の糾合、攻防の絵図を組み直すべくみなみな頭を働かす。

 そうして訪れた一瞬の静寂に、そこは浮世を離れた智嚢の持ち主金碗八郎「打ち合わせ通りよ」「なお後詰めがあるぞ、みな励め」などと叫び回る……が、むろんのこと予定の援軍などではない。

 結城成朝、鎌倉府で留守番をしているはずであった。それがなぜ、と言って武士である。抜け駆け以外に何あろう。


 その結城勢だが、恩賞の予感と徹夜の行軍に血走る両の目がさらに染まっていった。何しろ竹に雀を、上杉の軍旗を前にしてしまったのである。結城合戦の、大敗北の滅亡の当事者が。

 もはや打算も軍法もあったものではなかった。将から兵に至るまで自儘勝手に走り出す。屍の山を踏み越え蹴散らし前へ前へと詰め掛ける。

 そう迫り来る修羅の群れを相手にしては斬ろうが突こうが甲斐もない。強兵を以て鳴る上杉もついに崩れ、午には追撃戦の様相を見せ始めていた。



 ――1455年1月21日、足利成氏率いる五百騎と上杉二千騎一万が対峙した。

 分倍河原の戦いは他に表現が難しい。


「足利成氏率いる五百」。

 意において足り辞にして響く句であるが上杉勢には使えない。

「率いる」その語に応ずるだけの主格が存せぬそのゆえに。


 上杉勢には名のある武将も多かった。

 犬懸上杉憲秋

 小山田上杉藤朝

 庁鼻和上杉性順

 山内上杉が重臣大石憲儀、大石重仲、そして家宰長尾景仲


 皆その生涯に数多の勝利を掴み取り戦上手をうたわれた男共だ。

 だが列挙してみると主将、二千騎一万の総員を統括すべき人物が見当たらない。

 家柄も戦績もほぼ同格、ゆえに軍令すなわち上意下達が通ずるものとは思われない――そもこの時代の戦に統率などあるものかと、そこはひとまず措くとしても。

 唯一家格において「やや上」にあたり総大将に推された扇谷上杉家ぶんけの当主顕房にせよ、山内上杉家ほんけの軍勢に対する命令権は持っていなかったはず。


 分倍河原の合戦は野戦である。

 五百騎対二千騎、二千五百に対して一万。数にして四倍の開きがあった。


 しかし負けるはずなきその戦で二千騎一万の上杉勢は各個撃破された。

 足利成氏「率いる」五百、意思統一された二千五百の連続波状攻撃を受けて。


 上述した上杉憲秋、上杉藤朝、上杉性順、大石憲儀、大石重仲、それどころか総大将に推された扇谷上杉家当主顕房に至るまでが、みな重傷を負い数日のうちに自刃した。


 事実上の討死である。指揮官クラスの武将たちが軒並みに。

 攻勢の苛烈、想像に余りある。



高安寺、分倍河原:ともに現在の東京都府中市

五百、二千:員数にして約二千五百、また一万人前後


 記録上の「騎」について、「騎乗者」の意味ではなく「戦闘員/総員」と捉えるべきかとも思いましたが、やはり騎乗者の意味ではないかと。

 実際のところどうなのでしょう。この時代のこの一戦に、どれぐらいの数が関わっていたものか。大手守護大名の動員規模が数百騎・数千人? ということならば、あるいは二千人ぐらいだったのかもしれません。

 ……庁鼻和を初見で読めちゃう人っているのかしら。

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