第18話 足利成氏の決断 1455年1月上旬
騒動を報告した義実が奉公衆どもの目を見るに、それぞれ思うところもあったらしい。だが現今の鎌倉府はそれどころではなかった。
最前承知のこととは言え故・関東管領一党が糟屋館へと――山内上杉一党が扇谷上杉の本拠へと――引き下がったからには、もはや妥協の余地も無い。敵は山内扇谷の両上杉と確定したのだ。
「およそ両面を相手取るは愚策、まずは全力を以て一に当たるべし」
そこは彼らの生業ゆえに誰言うまでも無きところ。
と申して、ではまずいずれに当たるのか……最低限の抑えにも兵を割かねば……そも孫子曰く……さまざま評定が紛糾する中、義実はぼんやり庭を眺めていた。
「里見どのの腹案いかに」なりと求められたところで窮せざるを得ないのだが、「よい年して大戦を知らぬ男ぞ。聞いたところで」などと押さえ込まずも良かろうと。
なるほど事実ではある。仕物の返り討ちは匹夫の業、房州の戦にせよつまりは土豪の小競り合い。だが武士たる者とげとげしき物言いには逆捩じ食わさずおれないのである。
「小戦喧嘩を言うならば、知恵などよりも気合が肝要。眼前の敵一人を殺る、この一念よ」
中身が無いにもほどがある、正しき空吠え。義実にもその自覚はあった。
ところがそこへ同意の声が降って来た。
「良くぞ、左馬。忘れてならぬところであった」
首座を占める若き主君が愁眉を開く……も、晴れやかと言ってよいものか義実には判じかねた。
「思えば七年を逃げ惑うたは何ゆえか。五年にわたる右馬の献言その要諦もまた同じ」
成氏が見せていたのは記憶の裡に封じたはずの険しき顔であったから。
二度と見ることはあるまい、見たくもないと思っていたはずの顔。
だがこの日の義実は若きあるじのその顔に白い歯を見せてしまっていた。
「この戦、つまるところは我と長尾景仲の争いである。敵はひとり、その旨心得て策を立てよ」
席を払って去る姿に低頭もせず、ただただその背を見送っていた。
残された奉公衆には泣く者まで出る始末。大略は己が立て、委細は部下に任す。これぞ鎌倉殿、まさに大将の器と。
だがこれいわゆる器量ばかりの話でもない。じっさい足利成氏の判断は明快で洞察力に富んでいた。
「なるほど両上杉の肝は、要は長尾景仲であった」
「さよう。景仲の首一つを取れば」
「うむ、潮目も変わる。戦は無論のこと、折衝まである」
戦評定すべきところ、各人しばし主君の賢明に感じ入るばかり。
明主であると、その確信を得ることで義実にも見えてくるものがあった。
「翻って我ら、鎌倉殿御一人が残れば勝ちよ」
挑発と言えば挑発。だが義実の前半生におけるそれは信念であった。
なにも義実に限らない。奉公衆の多くは永享の乱また結城合戦で、その後の追討で一族を、土地を、人生を失っていた。何も彼も鎌倉殿が不在のゆえと、みな痛いほど思い知らされている。
それこそ成氏ではないが「つまるところ」なのだ。
つまるところ、己が死生を数に入れねば済む話。
「多寡を慮らず仕留めるならば野戦にて」
「山内上杉すなわち上武の勢を迎え撃つとあらば……」
「それこそ彼我の多寡よ、引きつけて分倍河原か」
腹が据わればすらすら決まる、これは坂東武者の良きところ。
「武田どの。留守を、鎌倉を頼めるか」
「八屋形の上に立つ剛の者など他に無し」
先の発言を聞くからに、成氏みずからが出陣し長尾景仲率いる――それが公方がたの主観であった――山内上杉に当たると断を下したのだ。ならば右腕の武田信長が別働隊の将として扇谷に当たる、これは自然の理屈である。
むろん、奉公衆に隔意が無かったとも言えまい。
武田信長とは何者か。好機に乗じた新参者、敗け戦の痛みを知らぬお客人ではないかと。
こうした意識は、反発は、切所に至ればなおのこと高まるものと決まっている。
老練の武田信長、そこは理解し配慮を見せた。味方の気分を、勢いを削がぬことに心掛けた。
「任された、皆々お励みあることぞ」
義実持助ふたりの婿に苦笑を作り背を向けた。




