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陛下、ご自身でわたしを追放したのです。復縁を命じられましてもお受けしかねます。なぜなら、わたしは最高の妻で双子の良き母で最強の王妃なのですから

『すべての罪を許す。すぐに戻り、妻としてこの先一生おれに尽くすことを命じる』


 祖国ラジェフ帝国からやってきた使者は、元夫からの手紙を携えていた。


 現ラジェフ帝国の皇帝ヴラジーミル・レスコフからの手紙を。


 そこには、たった一行だけ記されていた。


 それは、手紙というにはあまりにも短く、また傲慢で威圧的だった。なにより、愚かすぎた。


 手紙というよりかは、令旨といった方が適切かもしれない。


 というか、本人にとってはそのつもりなのだ。もっとも、わたしにとっては違うけれども。


 いずれにせよ、わたしは待っていた。夫からの手紙を。


 それがやっときたのだ。


 正直なところ、五分五分だった。こない可能性も充分あった。しかし、やってきたのだ。


『すべての罪を許す。すぐに戻り、妻としてこの先一生おれに尽くすことを命じる』


 元夫から送られた復縁を迫るこの手紙は、生涯に渡って忘れられない手紙となった。


 それどころか、イシャーウッド王国と祖国ラジェフ帝国二国の歴史をおおきく変え、語り継がれることになるだろう。つまり歴史に刻まれたのだ。


「皇帝から元皇妃への復縁書」


 そのように呼ばれ、この世界で有名になるとは、そのときには想像もできなかった。


 元夫からの復縁を命じる令旨は、伝説の手紙となったのだ。




 元夫は、三年前に皇妃であるわたしを一方的に追放した。それまで彼のために尽くし、国家のために尽くし続けたわたしを、彼はいとも簡単に追放した。


 そしていま、彼はまた一方的に命じてきた。


 元夫は、あいかわらずである。


 クズでバカで愚かなところは、三年前となんらかわってはいない。




 わたしのいまの夫は、ある意味では国王らしくない。驕ったところや傲慢なところはいっさいなく、それどころかだれよりも控えめで真面目である。


 なにより、この世界でいちばんやさしくて誠実である。


 それは、わたしにたいしてだけではない。だれにたいしても、である。


 わたしは、そんな彼のことを心から愛している。そして、彼はわたしを心から愛してくれている。


 彼とわたしは、恋愛に関しては臆病である。それほど積極的ではないし、恥ずかしがり屋である。


 そんなわたしたちだけれど、ことあるごとにおたがいに愛を伝えあっている。もちろん、ところかまわず手を握り合ったり口づけをしたり、というわけではない。あるいは、これみよがしに「ハニー、愛しているよ」や「あなた、愛しているわ」と伝えあっているわけでもない。愛は、これみよがしに表現するものではない。ましてや見せびらかすものでもない。ちょっとした仕種や表情でわかるのだ。それでおたがいにわかるのだ。おたがいに愛を与え、与えられ、感じ、感じられる。そのことが。そして、それはなにも彼とわたしという夫婦の間だけのことではない。わたしたちのふたりの息子たちにたいしてもである。


 わたしたち家族は、つねに愛し合い支え合い頼り合い慈しみ合っている。


 そう。そんなわたしたちは最強。どこの国のどんな家族にも負けやしない。


 とくに元夫とその家族には、ぜったいに負けやしない。


 この三年間、ずっとそれを自負してきた。誇ってきた。




 元夫からの使者とは、謁見の間では会わなかった。 


 わたしの隣で夫のモーガン・ルーズヴェルトが手紙に目を通している。厳密には、一瞥している。美貌の眉間にシワをよせ、それらしい表情を作っている。


 その彼から、ローテーブルをはさんだ向こう側にいる使者に視線を向けた。


 謁見の間ではなく、モーガンの執務室である。本来なら、使者は玉座にいるわたしたちに跪かねばならない。跪き、わたしたちを見上げなければならない。


 実際、わたしがまだラジェフ帝国の皇妃だったときには、彼は玉座の下で跪いていた。


 もっとも、わたしが政務を取り仕切る際にはいまのように執務室や会議室で会っていたけれど。


 ヴァルラム・ナタレンコ卿。わたしがまだ皇妃になったばかりの頃、彼は官僚のひとりだった。やりたい放題していただけでなく、「それが趣味なの?」と疑いたくなるほど不正と不法を繰り返していた。


 当時のわたしは、両親と兄と知人たちと連携して手始めにそういったクズから粛清した。そこからはじめないといけなかった。それほど、当時の祖国の政治や経済や軍事はひどかった。


 そういった連中を粛清し、皇都から追い払った。そのはずだった。


 その彼は、どうやらいまは皇都に戻って社交界に返り咲いただけでなく、元夫の側近であるらしい。


 もっとも、ナタレンコ卿がクズの元夫の側近だろうと片腕だろうと、わたしには関係のないことだけど。


「ルーズヴェルト殿、わが皇帝からの親書に目を通すのはもういいのではないかな? わが皇帝は、わざわざ公用語で認めている。まさか、貴公が理解出来ないというわけではあるまい?」


 禿頭に下膨れの顔。


 領地に引っ込んでいる間でも、領民から搾取し贅沢三昧の日々を送っていたらしい。


 というか、いくら小国とはいえ一国の主である国王を「殿」呼ばわりする辺りが、元夫たちのわたしたちにたいする傲慢さがイヤというほど感じられる。


「ナタレンコ卿」


 モーガンは、手紙から美貌を上げると苦笑を浮かべつつ使者の禿頭下膨れの顔を見た。


 彼は、それからわたしへと視線を転じて手紙を軽く持ち上げた。


 彼の手は、幼い頃からの剣の鍛錬で分厚くタコだらけである。


 彼の剣の腕は、相当なもの。これは、夫だから贔屓目になっているわけではない。ほんとうに彼の剣はすごいのである。


「わが国へ使者として来るのなら、もっと調べておくべきだな」


 モーガンは、怒っているわけではない。ただ単に呆れているのだ。


「は?」


 ナタレンコ卿は、ローテーブルの向こうで禿頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。


 そんな彼を見ながら、昔彼を皇都から追いだしたのは間違いだったことに気がついた。


 下手に情けをかけて皇都から追いだすのではなく、社会的に破滅させればよかった。表舞台どころか、村の行事にさえ顔を出せないほど叩き潰せばよかった。


 ナタレンコ卿は、国にとって害でしかない。害虫の方がまだ使い道があるだろう。そんなレベルのクズなのだ。


 もっとも、わたしには関係のないことだけど。


 とはいえ、何億人ものラジェフ帝国民が気の毒でならない。


 またしても胸が痛んだ。この痛みは、帝国を追放されて以来慢性的に起こっている。しかも、日に日に痛みは増し、激しくなっていった。


「わたしは、貴国に留学していた。長い間だ。だから、ラジェフ帝国語はまったく問題ない。ナタレンコ卿、貴公だけではない。皇帝もそのことを忘れているのだろう」


 モーガンは、わたしの隣でちいさく笑った。


 日頃はやさしく寛容な彼だけど、やるときはやるのだ。


 わたしは、それをよく知っている。


 昔、何度もやられたから。


 わたしたちは、学生時代好敵手だった。


 そのときには、やさしさや笑顔だまされたものである。


「まぁいいだろう。それよりも、この手紙、失礼、親書だったかな? いずれにせよ、これは大国の皇帝が書くようなものではないな。いや、人間としてもだ。さらには男として、元夫としてもな」

「ルーズヴェルト殿、それは貴公へ宛てたものではない。彼女に宛てたものだ」


 ナタレンコ卿は、下膨れで首と見分けのつかない顎でわたしを示した。


「無礼者っ!」


 その瞬間、モーガンが元夫からの手紙をローテーブルに叩きつけた。


 彼の剣幕に、ナタレンコ卿の贅肉だらけの体が震えた。


「このバカばかしい内容については、嫌味のひとつふたつで拒否し、貴公をここから放りだすだけにしておこうと考えていた。が、それもできそうになくなった。ミキ、人の好い国王のふりをするのはもうそろそろやめてもいいだろう?」


 モーガンは、いらだたし気に立ち上がった。もちろん、わたしもそれに続く。


「ええ。もちろんです、陛下。陛下の思うままにされてください」


 それから、苦笑しつつ彼に返答した。


「皇帝は、皇都を追われて逃げ隠れしているのだろう? 極秘にできると思っているのか? いまさらミキと復縁し、いったい彼女になにをさせようというのだ? もっとも、それはなにかはわかっているがな。皇帝は、彼女を生贄に差し出すつもりなのだ。彼は、みずからの暴虐非道をすべて彼女のせいにしようとしているわけだ。彼女を民衆の前に晒し、彼女がおこなってきた数々の改革がもたらせた結果だと思い込ませようとしているのだ」


 わたしからすれば、いまのモーガンはまったくらしくない。


 だけど、彼はいま一生懸命である。


 わたしを守る為、わたしの祖国ラジェフ帝国の人たちを守る為、演じてくれているのだ。


 強面の王を。したたかなわたしの現夫を。


 わたしは、そんな彼を心から尊敬する。


 もっとも、こんな彼への気持ちは、学生時代の頃には考えられなかったけれど。


 それをいうなら、あの頃は想いという点においてもまったく考えられなかった。


 なにせわたしは、産まれた瞬間から元夫の婚約者だったから。


 そのことを子守唄代わりどころか、胎児の頃から聞かされた。つまり、両親がお腹の中にいるわたしにそう語りかけたらしい。


 物心ついた頃には、はやくも妃教育がはじまった。


 そんな調子だから、学校も妃教育のかたわらに通っていたにすぎない。それこそ、片手間に学んだというところか。


 しかし、学ぶことは楽しかった。厳密には、政治経済軍事文化宗教、それ以外のことも含めて学ぶことすべてが、わたしにとってしあわせ以外のなにものでもなかった。


 正直なところ、勉学の方が妃教育よりよほどよかった。だから、どうしてもおざなりになった。


 妃教育の方が、である。


 そしていま、あのとき全力で学んでよかったとつくづく思っている。


 もっとも、そのお蔭で元夫から疑われ、追放されたのだけれど。それどころか、両親と兄まで疑われ投獄されてしまったけれど。


「そんなクソみたいな男のクソみたいな手紙にどうしろというのだ? 礼儀にのっとり、目を通してやっただけでもありがたく思え」


 モーガンは、さらに強面に見えるようがんばっている。


(クソ、だなんて。モーガンにしたら上出来ね)


 心の中で、彼に称讃を贈ってしまった。


「さあ、謁見の時間は終わりだ。わが騎士たちに放り出されないうちにさっさと出ていくがいい」


 モーガンは、美しい外見には似合わないごつごつした手をひらひらと振った。


「貴重な時間をくだらないことに費やしてしまった。ミキ、これからの予定は?」

「陛下、会議です。内容は、先日の続きでラジェフ帝国の難民救済の件です。陛下、本日もだいぶんと難航しそうです。会議の前にランチを召し上がった方がいいでしょう」


 一昨年ほど前からである。ラジェフ帝国からわが国に逃げてくるラジェフ帝国民の数が爆発的に増えた。その数は日ごとに多くなっており、いまや毎日何千人単位でやってくる。


 しかし、わたしたちはけっして彼らを拒まない。


 とはいえ、わが国は小国。もともと国民は他国ほど多くはない。それでも、少数民族というわけではない。国土の狭いこの国に大挙して帝国民が越境してくるいま、難民対策に迫られている。


 連日、会議に次ぐ会議。


 対策に苦慮してはいる。しかし、だれもがしあわせになる権利がある。もともといるわが国の国民は当然のこと、困って逃げてくる帝国民たちも同様である。


 彼らにも平和と安寧。そして、しあわせを得る権利があるのだ。


 わたしたちは、そのために日々頭を悩ませている。よりよい方法を模索し、つぎつぎに案を出し合っている。


 ありがたいことに、モーガンとわたしの周囲は、優秀で協力的である。


 本来なら反対や反発してもおかしくないこの難民問題を、わが国の国民のように考えてくれている。


 そのお蔭で、わたしもほんのわずかながらも後悔や心配を軽減できている。


「待ってくれ。このまま手ぶらで帰れば、わたしは殺されてしまう」


 ナタレンコ卿は、座ったまま懇願した。


 懇願、ではない。懇願にしては、エラソーだったから。


「ふむ」


 モーガンは、執務机に向かいかけた足を止めた。そして、体ごとナタレンコ卿に向き直った。


「はっきり言って、『貴公がどうなろうが、わたしの知ったことか』だな」


 モーガンは、声を上げて笑った。


 たしかに、モーガンの言うとおりである。


 ナタレンコ卿が殺されようがひどい目にあわされようが、モーガンやわたしのあずかり知らぬこと。


「ミキ、どうする? きみは、彼をどうしたい。彼がこのまま出ていかないのなら、力づくで放り出すことになる。わが騎士たちは、控えめにいっても乱暴だ。しかも、加減というものを知らん。彼らが彼を放り出したとき、打ち所が悪かったりすれば死んでしまうかもしれない。はっきり言って、騎士たちに殺されてもおかしくはないがね。なぜなら、彼はわたしたちに不敬を働きまくっているからな。その罪は重罪。その罪は重罪。軽くて鉱山での使役。もしくは、一生涯に渡って地下牢獄への投獄。重ければ死罪。断頭台、あるいは毒杯。ということは、結局彼は皇帝に殺されるのかわたしに殺されるのか、の違いなだけだ。だろう?」

「そうですわね」


 笑ってしまいそうになるのを必死に我慢しなければならなかった。


 わが国には、不敬罪でどうのこうのということはない。だから、その罪でだれかが投獄や死罪になった前例はない。


 言論の自由や活動が当たり前という以前に、そんな必要さえないからである。


「ナタレンコ卿のことは、よく覚えています。彼は、つまらない小悪党です。小悪党でも機転や気の利く者はいますが、彼は無能きわまりありません。つまり、悪事やつまらないことさえ満足にできません。帝国にとっても帝国民にとっても、まったく必要がありません。ただの害虫です。あら、非公式とはいえこんなことを言うと、この世の中の害虫たちが気を悪くしますわね」


 口に手をあて、お上品に笑ってみせる。


 わたしもまた、演じるのだ。


 イヤーなレディを。


「ですが、陛下。害虫以下のどうでもいい者でも生きる権利はあるでしょう。それは、このイシャーウッド王国では当たり前のことですから。ここで無礼を働いたとはいえ、彼はいまこのイシャーウッド王国にいます。ここにいる以上は、彼にもその権利を行使するチャンスを与えるのもいいかもしれません。たとえ突発的な思いつきや気まぐれでもかまいません」


 元夫に嫁ぎ、社交界で愛想を振りまくことはなかった。それは、元夫の領域だったからである。本来なら彼の領域である政務や軍事や経済を、彼にかわってわたしが切り盛りした。もっとも、嫁ぐ前からそれは覚悟していた。というか、嫁ぐ目的だったといってもいい。


 当時は、政治経済も含めたすべてがひどかった。だからこそ、生まれながらの「皇帝の花嫁」の立場を利用した。父や兄や協力者たちとともに、「帝国民のため」を目指したのだ。だからこそ、嫁いだ瞬間にレディであることを捨てた。気持ちだけではない。外見もである。肩くらいまであった黒髪をさらに短くし、決意をあらたにしたのだ。


 もっとも、もとからレディらしくなかったところはある。それはいまも同じで、いまも昔ほどではないけれど髪に関してはサッパリすっきりしている。


 まぁ、ラクだからというのが本音だけど。


 ちなみに、元夫はわたしがレディっぽくないというところも気に入らなかったのだ。


 それをいうなら、元夫はわたしのすべてを嫌っていた。黒い髪に黒い瞳。小柄なところ。もちろん、性格や態度もである。


 そして、その元夫派の人たちもまたわたしを嫌っていた。


 いま目の前にいるナタレンコ卿もそのひとりだったのだ。


 その彼はいま、当時と同じでまたわたしにしてやられてどのように思っているのだろう。


 どのように感じているのだろう。


 もっとも、彼がどのように思おうが感じようがどうでもいいことだけど。


「陛下、どうでしょう? こんな理不尽かつひとりよがりの愚かな親書を送りつけてきた本人がこちらにやってくるというのは」


 さらにイヤなレディになってやる。


 双子の子どもたちが「母上の怖い笑顔」、と怖れる笑顔をナタレンコ卿へ向けた。


「わたしが彼のもとへ戻る? 行く? どちらでもいいですが、とにかくこちらから足を運ぶ義理や義務はまったくありません。そんなにわたしに会いたいのなら、彼がこちらに来るべきです。彼がここにやって来たら、そのときに会うか会わないか考えましょう」

「それはいい考えだ。わが国は、来る者は拒まない。反乱軍に追われる他国の皇帝であっても、ラジェフ帝国民同様にわが国に入国できるからな。もっとも、その途中で反乱軍に追いつかれたり、あるいは引き渡しを要求されれば即座にお引き取り願うがね」


 モーガンは、即座にわたしの提案を賛成してくれた。


 とはいえ、最初からそのつもりだったのだけど。


「ナタレンコ卿、命拾いしたな。さっさと戻り、いまだ主と慕う皇帝、いや、もはや元皇帝だな。彼を連れてくるがいい」


 が、ナタレンコ卿は絶望に打ちひしがれてそのまま動こうとしない。


「あの皇帝がわざわざ来ることはないだろう。拒否されたと報告するのと同様、殺されるだけだ」


 ナタレンコ卿は、俯いたまま呟やいている。


 彼は、この状況と自分たちの境遇と現実というものにやっと気がついたのだ。


「そうだ。皇帝を、いや、ヴラジーミル・レスコフを連れてきたら、わたしを陛下、あなたの臣下に取り立ててもらえますか?」


 ナタレンコ卿は、揉み手をする勢いで媚び始めた。実際、揉み手をしている。


(ちょっと待って。あまりにも変わり身がはやすぎないかしら?)


 その超高速の変わり身のはやさに、驚くとともに呆れた。


「約束はできん。わたしには優秀な家臣しかいないし、充分足りているから。まぁ、そのときになって考えてみてもいい。王宮の使い走りかなにかの仕事はあるかもしれん」


 モーガンも呆れ返っている。それどころか、嫌悪感を抱いただろう。


 彼は、主人を売って自分だけ助かろうというするような行為を許しはしない。


 しかし、いまはそう告げるしかない。


 そこでやっとナタレンコ卿は去った。


 自分には将来があると、確約された未来があると勝手に信じて。


 

 どれだけ忙しくても、子どもたちとモーガンとの一家だんらんの時間は確保することにしている。


 体を休めたりボーっとしたりする、自分の時間はなくしてもである。


 それは、わたしだけではない。モーガンもである。


 できるだけ家族団らんは欠かしたくない。


 政務やその他もろもろの所用をがんばってはやめにすませる。そして、子どもたちと一緒に夕食をとり、しばらく遊んだり話をする。そして、子どもたちを寝かしつける。


 本来ならわたしがすべき多くの世話は、乳母や侍女たちにお願いするしかない。


 もっとも、乳母や侍女たちは、わたしより完璧に子どもたちの世話をしてくれる。だから、任せて安心というわけ。


 彼女たちには頭があがらない。とはいえ、彼女たちに負担をかけてばかりはいられない。乳母は四人に増やし、侍女も専属の侍女を八名にし、できるだけ休みをとってもらっている。もちろん、できるだけの給金は渡しているつもりである。


 せめてもの感謝の気持ちを込めて。


 それはともかく、子どもたちと夜はいっしょにすごすよう努力は怠らない。


「母上、王子様はどうして怒ったのですか?」

「母上、国王はどうして反対したのですか?」


 三歳の子どもたちは、毎夜のようになぜなぜを爆発させている。


 ありがたいことに、目立ったイヤイヤ期はなかった。ふたりともに、である。


 乳母と侍女をはじめ、だれもが驚いていた。


 そして、そのかわりになぜなぜ期を迎え、それはいまも続いている。


 二歳の後半くらいから、ふたりは絵本よりも子ども向けのお話しを好むようになった。そして、三歳になってからは、大人が読むような書物を読んで欲しいとねだるようになった。だから、そういう書物の中でも冒険物とか悪人を懲らしめるものとか動物や子どもが主役のものとか、そういうものを選んで読み聞かせている。


 ちなみに、子どもたちは持っている子ども向けのお話しのほとんどをそらんじることができる。


 そして、なんと文字も読めるのだ。


 ふたりが四歳になったら、文字が書けるようになるかもしれない。


「それは、こういうことさ」

「これは、こういうことなの」


 モーガンとふたり、彼らのなぜなぜに答えるのは大変である。そして、最終的にはみんなで議論になる。


 正直なところ、議会や打ち合わせで大人を相手に舌戦を繰り広げる方がよほど気が楽である。


 それは、モーガンも同様らしい。


 というか、子どもたちは子どもらしからぬなぜなぜをぶつけてくる。


 お話しだろうといま流行りの小説だろうと、彼らの感じ方や理解の仕方は子どもっぽくないのである。


 そういえば、わたしも子どもの頃はずいぶんとませていたらしい。


 物心ついた頃から、大臣をしていたお父様、貴族子女の家庭教師をしていたお母様、神童と誉れ高かったお兄様に突拍子のない質問をしまくっていたという。


 残念ながら、わたしは覚えていないのだけれど。


 だけど、家族がしょっちゅう政治や経済や文化や宗教について議論を戦わせていたら、それを見聞きするわたしもそういうことに興味を抱いたはず。そして、いろいろ疑問を持ち、いろいろ知りたくなったはず。


 だから、子どもたちにも同様のことがいえる。


 もっとも、モーガンとわたしは極力政治や経済の話は避けている。子どもたちの前では、ごく一般的な夫婦を、というか父親と母親をきどっているつもりなのだ。


 それでもやはり、子どもたちは敏感に感じ取っているのだろうか。


 ああ、そうね。きっと彼らの問いにたいして真剣に答えるからダメなのかもしれない。真面目な答えをするからかもしれない。


 子どもたちは、モーガンとわたしの答えからさらに疑問を抱いてそれをぶつけてくる。


 議論に発展するわけだ。


 だけど、それはそれでいいのかもしれない。


 彼らさえ、そしてわたしたちさえ楽しんでいるのなら、そういう遊びや接し方もアリかもしれない。


 それがわたしたち家族の在り方であり、絆なのだ。


 とはいえ、子どもたちは子どもらしい疑問を抱き、それをぶつけてくることがある。


 モーガンとわたしのことを、である。


 だけど、その内容もまた他の子どもたちとは違うかもしれない。


 というのも、ふたりのなれそめだとか、よくケンカしたのかなどではない。


 学生時代にわたしたちがどのような議論を戦わせたのかとか、どのような分野が得意で不得意だったのか、そういう内容なのだ。


 そういう疑問を抱くのは、男の子だからかもしれない。


 これが女の子だったら、いつ口づけしたのとか、どこがどう好きだったのとかだったに違いない。


 もっとも、学生時代にはわたしたちの間にはなにもなかった。そういう質問は、それで困ったかもしれない。



「母上とは、ことあるごとにぶつかった。政治学のあと、経済学のあと、宗教学のあと。それから、議会の模擬練習のあとは、取っ組み合いにのケンカになるほどの激しさだった」


 モーガンが昔話をすると、子どもたちはそれはもう可笑しそうに笑う。


「どちらが強かったのですか? 物理的に、です」

「レディの母上より男性の父上の方が、腕力ではうわまわっていますよね?」


 これが三歳児の言うことかしら?


「でも、それは一般的だよ。母上は、頭もいいし度胸もあるし、腕力だって男性に負けていないよ」

「うん、そうだね」


 三歳児に褒められた。


(というか、彼らはわたしを男性だと思ってるのでは?)


 当たらずとも遠からず、だけど。


「ふたりとも当たりだ。ふたりともおおきくなって剣や体術の稽古で母上より体力がついたとしても、母上に負けるぞ。これは、預言じゃない。当たり前の事実だ。そのことを覚えておくといい」


 よせばいいのに、モーガンはそんなふたりに嘘っぱちを植え付ける。


「そんなことはありません。ふたりとも、わたしはか弱いレディです。だから、ずっと先にならなくても、いまからでも守ってもらわないと」


 そして、よせばいいのにわたしも嘘をつく。


 子どもたちがふきだした。そして、モーガンとわたしも。


 これは、いつものやり取りのひとつ。


「お祖父様とお祖母様と伯父上には、いつ会えるのでしょうか?」

「はやく会いたいです」


 子どもたちがそんなことを言い出したのは、ほんとうに急なことだった。


 もしかすると、子ども特有の勘かなにかで察知したのかもしれない。


 とにかく、彼らがそんなことを言い出したのは、偶然でもなんでもなかった。


 必然だったのだ。


 そのことを、すぐあとに知ることになる。


 モーガンのお父様とお母様、つまりわたしにとっては義理の両親にあたり、イシャーウッド王国の前国王夫妻は、いまはもういない。


 モーガンがラジェフ帝国での留学を終えて帰国するのを待っていたかのように、まずはお母様が亡くなった。そして、側妃を置かず、生涯正妃を愛し続けた国王は、意気消沈してしまった。すぐにモーガンに跡を譲ったほどに。そして、無事にモーガンがイシャーウッド王国の国王の座に就いたのを見届けてから、お父様は亡くなった。


 ふたりとも、偶然か必然か同じ病で亡くなったのだ。


 というわけで、子どもたちには片方の祖父母、つまりわたしの両親しか残っていない。


 ふたりは、その祖父母、それから伯父であるわたしの兄に会うのを楽しみにしている。


 もっとも、もうしばらくお預けになりそう。


 しかし、もう間もなくだ。


 元夫がついにわたしに助けを復縁を求めてきた。


 彼は、わたしがまだ彼を愛しているのだと勘違いしている。


 もっとも、最初から愛してなどいなかったのだけれど。


 皇族との約束、というよりか取り決めがあったので嫁いだにすぎない。


 だから、最初から最後まで彼がわたしを愛することなく蔑ろにし続けた。そして、わたしもまた彼を愛することはなかった。ただ、皇妃としての義務は果たした。だから彼を蔑ろにはしなかった。表向きには、だけれど。


 わたしが政務に没頭し、お父様やお兄様とともにあらゆる尽力と努力を続けたのは、ひとえに帝国民のためだった。けっして元夫や特権階級の人たちのためではない。


 それはともかく、わたしに使者を送ってきたことで、彼の潜伏先が知れる可能性がある。


 わたしたちは、祖国にいるお兄様と連携し、彼の居所を探っていたのだ。


 もちろん、元夫はやってこない。


 何度もわたしに使者を送りつけるだけで、けっして自分からはやってこない。


 彼は、この期に及んでまだ自分の立場をわかっていないのだ。自分がどれだけヤバい事態に陥っているのか自覚していないのだ。


 それをいうなら、彼はわたしを追放した時点で終わっていた。


 あの瞬間に彼の破滅へのカウントダウンがはじまったのだ。


 とにかく、使者を何度も送ってくることで、こちらも彼の居場所を知る手がかりを得ることができる。


 ナタレンコ卿には、モーガンが彼自慢の工作員をつけている。


 うまくいけば、この一回の使者だけで判明するかもしれない。


 そうすれば、祖国にいるお兄様と連携して元夫を捕らえることができるかもしれない。


 わたしたちの目的のひとつが、元皇帝を捕らえることなのだ。


 話は、それからだ。


 そう。わたしたちは期待はしていない。


 元夫がわたしに直接頼みにくることなど、絶対にありえないのだから。


 しかし、わたしたちの期待は裏切られた。


 わたしたちにとってはいい意味で。





 その日、ひさしぶりに視察を行った。


 ラジェフ帝国から逃れてきた人たちのために、仮の住まいを国境近くに設営している。


 とはいえ、二十以上ある施設はすでに満杯。さらに増設する必要がある。


 そして、彼らをいつまでもそこに縛りつけておくわけにはいかない。


 係官たちが面談し、それぞれの希望に沿うようにはしている。が、その面談がなかなか進んでいないらしい。


 それほどまでにラジェフ帝国民の数が増えている。一方、係官たちの数は多くない。


 というか、臨時で増員し、続々と現地に送ってはいる。それも間に合っていないという状況だ。


 そんなある日、夕食後にモーガンとそのことについて話をしていると子どもたちがやってきた。


 なるべく子どもたちの前ではそういう話はしないようにしている。しかし、このときは子どもたちが知りたがった。


 ふたりで深刻な表情をしていたものだから、彼らも子どもなりに心配してくれたのだ。


「先にやってきた人たちにやってもらったらどうですか?」

「先にやってきた人たちを係りの人にすればどうですか?」


 子どもたちは、そっくりな顔を見合わせ同時に言った。


「なんてことなの」

「なんてことだ」


 子どもたちのその発想に驚いた。驚くとともに、納得した。


「それはいい考えだわ」

「それはいい案だ」


 つぎは、モーガンとわたしたが顔を見合わせる番だ。


 モーガンと顔を見合わせ、子どもたちのアイデアに狂喜乱舞した。


 そして、その案を進めることにした。


 今日は、その案の進捗状況を視察に行くのだ。


 子どもたちも一緒に。


 これは、彼らの案である。だからこそ、彼らも見る権利がある。


 なにより、彼らが望んだからでもある。


 というわけで、家族で出かけることになったわけである。


 このときには、まさかあんな事態に陥るとは思いもしなかった。


 あんな奇蹟的といってもいいほどのことが起こるとは、想像もしなかった。



 視察のことは、かぎられた人たちにしか知らせていない。


 わたしたちが不在の際に政務をお願いする宰相、それから副宰相。そして、危急の際に国王のかわりとなる副王。彼は、モーガンといっしょに育ち、いっしょに留学もしていた存在。乳母兄弟で大親友。名は、ラルフ・スコットニー公爵。もともとは前国王、つまりモーガンのお父様の弟の長男で、当時跡継ぎのいなかったスコットニー公爵の養子となった。だから、モーガンの従兄弟でもあるわけ。


 ちなみに、スコットニーはわたしたちと同じ年齢で、モーガンに負けず劣らずカッコよくて文武ともに優秀な人である。なにより、彼には野心がない。というか、地位や名誉よりレディが大好きなのだ。レディが好きすぎて、彼にはそういう噂が絶えない。それが彼の唯一の欠点であり、弱点でもある。


 とはいえ、そのことを除けば彼は頼りになる存在。だからこそ、彼とわたしとでモーガンの両翼を務めているというわけ。


 とにかく、スコットニーと宰相にすべてを任せておけば安心。


 あとは、護衛の関係上、騎士隊長と護衛メンバー。


 それ以外には、わたしたちは数日間、王族の直轄領にある別荘に遊びに行くということになっている。


 とはいえ、バレてしまうだろう。


 それはそれで、スコットニーと宰相が対応してくれるはず。


 イシャーウッドは、ラジェフ帝国だけでなくこの西方地域の国々の中ではもっとも小さな国である。だから、領土が広大というわけではない。王都からラジェフ帝国との国境地帯まで、本来なら一日あれば充分行くことができる。しかし、今回は子どもたちがいる。そのため、途中の街で一泊し、ゆっくり向かった。


 旅はスムーズに進んだ。なんの問題もなく、予定通りに目的地に到着した。


 じつは、家族そろっての旅はこれがはじめてのことである。


 これが一般的な旅だとすれば、だれもが楽しんだはず。気分は高揚し、馬車の窓から見える景色を楽しんだり、会話を楽しんだだろう。


 しかし、今回は目的が目的のためそうそう楽しむわけにはいかない。


 子どもたちには悪いことをした。しかし、彼らは子どもなりにそれがわかっている。理解している。


 彼らは馬車内で騒いだりはしゃいだりすることなく、車窓を流れる景色を静かに眺め、心の中で楽しんでいた。


 そんなふたりのことを、あらためて誇らしいと思った。


 

 正直なところ、これだけみんなががんばっているとは思いもしなかった。


 そこそこの町が出来上がっていた。しかも、ひとつやふたつではない。点在している。それから、もともとあった町や村は、おおきくなっている。


 イシャーウッド王国の人たちは、抵抗感や不信感を抱くことなく、ラジェフ帝国からやってきた大勢の人たちを受け入れてくれている。


 イシャーウッド王国の人たちのそうした寛大で鷹揚な心に感動しないわけにはいかない。


 彼らだからこそ、こんなに短期間に発展したのだ。


 彼らの寛容で柔軟でなにより慈悲深いところは、ひとえに代々の国王の治世によるものに違いない。


 そして、現国王のモーガンの人となりによるものでもある。


 人々が協力して働き、生活している様子を目の当たりにし、感心よりも感動した。


 不覚にも涙がこぼれ落ちそうになり、慌てて他に気をそらさなければならなかった。


 しかし、子どもたちはそれに気がついたようだ。


 両脇からそれぞれ小さな手で、わたしのそれをぎゅっと握ってくれた。


「視察、などとは傲慢だったな。そんなものは、必要なかったようだ」


 モーガンもまた、わたし同様現場を目の当たりにして思うところがあったらしい。


 彼は、苦笑しながらつぶやいた。


「そうですわね。あとは、それぞれの希望先に移動してもらえば、というところですね」

「ああ。予定よりもはやく皇帝が音をあげてくれたからな。早急に帝国の改革がすめば、ラジェフ帝国に戻ることを希望する人もいるだろう」

「ええ。すでにその可能性を発表し、戻るかとどまるかの選択肢があることを伝えているそうです」


 元夫とその一派を断罪すれば、帝国は急速にかわる。帝国さえかわれば、帝国民たちは国に戻れる。


 最低限かつ可能な限りの情報を人々に共有し、自分たちの将来に選択肢があることを知っておいてもらう。


 これもまた、重要なことだ。


 わたしがまだラジェフ帝国の皇妃だった頃、お父様やお兄様以外にも味方はいた。すべてがすべてクズで愚かな政治家や貴族だったわけではない。元夫に媚びを売り、その恩恵に授かって不正や悪事に勤しみ、贅を尽くしムダに権力を振りかざしていた者ばかりではない。


 わがクリスタル公爵家とお母様の実家であるレイトン侯爵家と親しい友人知人以外では、下級仕官や士官、下級貴族たちがわたしを手助けしてくれていた。


 そういう人たちは、金貨やコネでその地位を得たわけではない。努力と才能である。


 だからこそ、少数で改革や摘発を行うことができたのである。


 そういう味方をしてくれていた人たちもいっしょに移ってきている。そして、イシャーウッド王国の役人や官吏たちと協力して働いてくれている。


 到着してから、そういう人たちとの打ち合わせに追われまくった。


 子どもたちといっしょに町や村をまわる時間は取れない。


 子どもたちは、町や村の子どもたちに見てもらうことにした。


 わたしたちは、王都からやってきた官吏家族ということになっている。とはいえ、だれもが薄々気がついているだろう。イシャーウッドの国民とラジェフ帝国民は、ともにわたしたちのことを知らない人はいないのだから。


 とはいえ、だれもが気がつかないふりをしている。


 子どもたちには、平服の騎士ふたりがそれとなくついてくれている。子どもたちのことが気にかかってはいるものの、やるべきことに集中することにした。


 それが子どもたちのたっての希望でもあるから。


 そんな数日間をすごし、明後日は王都に戻るという夜を迎えた。


 あっという間だった。


 子どもたちも、おもに自分たちよりも年長の子どもたちと接することができてすっかり頼もしくなった。いろいろ学んだり実践したりしている。


 そんな子どもたちの柔軟性には、ただただ驚かされた。同時に、見習わねばと思った。




 滞在中、仮設住宅の一軒を借りている。


 最終日は、四人で近くの町や村を訪れることにしている。


 夕食後、いつものように会話を楽しんだ。


 子どもたちからどのような遊びをしたのかを教えてもらうのが、ここに来てからの楽しみのひとつになっている。 


「すっかり遅くなったわね」


 子どもたちに夜更かしさせてはいけないと思いつつ、ここが宮殿ではないという解放感と特別感からか、ついつい遅くまで会話を楽しんでしまう。


「そろそろ眠らないとな。じつは、明日ちょっとしたビックリを準備しているんだ」

「まぁ、イヤだわ。あなた、どんなビックリなの?」


 モーガンの突然の宣言の驚いてしまった。


「母上、いま父上がバラしたらビックリにはなりません」

「ビックリは、そのときにビックリさせるからビックリなのです」


 子どもたちに指摘されてしまった。


 そして、みんなで大笑いした。


 ひとしきり笑い、長椅子から立ち上がったタイミングで居間の扉がノックされた。


 顔を出したのは、騎士団長である。


「ラジェフ帝国の皇帝を名乗る人物が連行されました。国境付近で不審人物を捕らえた警備隊に『われはラジェフ帝国の皇帝である。いますぐ妻に会う』と告げたそうです。その人物の連れが、先日のラジェフ帝国の使者だったこともあり、こちらへ連行したしだいです」


 騎士団長の報告は、わたしだけでなくモーガンをも驚かせた。


「ほんとうに皇帝なのですか? その不審者のことですけど?」


 おもわず、尋ねていた。


「ごめんなさい。疑っているわけではないの。だけど、あの皇帝がわざわざ国境を越えてやってくるなんて、神様がいまここに現れるよりありえないことだから」


 あまりの衝撃に、神様を引き合いに出してしまった。


 わが国は、他の多くの国と違い、盲信、というよりか狂信している特定の神はいない。だからといってけっして神を蔑ろにしているわけではない。むしろ身近に感じ、敬っている。


 見守ってもらっている、という感じだろうか。


 というわけで、気軽に神の名を用いてしまう。


「妃殿下、わかっております。正直、わたしも半信半疑です。だからこそ、せっかくの夜のひとときを邪魔しにあがったわけです」


 騎士団長は苦笑した。渋カッコいい彼には、親子ともどもずいぶんと助けられ、守ってもらっている。


「その不審者に会おう。本物だろうと偽物だろうと面白そうだ」


 と、モーガンが決断するまでに、外がずいぶんと騒がしくなった。と、思う間もなく、その騒ぎがおおきくなった。


「待たせるとは何事だっ!」


 どうやら騒ぎのもとは、その不審者のようだ。


 連行してきた警備隊や騎士たちを脅し、無理矢理ここに来たらしい。


 そして、いまの声。


 傲慢な酒焼けした声は、間違いない。


 元夫、いや、ラジェフ帝国の元皇帝だ。


 騎士団長が入室を阻止しようとしたのを、モーガンが手を振って止めた。


 モーガンは知っているのだ。


 クズで愚かな相手になにを言ってもわからないことを。


「来てやったぞ」


 元夫は、居間に入ってくるなり言い放った。


 わたしの姿を確認するまでもなく、そう怒鳴った。


 三年以上ぶりに会う彼は、その当時よりもずいぶんとくたびれきっている。


 それが遊びがすぎてのことなのか、それとも逃げ続けてのことなのか、はわからない。


「小国といえど、おれにくれてやろうというおまえの申し出にのってやろうというのだ」


 わたしを追放したときの彼は、そこそこの美貌だった。さまざまなレディにやさしく声をかけていただけあり、生き生きとしていた。


 というか、絶倫の精力でもってところかまわず、立場や状況もかまわず、気に入ったレディと寝まくっていた。


 いま、その頃の彼の面影はない。


 くたびれ、疲れきったただのおっさん。人生の負け犬。すべてを失った元支配者。


 そのことに本人だけが気がついていないのだ。


(というか、わたしの申し出?)


 ナタレンコ卿は、元夫を誘いだすのにずいぶんと都合のいい虚言を連ねたようだ。


「ふふん。またおれの妻にしてやるといった瞬間に媚びを売ってくるとは、さすがは卑しい女だけのことはあるな……。ギャッ!」


 元夫がわたしを侮辱している途中にふっ飛んだ。


 モーガンが拳をくれたのだ。


 鍛え上げた彼の拳は、頑丈な騎士たちでさえ怖れるほど威力がある。


 元夫は、廊下の壁に叩きつけられ、床に落ちた。


「息子たちよ、よくききなさい」


 モーガンは、廊下の床上に倒れたまま動かない元夫を睨みつけながら子どもたちに言った。


「暴力がいけないことは、日頃から話をしている。騎士団長に習い始めた剣も、だれかを傷つけたり脅したりするためのものではない。精神を鍛えるため、そして、愛する人を守るためだ」


 モーガンの言葉に、子どもたちはおおきくうなずいた。


 子どもたちは、たったいま行われた暴力を怖がったり怯んだりしている様子はない。それどころか、モーガン同様元夫を睨みつけている。


「いまのもほんとうはダメなことはわかるな? 危険が迫っていたわけではない。肉体的に傷つけられそうになったわけではない。ほんとうは、いけなかった。ただ感情的になったにすぎない。悪い手本だ。おまえたちには、こんな悪い手本の真似はしてほしくない。将来、愛する人の矜持を踏みにじられたとき、おまえたちにはもっとちゃんとした方法で相手を懲らしめてもらいたい。いいな、息子たちよ」


 子どもたちは、またおおきくうなずいた。


 子どもたちは、モーガンの行動がけっして褒められたものではないことはわかっている。しかし、男として夫としては、当然の行動だということもわかっている。


「騎士団長、これはわたしたちには何の関係のない不審者にすぎない。秘密裡に帝国に送り返して欲しい。それから、そこの連れも同様だ。帝国で然るべき処分をしてもらう」


 彼は、廊下の端で騎士たちに拘束されているナタレンコ卿を顎で指し示した。


「そ、そんな。その男を連れてきたのですよ。褒美こそあれ、送り返されるいわれはな……」

「だまれっ! みずからの保身のために主さえ売る貴様もクズだ。おまえの主同様にな。帝国で帝国民たちの裁きを受けるがいい」


 モーガンのひとことで、騎士たちが元夫を抱え、ナタレンコ卿はひきずり、連れて行った。


 そのあと、わたしたちはひとことも口をきかなかった。


 子どもたちとモーガンとわたしは、それぞれの思いを胸に、眠れぬ夜をすごした。




 翌朝、昨夜のことは何もなかったかのようにふるまった。それは、わたしだけでなくモーガンや子どもたちもである。それから、騎士団長と彼の部下の騎士たちも。


 近いうちに子どもたちに話さなければならない。


 わたしの元夫のことを。そして、なにがどうなっているのかも。


 ラジェフ帝国で反乱が起きて皇帝がその座を追われたことは、子どもたちに説明している。


 その皇帝がわたしの元夫だということは、伝えていない。


 子どもたちがまだ幼いから、あるいは知らなくてもいいから、という理由で説明しないのはフェアではない。


 元夫がナタレンコ卿の嘘をまんまと信じ、ノコノコやってきたのは予想外だった。しかし、彼がやってこなくても、この視察が終ったら子どもたちには話すつもりにしていたのだ。


 が、ちょっとしたハプニングで子どもたちもすくなからず混乱しているだろう。だから、ほんのすこしだけ時間を置いた方がいいかもしれない。


 というわけで、予定通りより国境に近い町へと出かけた。


 元夫とナタレンコ卿は頑丈な護送車に乗せられ、いっしょに出発した。彼らは、国境警備隊がラジェフ帝国の反乱軍に引き渡されることになる。


 窓もなにもない鋼鉄製の馬車は、四頭の馬が曳いている。


 意識を取り戻した元夫が、なにかわめいたり怒鳴ったりしているとしても、ナタレンコ卿が慈悲を乞うていたとしても、まったくきこえてこない。


 もっとも、もはやどうでもいいことだけれど。


 そして、目的地である町に到着し、元夫とナタレンコ卿に別れを告げた。


 心の中で、永遠の別れを……。



 訪れた町は、もともとからあった町である。この辺りでは一番おおきな町で、偏屈だけど「良き領主」と領民たちから慕われているレッドフォックス侯爵が統治している。


 レッドフォックス侯爵は、王都にやって来るとモーガンとわたしを叱る。それがまるで義務であるように。あるいは、趣味やルーティンであるように。


 もっとも、わたしたちもありがたく叱られている。中央にいると、報告を受けているとはいえ国のすみずみにいたるまで正確なことを把握することは難しい。この国には、レッドフォックス侯爵以外でもわたしたちを叱ってくれたりアドバイスをくれたりする領主が多い。


 だからこそ、国が発展していく。だからこそ、国がしあわせになる。


 わたしはそう信じている。



 それはともかく、その町の周囲にたくさんの住宅を建て、学校や病院や教会等の人員の増設や施設の強化を行っている。だから、町そのものが活気に満ち、だれもが明るく元気にすごしている。


 馬車はレッドフォックス侯爵の屋敷に向かうのかと思いきや、増設された住宅街の方へと向かった。


 国境まで旅をしてきた人たちで、体力と気力を消耗しきった人たちが多くいるらしい。まだ余力のある人たちは、わたしたちがいま滞在している町や村まで移動する。


 だから馬車の窓から見える人たちは、高齢者夫婦や幼い子どものいる家族が多いわけである。


 馬車は、こじんまりとした家の前で停車した。


 あたらしく出来たばかりのその家は、ちいさいながらもあたたかみが感じられる。


 馬車から降り立ったのと、その家の玄関扉が開いたのが同時だった。


「ミキ」

「ミキ」


 でてきた人物を見て驚いた。


「お父様、お母様」


 なんと、ラジェフ帝国にいるはずの両親なのである。


 弾かれたようにモーガンを見た。


 彼は、美貌にいたずらっぽい笑みを浮かべつつウインクをしてきた。


「まったくもうっ!」


 彼の言っていたサプライズとは、わたしの両親のことだったのだ。


 モーガンをとっちめるのはあとまわし。


 しばらく投獄されていた両親は、すっかりやせ衰えている。


 そのふたりに抱きしめられると、涙を我慢することはできなかった。


「義兄上は、帝都で反乱の指揮をとっているのでさすがに来ることはできなかった。しかし、すでに元皇帝を捕らえて送り返したと急使を送っている。これでわたしたちも近々帝都を訪れることができるだろう。そうすれば、ミキ、きみだけではない。子どもたちもわたしも義兄上に会うことができる」

「モーガン……」


 涙をこらえるのはあきらめた。だから、グズグズと泣きながら笑った。


「さあ、愛する息子たち。念願のお祖父様とお祖母様よ」

「はじめまして」

「はじめまして」


 子どもたちも感激している。もちろん、わたしの両親も。


 子どもたちは、すぐにわたしの両親に抱きしめられ、頬ずりされた。


 モーガンのサプライズは、大成功だった。



 

 モーガンとわたしが投獄されている両親とお兄様、それからわたしの関係者だった人たちを救った。その頃には、帝国民たちの元夫への、というよりか帝国にたいする不平や不満がたまっていた。いつ爆発してもおかしくなかった。


 わたしたちは下準備をした上で導火線に火をつけ、つぎからつぎへと火薬を継ぎ足しただけである。


 たったそれだけで、大国ラジェフ帝国は堕ちた。


 元夫は、断頭台の露と消える。


 そんな状況なのに、彼はわたしに再縁を迫ったのである。滑稽すぎて呆れるよりもかえって笑い話にできる。


 というわけで、わたしたちはそんなクズでバカな元夫の分までしあわせになる。


 血ではなく、太い絆で結ばれている双子の子どもたちとモーガンとわたしの四人で。


 このさき家族が増えると、その子たちもいっしょに……。



                              (了)








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