ヘラクレスオオカブト#1
ミーンミーンなんて可愛らしいものじゃない。ジージーだか、ミ゛ーンミ゛ーンだか、濁った悲鳴の大合唱が爽快に山の中を駆け抜けていく。あの鳴き声はどうやらメスへ向けての大合唱で、女性に選ばれるのはどこの生物でも変わらないとは、理科の先生の話だ。その日の先生は確か合コンでの連敗記録を更新しただかで、やけにしょぼくれていたのを覚えている。あの悲鳴全てがメスと付き合うための声だと思うと、なんだか必死すぎて虚しくなってしまう。暑さと共に体にまとわりついてくるそれも、子供の頃はなんとも思っていなかったのに、理解してしまうと哀れに感じるものだ。
結局壊れていなかったスマホ、周囲もふざけていることはなく、33日目を迎えた8月は俺にだけ異常を突きつけてくる。夏休みも未だに終わらず、この夏休みはいつまで続くのだろう。そればかりが頭の中にいる。そのせいで歩きなれているはずの山道に何度もつまづいて、その度にかっつぁんが訝しげに俺を見やった。
「なー、やっぱ体調悪いんじゃねぇの?今からでも帰るか?」
「考え事してるだけだって……」
「こうちん、そんなに悩むタイプだったっけ?」
「かっつぁんよりは頭回してるさ」
「同じくらいだろ、下の中!!」
カラリと夏のように明るく、そして鮮やかに笑うかっつぁんが、俺に手を差し出す。少々キツい坂道の此処。いつもならかっつぁんと勝負して駆け抜けていき、登り切った頃には二人で息も絶え絶えの場所。しかし今回はボーッとしている俺を気遣ってか手を差し伸べられた。大人しくその手を掴む。豆の潰れた硬い手に滲んだ汗。ずっと古い記憶のかっつぁんの、あのふにゃふにゃした手とは随分変わった。人より高い体温は変わっていない。
「おーい、手汗。てか、相変わらずあっちぃ手だな」
「しょーがねーだろ!それにこんなにあっついんだから手があっちぃのもフツーだろ!…つか、こうちんと手を繋ぐのとかいつぶり?幼稚園ぶりとかじゃね?」
「俺も思った」
「以心伝心じゃん!」とかっつぁんは楽しげに笑った。最近知った言葉なのだろうか。かっつぁんにしては珍しくちゃんと四字熟語の意味があっている。まぁ、下の中なんて言われるぐらいには俺もかっつぁん同様に馬鹿なので毎度毎度、テストではクラス最下位をかっつぁんと争ってデットヒートを繰り広げているのだが。「以心伝心」この言葉を俺が意味もしっかりと知っているのには訳がある。小学生に上がると同時に俺とかっつぁんは野球に夢中になった。部活にも入っていないのにバッテリーを組むと約束して、部活に入ってからは駄々を捏ねまくってバッテリーを組むことになった。サインなんて必要ないくらいには、俺はかっつぁんの投げたい場所が分かっていて、かっつぁんも俺の投げて欲しい場所が分かっていた。サインも出さずに初めて三振を取った試合で、試合が終わった後二人ではしゃいだのだ。「考えてたことが分かった!」叫ぶみたいな喜色に溢れた声を俺は未だに忘れられない。それで誰かが言ったのだ「以心伝心だね」なんて。その言葉がやけに、耳について離れなかったのだ。
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「おっ、見えてきたぞこうちん!!」
懲りずに思考を別に飛ばしていた俺をかっつぁんの快活すぎる声が引き戻した。坂を登り切った先、山の中の少しひらけた場所があった。子供の頃から変わらない俺たちの虫取りスポット。虫網を持って走り回り、成果を見せ合ってははしゃぎあう。「幼稚園生から変わんないねぇ」なんてかっつぁんの姉ちゃんに言われる通り、此処での遊び方もはしゃぎ方も、俺たちは変わっていない。セミとかバッタとかばかりの虫籠にカブトムシがいれば、野生動物かと言わんばかりに叫び散らかして、笑うのだ。まぁ、未だにかっつぁんが大好きなヘラクレスオオカブトはおろか、ミヤマクワガタにも出会ったことはないのだけど。
「昔さぁ、カマキリとバッタを一緒に入れてさぁ、酷いもん見たよな」
「あー、カマキリの残酷さを知った事件な」
かっつぁんが言っているのは、小4の頃の出来事。バッタが4匹くらい入ったかっつぁんの虫籠に捕まえたカマキリを放り込んだのだ。そのまま虫取りを楽しんだが、結果はそれ以上取れず、俺たちは仕方なく今日の成果であるかっつぁんの虫籠を覗き込んだのだ。今ならわかる、なんて馬鹿なことをしたんだろうと。バッタは全員死んでおり、足がもげているのだっていた。カマキリが死んだ1匹を鎌で掴んで、むしゃむしゃと首元を食べている。その光景。まだまだ子供だった俺たちにとって驚くべき光景であり、どちらからともなく尻餅をついた。顔を見合わせると、二人で協力して虫籠の中身を全部その場に放り出して逃げ帰ったのだ。向かい合った時のかっつぁんの顔は、夏だと言うのに真っ青で、きっと多分、俺も同じような顔色をしていたことだろう。
「弱肉強食だよなぁ」
「二度とカマキリとバッタは一緒に入れないって誓ったよなぁ」
ぶるりと体を震わせたかっつぁんに思わず笑った。まだまだ知識も経験もないガキの頃だからこそ感じた恐怖、感覚。逃げ帰った後、母ちゃんにそのことを伝えたら「何当たり前のこと言ってんの」と、ぶった斬られたのを思い出す。あの母はいつだって正論しか言わない。次の日にかっつぁんにそれを伝えれば、かっつぁんの方では「姉貴に散々笑われた」と報告があった。余程堪えたのだろう。あの日のかっつぁんはまぁ、元気がなかった。
苦い思い出を二人で振り返れば、山道で考えていた余計なことが全て無くなって行くような気がした。かっつぁんと笑っているこの世界は、やはり正しいのだと、そんな気がした。
読んで頂き本当にありがとうございました!
更新頻度相変わらずナメクジですが、最後までお付き合いしていただけると幸いです!