狂った時計#2
「…いやー、お調べしたんですけどおかしなところは一つも…。お手数ですが何時ごろおかしかったのか、もう一度教えて頂いてもよろしいですか?」
馴染みのケータイ屋の兄ちゃんが、頭を掻いて首を傾げながらそう告げた。この時点で、俺はもう既に諦めに近い感情が心の中に渦巻いていた。スマホを調べたところで変わったところはなく、むしろケータイ屋の中に置かれているテレビがニュースで「8月32日」をまざまざと突きつけてくる。此処に来るまで俺以外8月32日を否定するものは無い。つまり、異常は俺。この世界の異物は、この違和感は全て俺自身が構成しているのだ。なんの冗談だろう。迫り上がってくる吐き気を抑えるように、胸元を握り込んで無理に笑顔を作って見せた。
「朝見た時、日付がなんか変だったんですけどー…」
何も壊れているものなんてない。俺が壊れている。自覚がない分クリティカルに俺を襲ってくる。顔は青白くなってやしないだろうか。また輝子に心配されるのは少し困るな。ケータイ屋の兄ちゃんは未だにスマホの起動をチェックしていた。
「何もないなら、良かったです」
「この時期暑いですからねぇ、エアコン、夜にはつけてないでしょう?暑くてスマホの挙動がおかしくなることもあるので、仕方ない場合ならともかく、日常的に暑い場所に置くのは避けておいた方がいいかもしれませんね」
そんな注意を受けて俺は店を出た。纏わり付いてくる熱気、けたたましい蝉の声。耳元で泣いているんじゃないかと錯覚するほどだ。音から逸らすように下を向けば、ワンピースから覗く輝子の腕も真っ赤だ。「早く行こ!」と輝子は元気に車に駆け出していく。どうやら次に行くゲーセンが余程楽しみらしい。焼けて湯気が昇っているアスファルトを、知ったことかとサンダルで蹴飛ばしていくその姿が、やけに眩しく見えた。
「珍しいな、お前がエアコン消して寝てるなんて」
「え。…あー、そういえば、そうだ、な?」
俺がエアコンを消して寝ていた?そんな訳が無い。だって俺は生粋の暑がりだ。部活終わりはシャワーでも浴びたんじゃないかってぐらいいつもびしょ濡れで、寝る時だって母ちゃんに何度注意されようがエアコンを消して寝た覚えが無い。寝起きにベタベタで目が覚めるのが嫌だし、そもそも、エアコンをつけて寝なければ暑さで毎夜、飛び起きる羽目になる。今朝だって、確かに涼しい部屋で目が覚めたはずだ。外に一度出て戻った時もエアコンを付け直した覚えがない。…だとしたら、今朝の濡れた体はなんだ?全身水に使った後のように濡れていて、体はベタベタ。だと言うのに、俺は昨夜起きた記憶がない。特段、朝に喉が渇いていることもなかった。
ズキリと頭に激痛が走る。何か変だ。俺は何がおかしい?何を見逃している?グシャリと坊主頭を手で掴んでも性能の悪い頭では結論が出るわけもなく、頭の痛みのみが増すばかり。結局こんな気分ではゲーセンなんて行く気にもなれず、むしろあの喧騒で頭痛が増しそうなので、家の近くでおろしてもらい、俺は一人家に帰ることにした。涼しい部屋で腕で視界を塞ぎ、ベッドの上で脱力していると、急激にスマホが振動と共に「ポコン」と音を鳴らした。スマホを手繰り寄せて画面を起動する。画面にはチャットアプリの通知が入っていた。
「………かっつぁん」
珍しくもないかっつぁんからのチャットだった。スマホのロックを解除してアプリを開く。チャット画面には、俺たちが今までかわしたチャットが、俺たちがガキの頃に撮られた写真の上で繰り広げられている。ボールを片手に持って顔をくしゃくしゃにして快活に笑うかっつぁんと、キャッチャーの防具を着てグローブを突き出し、こちらも同じく快活に笑う俺。これは、初めてバッテリーを組んだ時の写真だったか。俺たちの思い出の写真。と言うこともあってか、これはかっつぁんのチャット画面にも存在している。この頃は、何もかも楽しくて、一生練習していられる夏休みが一生続けと願っていたんだったか。実際に夏休みが続いてしまえば、異様なまでの異物感と不気味さに苛まれるわけだが、この頃の俺に言ったところで1ミリも理解しやしないだろう。画面下部に視線を滑らせば新規メッセージに〈こうちんだいじょーぶ?〉と送られてきていた。どうやら今朝の様子はだいぶおかしかったらしい。まぁ、あのかっつぁんが心配するぐらいだしなぁ、なんて思いつつチャットを返す。鈍感ではあるがあの男、二人の姉を持つ末っ子である。姉貴の機嫌を取らなきゃなんて普段から言ってることもあり、あの男なかなかに気が利くのだ。しかし、それだけ女心を分かっている癖に野球バカで、馬鹿で、鈍感なこともあってモテた試しは無い。残念な男だ。〈だいじょーぶ〉とかっつぁんに習って変換もせずに返信した。
〈ならいーんだけどさ。ねっちゅーしょう、きおつけろよ!」
〈熱中症、な。伸ばし棒多すぎ笑。あと、「お」じゃなくて「を」な〉
〈いーんだよんな事!!それよりさ、明日虫取り行かね?〉
いや良くはないだろ。輝子だってそんなミスしないぞ。しかし、虫取りか。その言葉に沈んでいたと言うのに、思わず笑みが溢れた。高校生にもなって誘うのが虫取りっていうのは、流石かっつぁんと言ったところか。「ヘラクレスオオカブトは男のロマンだ!」と言うのはかっつぁんの段で、日本にはいないと言うのに毎年毎年探しに歩いているのだ。去年も、一昨年も、それどころか幼稚園の頃からずっと、夏休みには虫を、かっつぁんはヘラクレスオオカブトを、俺は俺が男のロマンだと思っているミヤマクワガタを探しに山へ入っていくのだ。だが、今年の虫取りは夏休み初め、部活終わりに「元気だなー」と他の部員に見送られながら行ったはずだ。勿論、今年も惨敗である。
〈またかよかっつぁん。夏休み初めに行っただろーが。それより海いこーぜ、海。こんなに暑いと気持ちいいだろ〉
〈いや!明日こそヘラクレスオオカブトが見つかる気がする!〉
〈日本にいねーってヘラクレス。諦めろ〉
〈ぜってーいるって!なあ頼むよー!!〉
やけに今日は諦めが悪いな。夢でヘラクレスオオカブトを捕まえる夢でも見たんだろうか。こうなるとしつこい。ツーアウトフルカウントの時に、ひたすらファールにしてくるバッター並みにしつこい。実際そうなってもかっつぁんはボールにする気がないので、かっつぁんはそれよりもしつこいが。
〈いーよ、そのかわりアイス奢りな〉
〈マジ!?〉
〈でも、いいや!奢る奢る!ありがとこうちん!〉
送られてきたスタンプはやけに目のキラキラした犬が「ありがとう」と満面の笑みで言っている奴だ。ウチのマネージャーが「これ、アンタに似てる」とかっつぁんにプレゼントしていた奴だった。似ていると言われたのが嬉しかったのか、はたまたそのマネージャーに気があるのか、かっつぁんはよくそのスタンプを使うようになった。事実かっつぁんに似ているので、一発でかっつぁんが返信したのだとわかる。俺も習って「似ている」と今度は俺に送られた死んだ目の猫のスタンプを押した。「しかたがにゃーな」なんてちょっと俺には可愛すぎる気がするけども。かっつぁんも「似てる!」なんて大笑いしていたし、似ているのだろう。女子はよく見ているものだ。
明日は虫取りだ。気合いを入れなければ、あの太陽の擬人化みたいな男に置いて行かれてしまうかもしれない。虫網の準備をしようと、俺は重かった体を動かした。