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第三王女の入学を誘致するために婚約破棄を利用することにした令嬢のお話

「私は真実の愛を見つけた! 子爵令嬢プロデューシア! 君との婚約は破棄させてもらう」


 夕闇も消え、夜の帳が下りた頃。貴族の学園で開催された夜会。華々しくも穏やかな空気に包まれていたその場に、その声は響いた。誰もが驚きの視線を向けてきた。

 わたし、子爵令嬢プロデューシアに向けられたその言葉は、あまりにも会場の注目を集め、場の雰囲気を完全に支配してしまった。

 普通ならば驚き立ち尽くすものなのだろう。悲劇の物語のヒロインであれば、あるいは泣き崩れるのが正しい姿なのかもしれない。

 だが、今のわたしを満たしているのは怒りだった。この場における婚約破棄の宣言が、何もかも台無しにしてしまうことを、深く深く理解していたからだ。

 

 

 

 ここルオマネスク王国では、支配階級の教育に力を入れることで国力強化するという方針がとられている。ルオマネスク王国には特色さまざまな貴族の学園がいくつもあって、貴族の平均学力の高さは周辺国の追随を許さないほどだ。

 学園の充実した王国だけれど、そこに王族が通うことは無かった。王族は王宮で専属の教師から教育を受ける習わしとなっている。他の貴族とは一線を画する高度かつ特別な教育を受けることで、一段上の特権階級であることを示しているのだ。

 

 そんなルオマネスク王国の第三王女サーディミリア。腰まで届くミルクのように滑らかなプラチナブロンドの髪。きらきらと輝く瞳は琥珀色。まだ12歳になったばかりであり、その姿は妖精のようにかわいらしく、好奇に輝く瞳は星空にも例えられた。

 

 サーディミリア王女は芸術方面に優れた才能を発揮した。小説や演劇への理解が深く、特に恋愛ものを好んだ。その熱の入れようは大変なものらしい。専用の書庫を持ち、そこには数々の名作恋愛小説がずらりと並んでいると言われている。舞台にも足しげく通い、それが恋愛ものならば初回公演の予約を決して逃すことはなかったという。しばしば魔道具で姿を変え、平民向けの小劇場にお忍びでやってきて観劇することもあると噂されるほどだった。

 

 今、王国では貴族の学園に通う令嬢と子息の恋物語が流行している。それらの物語をいくつも楽しむうちに、サーディミリア王女は自然と学園に通うことを望むようになった。


 王家は他の貴族とは隔絶した教育を受けることで特権階級であることを示してきた。それは王族の特別さを演出する一方で、貴族との溝を作ることになってしまっていた。

 王位は既に年の離れた第一王子が継ぐことが決まっている。能力の高い第二王子はその治世を支えることが期待されている。

 そんな優れた二人の兄を持つ第三王女サーディミリアに望まれたのは、優れた容姿と芸術の才を生かし、王族と家臣の橋渡しをすることだった。その下準備のため貴族の学園に通うのは理にかなったことだった。

 サーディミリア自身が熱心に何度も希望したこともあり、ついに王は第三王女の学園入学を許可した。

 

 『王国史上初めて王族が通うことになった学園』。その学園は未来永劫、王国史に刻まれることとなるだろう。それは事実上、王国一の学園であることを意味する。

 王国にあるすべての学園は、王女を入学させるべく色めき立った。

 しかし、学園の格と歴史を考慮すると、王女の入学候補は二校にまで絞られた。

 

 一つは、ウィズダマート学園。学問と芸術の教育に力を入れている学園だ。優秀な文官と一流の芸術家を何人も輩出し続けている。王国の頭脳を作り上げていると言われる名門校だ。

 

 もう一つは、ブレンマスール学園。軍事関係と攻撃魔法に関する教育に力を入れている学園だ。優秀な騎士や士官を何人も輩出し続けている。王国の剣と盾を作っている言われる名門校だ。

 

 サーディミリア王女の適性を考えれば、ウィズダマート学園がよいだろう。芸術方面に強い学園なら、彼女の才能はより一層花開くに違いない。

 だがブレンマスール学園なら、将来の国防を担う貴族とのつながりを深めることができる。王族としてこの利点は無視できないはずだ。

 王家家臣は議論を重ねたが、どちらの学園にするかなかなか結論は出なかった。そしてサーディミリア王女の提案により、各学園を視察して決めるということになった。

 

 そうなると次に問題になってくるのは順番である。どちらが先に視察を受けるべきか、二校の首脳陣は少しでも優位を得よう駆け引きを繰り広げたことだろう。

 

 しかし、これはすぐに片が付いた。ウィズダマート学園が自ら先手を譲ったのだ。

 

 ウィズダマート学園の首脳陣は、学園の視察まで至った時点で自校が勝つと確信していた。学問と芸術に優れたウィズダマート学園は何人もの名俳優や一流の芸術家を輩出している。王女の心をつかむのは確実であり、ライバル校に花を持たせる余裕さえあったのだ。

 

 でもそれは、甘い考えだった。

 ブレンマスール学園の視察の後。サーディミリア王女が大絶賛したとの報告が挙がってきたのだ。


 王女の視察に対し、ブレンマスール学園は一大イベントを催した。それは全校生徒参加による模擬戦だった。

 全校生徒を東軍と西軍に分け、平野で行う合戦形式の試合。生徒は士官役を務め、兵士は王国軍から借り受けたそうだ。

 舞台となる平野には、一定以上のダメージを受けた者は気絶して防御魔法で守られる模擬戦用広域魔法がかけられた。治癒魔法士も十分な数を用意してあり、予想外の大けがを負っても対応可能だったそうだ。

 安全性を重視した措置を整えているとはいえ、大人数がぶつかり合う実戦形式の試合は大変な迫力があったことだろう。

 でも王女はその迫力に圧倒されたわけではなかった。乙女の心を最も震わせるのは、激しい戦いではなく、その戦いを形作る物語なのだ。

 

 ブレンマスール学園は、この模擬戦に物語を仕込んだ。

 東軍の大将である貴族子息と、西軍の大将である貴族令嬢は、婚約者同士だったのである。つまり愛し合うものが敵味方に別れて戦ったのだ。

 模擬戦の決着がついた後、エキシビジョンマッチとして大将同士の一騎打ちが行われた。西軍の大将を務めた令嬢が勝利し、倒れた婚約者を抱きしめるという演出まであった。これが王女の心を打ったのである。


 愛する者が別れて戦うという王道展開。実戦さながらの大規模模擬戦の迫力。そして一騎打ちで愛する者にとどめを刺さなければならないという悲しい結末。

 筋立ては簡単なものだ。だがそのシンプルさゆえに、誰の胸にも響く物語だ。ブレンマスール学園はなかなかどうして、話のつくり方をわかっている者がいるようだ。

 

 武力に重点を置くせいか、ブレンマスール学園は脳筋と評する者も少なくない。でもそれは浅慮と言わざるを得ない。

 ブレンマスール学園は、軍の中枢となる優秀な士官を輩出してきた名門だ。武力と言うものは優秀な指揮官がいて初めて最大の力を発揮できるものなのであり、ブレンマスール学園を卒業した者の多くが軍部の頭脳として活躍するのだ。一流の武人と言うものは腕力ばかりではなく、智謀にも優れていなくてはならないのである。

 

 この予想外の事態にウィズダマート学園の首脳陣は頭を抱えた。

 ウィズダマート学園も視察に備えて様々な準備を整えてきた。学園卒業者の舞台俳優や芸術家に訪問してもらう手配もしてあった。

 だが、ブレンマスール学園が見せたのは本物さながらの物語だ。その興奮冷めやらぬ王女がウィズダマート学園に訪れたとして、果たしてかの学園の視察を上回ることができるのか。

 

 教師陣に学園生徒会役員に各部の部長。学園の上層部をそろえた視察の企画会議が執り行われた。妙案は無いものかと誰もが頭を悩ませた。

 そこに、ウィズダマート学園演劇部部長であるこの私、子爵令嬢プロデューシアは、高々と声を上げた。

 

「我が演劇部に秘策があります! 演劇『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』ならば、必ずや王女の心をつかむことができるでしょう!」

 

 演劇『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』。

 一言で言えば、観客参加型の演劇だ。

 学園で執り行われる夜会。実際の夜会を舞台に、王女をヒロインとする。主要な登場人物を我が演劇部員の精鋭が演じ、学園の生徒たちをモブとして、恋愛ものの一場面を作り出す。現実の学園生活から地続きで乙女の夢を実現させる、大胆かつ野心的な企画なのだ。

 

 もともとこれは、入学直後の王女にサプライズとして仕掛けるつもりの企画だった。以前から長期間にわたって秘密裏に準備を進めてきたものだ。

 だがこの企画、実行には学園の教師陣の許可が必要だ。さすがに相手が王女様となると、学園に無許可のゲリラ公演は危険すぎる。不敬罪を問われれば、演劇部の存続はおろか家の取り潰しすら有り得るのだ。


 この企画に対し、頭の固い教師陣をどう了承を取り付けるか機会をうかがっていた。

 そんな時に舞い降りた学園のピンチは、演劇部にとって大きなチャンスでもあった。これを逃す手は無いと提案したのである。

 何としても王女を誘致しなくてはならないという差し迫った状況。そこにもたらされたのは、時間をかけて練り上げられたインパクトのある企画。学園の教師陣にとって、さながら地獄に垂れてきた蜘蛛の糸に見えたことだろう。会議に集まった教師たちは表面上は難色を示しながらも、この企画を受け入れてくれた。各部の部長も見せ場を取られたと渋い顔をしていたが、代案はないようだった。幸運の女神は我が演劇部に微笑んだのである。

 

 『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』は恋愛ものの導入部をモチーフとした。王女がヒロインとし、学園への入学を誘致することが目的だ。それには恋愛小説の導入部が最適だった。学園の夜会に訪れた王女に、我が演劇部選りすぐりのイケメンたちが恋愛小説さながらの甘いセリフでアプローチしまくるのだ。たとえ王族であろうとメロメロとなることだろう。

 やりすぎて王女の怒りを買った時は、全力で謝る。そのために土下座の練習もじっくり行った。事前のテストとして学園長に試してみた。演劇部全員による一糸乱れぬ整然とした土下座を前にして、学園長は事前に何をするか聞いていたというのに、腰を抜かして驚いた。この威力ならば王族であろうと怒りを引っ込めることだろう。こういう時は相手をドン引きさせた方の勝ちなのである。

 

 学園の生徒の大半にはその内容を伏せた。舞台経験の無い生徒に演技力は期待できず、逆に足を引っ張られることになりかねない。「夜会で演劇部がなにかやる」という噂だけを意図的に広めた。そうすれば、夜会で演劇部の活動を邪魔する者も少なくなるだろう。

 それでも学園内の各派閥のリーダーには概要だけ伝えておいた。この辺はきちんとしておかないと後々困ることになる。根回しは大事なのである。

 

 劇場の舞台ではなく夜会の場だ。想定外の事態が起こり得る。そもそもサプライズとして仕掛けるのだ。何も知らない王女がどんなりアクションを返すか予想しきれるものではない。そうなると現場の役者が臨機応変に対応しなくてはならない。だから即興劇を重点的に練習して、応用力の強化に努めた。

 

 そうして入念に準備を整え、遂に夜会の日を迎えた。

 演劇『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』を仕掛けようとしたその瞬間。

 私こと演劇部長プロデューシアは、婚約破棄を宣言されてしまったのだった。

 

 

 

 怒りに燃えながらもわたしはどうにか理性を手放さずにいた。

 婚約破棄の宣言を受けてしまった。それはもう起きてしまったことだ。それならばすべきことは現状の把握だ。

 

 そっと胸元のブローチに手を当て、魔力を込めた。このブローチは念話の魔道具だ。演劇部員全てが同種の魔道具を装備しており、魔力を込めて念じれば、声に出さずに会話することができる。

 念話の魔法は高度なものだ。この魔道具にしても通話範囲は100メートルに満たないし、あまり複雑な会話もできない。それでも『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』の流動的な状況に対応するには必須な魔道具だった。

 更に、集音の魔道具をつけた演劇部員が王女の近くについている。これは念話の魔道具を通して王女の音声を伝えることができる優れものだ。王女の発言は演劇部員全員が共有できるようになっているのだ。

 胸元のブローチに魔力を込めて耳を澄ますと、王女の声が聞こえてきた。

 

『婚約破棄……! 学園の夜会で宣言される正統派の婚約破棄……! まさかこの目で見ることができるなんて思いませんでした!』


 なかなな興奮していらっしゃる。

 王国で流行している恋愛ものの物語において、婚約破棄は最高ランクに君臨する人気ジャンルだ。恋愛ものが好きな王女が興奮するのも無理はない。

 

 夜会を舞台とした演劇でも、婚約破棄を取り入れようという案は出た。だが王女をヒロインとする都合上、さすがに無理があるということで却下された。

 だから恋愛小説の出だしを再現することにした。そのために演劇部員の中でも整った顔立ちの者を選び、最高のメイクを施し次から次へと王女にアプローチさせるつもりだった。王女の受け答えに応じて物語のパターンをいくつも用意し、わたしは演出家として後方から全体を見て演劇部員に指示を出すつもりだった。

 

 だがその計画は破綻した。すべて台無しにされた。だから怒らずにはいられなかったのだ。

 再び燃え上がりそうな感情を抑えつつ、わたしは更に頭を回転させる。まずはこの婚約破棄の登場人物を把握しなくてはならない。

 

 まず、わたしの婚約者である伯爵子息ミナパルト。

 ブロンドベージュのさらりとした髪に緑のつぶらな瞳。顔の作りはそれなりに整っているが、美男美女の揃っている貴族の学園において際立って目立つほどではない。

 成績は上の下といったところ。魔法の実技も並程度。目立った欠点は無いが、目を引く印象的なところもない。我が婚約者ながら、舞台劇なら主人公の友人の一人くらいの役どころしか与えられない感じの男だった。

 そんな彼だが、今宵は金糸をふんだんに使った高級そうな式服を身に纏っていた。目立たない彼だが、やはり貴族のご子息だ。様になっている。

 彼との婚約関係は可もなく不可もなかった。義務以上の付き合いはしていない。仲がよかったとは言い難いが、こんなことになるほど不仲でもなかったはずだ。どうしてこんなことに。

 

 次に、伯爵子息ミナパルトの横に寄り添う令嬢へと目を向けた。

 男爵令嬢ミースリディア。ふわりと波打ち、肩まで届くレッドブラウンの髪。やや垂れ目でおっとりとした印象のある、淡褐色の瞳。整った顔立ちだが、綺麗と言うより穏やかで、母性的な感じだ。豊かな胸もその印象を強くさせる。

 普段は穏やかな微笑みを絶やさず、学園内の子息からは癒し系の言われて人気がある令嬢だ。若草色のドレスは装飾も控え目で、おとなしそうな彼女にはよく似合っていた。

 そんな彼女だが、どうもそそっかしいところがあるようだ。ここ最近、何もない廊下で転んだり、階段から落ちそうになったのを何度も見かけた。転んで噴水に落ちることもあった。

 癒し系と言われる割にはあぶなっかしい。あるいはそれが、貴族子息の目を集める理由なのかもしれない。

 

 そして、わたしこと子爵令嬢プロデューシア。演劇部の部長を務め、演出家として活動している。

 すこし暗めのアッシュブロンドの髪は、肩の高さで切りそろえている。切れ長の瞳の色は紅。顔立ちはそこそこ整っている。と、思う。

 いつもしている四角いメガネは、知的で冷たいという印象を持たれがちだ。でもどちらか言えば熱くなりやすい性格で、親しくなると「思ってたのと違う」と言われることもしばしばだ。

 今日の装いはブラウンを基調としたシックで上品なドレスだ。演出家として後方支援するのだから、地味で目立たないものを選んだ。夜会の参席者の視線を集める中、場違い感が凄い。

 やはり自分は舞台に立つのには向いていない。どうしても配役するとしたら、せいぜい悪役令嬢の取り巻きあたりがいいところだろう。

 

 ミースリディア嬢はともかく、わたしと婚約者のミナパルト様は舞台のメインを張るには少々力不足と言った感じだ。

 王族の参席する夜会などと言う大舞台で、婚約破棄を宣言する――とてもそんな大役が務まるキャスティングには思えない。

 しかし実際に婚約破棄は宣言されてしまった。もはや取り返しがつかない。

 これが他のトラブルならば、対応は学園に任せて予定通り『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』を強行することもできたかもしれない。

 だが婚約破棄だけはだめだ。恋愛ものでも最大級の人気ジャンル。これをスルーして恋愛小説のオープニングなどできるわけがない。


 状況を把握し、私は腹をくくった。このまま進む。それしかない。

 胸元のブローチに魔力を込め、念話で演劇部員全員に通達した。


『演目変更。わたしをヒロイン役とした婚約破棄とします。終了までわたしは念話不能。細かなことは各自判断に任せます。それでは、幕開けです』


 ざっくりとした指示を念話で送ると、部員からの念話を遮断した。舞台は動き続けていて、私はその中心人物の一人だ。細かな指示はできないし、反論を受け付ける余裕もない。


 婚約破棄の宣言によって準備していた演目がダメになってしまった。目の前の二人にその責任を取ってもらうのが筋というものだろう。


 ――この二人の一世一代の婚約破棄は、王女を楽しませる恋愛劇の一幕になってもらう。

 

 そう覚悟を決めた。決めはしたものの、わたしは演出家であり、演技力は並以下だ。演技を指導することはあっても、舞台に立った経験はほとんどないのだ。それでも何をどう演じるべきかはわかる。今は足りない技術には目をつむり、勢いで押し切るしかない。

 

「いきなり婚約破棄なんてひどすぎます! わたしのどこが不満だったというのですか!?」


 精一杯の悲しみを込めて、婚約破棄を告げられた令嬢らしい悲しみの声を上げた。実際泣きたい気分だった。この婚約破棄の宣言のせいで、用意していた台本や仕掛けがほとんど無駄になってしまったのだ。本当に涙が出てきた。

 

 わたしの演技と本気の悲しみが入り混じった声を受け、しかし、伯爵子息ミナパルトはひどく冷めた顔をした。

 

「定例のお茶会を何度となくすっぽかした君に対し、私がなんの不満も持たなかったと思うのかい?」

「それは……なんて言うかすみません」


 思ったより真っ当な回答が返ってきて、思わず素で謝罪してしまった。

 ここ数か月は『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』の準備に注力していた。そのせいで定例のお茶会に出る暇もなかった。最後にお茶会をしたのはいつだったか、ちょっと思い出せないくらいだ。

 わりとまっとうに婚約者失格だった。このことについては確かにわたしに非がある。でもだからと言って、それだけで婚約破棄を宣言されるのは理不尽過ぎる。

 

「確かに私は婚約者としての義務を怠っていたかもしれません。でもだからと言って、いきなり一方的に婚約破棄を宣言なされるなんて、あんまりです!」

「君には婚約を破棄されるだけの理由がある! 自分の胸に手を当ててよく考えてみるといい!」


 妙に確信の籠った言葉だったので、言われるままに自分の胸に手を当ててみた。

 そう言われても、定例のお茶会をすっぽかした以外に思い当たることは無い。正直、ミナパルト様はわたしにとって印象の薄い存在だった。『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』の準備でわりと本気で存在そのものを忘れかけていた。……我ながらちょっとどうかとは思う。ミナパルト様が指摘しているのはそういうことなのだろうか。

 ふと、ミナパルトに寄り添う男爵令嬢ミースリディアの姿が目に入った。

 すると、あることに気づきハッとなった。

 

「どうやら気がついたようだな」


 ミナパルト様は皮肉気な笑みを浮かべた。

 胸に手を当てて否応なく意識させられた。わたしの身体つきはスレンダーだ。胸元は極めておだやかな美しいラインを描いている。男性のいやらしい目を引くことのない、清く慎ましい胸元なのだ。

 

 それに対してミースリディアの胸元は豊かだ。わずかな動きでも複雑に揺れ動き、その圧倒的な質量を主張してくる。彼女を見かけた学園の貴族子息の視線はまずそこに向かう。彼らは気づかれないようにしているつもりのようだが、女性にはそういう視線がわかってしまうものなのである。

 

 身体的な特徴の違いは認めざるを得ない。それにミナパルトが惹かれたことも、まあ理屈としては理解できる。

 だがそれを、公衆の面前で、それもわざわざ胸に手を当てて意識させるとはなんとひどい男なのだろう。

 これほどの恥辱を味わされたことは生まれて初めてだ。憎しみを込めてミナパルト様を睨みつける。彼はわたしのことを見下すように皮肉気な笑みを深めた。


「君がこのミースリディアに嫌がらせをしていたことは全てわかっているのだ!」


 いきなり婚約破棄のテンプレなセリフをぶつけられ、思わず目をぱちぱちさせてしまった。

 なんでこんなことをいきなり言い出すのだろう。そういう流れだったのだろうか。


「な、なんのことですか……?」

「今更とぼけるんじゃない! 廊下で足をかけて転ばせたこと! 階段で突き飛ばしたこと! 肩を押して噴水に落としたこと! ミースリディア嬢にした様々な嫌がらせのことは、すべてわかっているんだ!」


 どうやら胸の話ではなかったらしい。胸に手を当てろと言うのは、我が身を顧みて罪を自覚しろと言うことだったようだ。とんだ思い違いだ。先ほどとは違う恥ずかしさを感じ、顔が火照った。


 でも、ミースリディア嬢への嫌がらせというのは心当たりがない。彼女は違うクラスの生徒で、ろくに会話したことすらない。婚約破棄の宣言を受けるまで、ミナパルト様と彼女のつながりすら知らなかった。嫌がらせをする理由すらないのだ。

 

 すぐに言い返そうと思ったが、ちょっとひっかかることがあった。

 廊下で転ぶ。階段を踏み外す。噴水に落ちる。

 ミースリディア嬢のそんな有様は、ここ最近よく見かけた。ずいぶんとそそっかしい令嬢だと思っていた

 そこで閃いた。もしあれが、「意図せぬ事故」ではなかったとしたら。

 

 思わずミースリディア嬢の顔を見た。その口元には癒し系の令嬢と評判の彼女には似つかわしくない、邪な笑みが見えた。

 

 ミースリディア嬢は、わたしの前でわざと転ぶことによって婚約破棄の理由をでっちあげた……そんなバカバカしい話のなのだろうか。そんなことがありうるのか。


「証拠はあるのですか……?」

「証拠など必要ない! ミースリディアの言葉と、今見せた君の憎しみの目! それだけで十分だ!」


 戸惑いながら問いかけると、ミナパルト様は聞く耳を持たずに切り捨てた。

 信じられなかった。あんな稚拙な工作をミナパルト様は信じているのだ。恋は人を愚かにすると言うが、いくら何でも愚かになり過ぎなのではないだろうか。

 雑過ぎる。なによりベタすぎる。これでは王女も呆れてしまっているかもしれない。心配になり、胸のブローチに魔力を込めて王女の反応を探った。

 

『見ましたかメードナ! あの貴族子息、証拠もなしに浮気相手を信じています! なんて基本に忠実な展開でしょう! これは先が読めても先が気になりますね!』


 王女はどうやらお付きの侍女メードナに話しかけているようだ。かなり興奮されているご様子。こんな使い古された展開でいいのだろうか。

 いや、違う。たとえどれほどありふれた展開でも、観客が喜ぶなら王道と呼ぶのだ。そのことを忘れて王道を外れることばかり意識すると、かえって物語の質は下がってしまうものである。

 

 ならば期待された通り、この展開に乗るしかない。

 相手は証拠もないのに言いがかりをつけてきたのだ。上手く切り返してマウントを取るのが婚約破棄のお約束の展開だ。あんな雑な工作なら簡単にひっくりかえせるはずだ。

 

 相手はわたしの前で勝手に転んだだけである。そのことを主張するだけでいい……そこまで考えたところで、この状況の打開が意外と難しいことに気づいた。

 

 わたしは誓って、ミースリディア嬢を意図的に転ばせたことなどない。彼女が私の近くで勝手に転んだだけである。だが果たして、誰がそれを証明できるだろうか。

 人の目を引くのは転んだあとのことであり、転ぶ瞬間を注視している人間など限られる。多くの生徒にとって、「転んだミースリディア嬢の近くに演劇部部長プロデューシアがいた」という事実だけが記憶に刻まれているはずだ。

 

 周囲に助けを求めたら、無罪を信じてくれる者と犯人と疑う者に分かれるだろう。どちらが正しいかは水掛け論になる。そんな中、ミナパルト様がわたしの罪を主張すれば、そちらに周囲の意見が引きずられる可能性が高い。

 

 物語では、録画の魔道具に記録が残っていたり、あるいは記憶を映し出す魔法とかで無実を証明できる。だがあいにく、そんなに都合のいいものは無い。

 陥れたい相手の前で何度も転ぶだけという、単純かつ雑な工作で追い詰められることになるとは思わなかった。バカバカしすぎて目眩がする。これが舞台の台本ならリテイクを要求するところだ。だが残念ながらこの舞台は進行中であり、この展開を没にして最初からやり直すことなどできない。

 

 このまま泣き崩れ、悲劇の令嬢としてひとまずこの場の幕を下ろすしか手はないのか。そう、あきらめかけた時の事だった。

 

「ちょっと待っていただきたい!」


 会場中に響き渡るような、鋭く勇ましい声と共に、一人の貴族子息が現れた。

 

 照明の光を跳ね鮮やかに輝くブロンドの髪。凛とした碧の瞳。すらりとした長身にまとうのは金糸で縁を彩られた式服。要所にはエーデルワイスの花をモチーフにした刺繍で上品に飾られている。

 よく通る声もその堂々とした歩みも、まるで舞台の俳優さながらだ。


「まあ! レディクトール様よ!」

「きゃあ、目が合ってしまいました! 恥ずかしいですわ!」

「なんて素敵なお姿! さすがは学年一の貴公子と謳われるお方だわ!」

「え……確かに素敵な装いだけど、レディクトール様ってそんなに騒がれるほどのお人だったかしら……?」


 称賛の声と、わずかな戸惑いの声が入り混じる。

 彼は子爵子息レディクトールだ。彼は我が演劇部員であり、二学年下の後輩だ。まだ入部一年あまりではあるが、顔立ちが整っていてスタイルがよかったので、王女にアプローチするヒーロー役の一人として抜擢された。

 

 彼を称賛する声は演劇部員のものであり、戸惑いの声は事情を知らない一般生徒のものだ。だが後者はすぐに消え失せた。この日のために高いお金を払って取り寄せた最上級の貸衣装を纏い、演劇部の化粧担当によって最高のメイクを施された彼は、まさに恋愛小説の登場人物そのものだった。そこに演劇部部員の賞賛で彩られれば、もう疑う者などいなくなる。

 

 実にいいタイミングで割って入ってきてくれた。だが意外な人選だった。レディクトールは練習熱心で覚えもいいが、それでも主役を張るにはまだ力不足な印象だった。

 この想定外の状況の中、もっと経験豊かな上級生の演劇部員が来るものと思っていた。他の演劇部員たちの間でどういう相談があったか気になるところだったが、念話の魔道具で聞くわけにもいかない。今は事態の動向を見極めなければならなかった。


 レディクトールはミナパルト様たちから私を守るように立った。


「私は子爵子息レディクトール! ミナパルト殿! あなたのあまりに一方的で紳士らしからぬ発言を見過ごせず、ここに参上した!」

 

 手を振りかざしながら決然と言い放つ。動作も言葉も実に決まっている。まるで愛する姫を守るため敵に立ち向かおうとする騎士のようにかっこいい。まだ主役は早いかと思っていたが、ちょっと評価を改めた方がいいかもしれない。

 

 突然の闖入者に対してミナパルト様は大きく狼狽した。

 

「と、突然なんなのだ……それに、紳士らしからぬとはどういうことだ!?」


 戸惑いながらも問い返すミナパルト様に対し、レディクトールは鋭い眼光を向けた。


「貴殿はプロデューシア嬢が婚約者としての義務を怠ったと言った。だが私に言わせれば、義務を怠っていたのはあなたの方だ!」

「な、なんだと……!?」

「プロデューシア嬢は演劇部の活動のためお茶会の席に出られなかった。だがそれは、学問と芸術を重んじるウィズダマート学園において称賛されるべき立派な行いだ。婚約者ならば、そのことを理解して婚約者を応援すべきだった。お茶会に現れないのなら、部に出向いて様子を見るくらいはしてもよかったはずだ。そんな当たり前のこともやらずに他の女に(うつつ)を抜かすとは、紳士失格と評するほかない!」


 レディクトールの毅然とした堂々とした言葉を受け、ミナパルト様は歯噛みするしかなかった。

 実際はわたしがお茶会をサボっていただけなのだ。でもこの状況は、何て言うか気分がいい。理解のあるイケメンにフォローしてもらうのってこんなに気持ちがいいことなのか。恋愛もののヒロインはこんな気分を味わっていたのだろうか。

 これは演劇でありレディクトールも役を演じているだけに過ぎないとわかっているのに、なんだか胸がときめいてしまう。我ながらちょっとチョロすぎる。


「だがプロデューシアは、私のミースリディアに何度も陰湿な嫌がらせをしたのだ!」


 ミナパルト様は顔を真っ赤にして反駁した。言われっぱなしになってしまったのが相当腹に据えかねたようだ。

 レディクトールは動じることなく問い返した。

 

「証拠はあるのですか?」

「必要ない! 私はミースリディアのことを信じる!」

「ふむ……」

 

 そう言うなり、レディクトールはいきなりわたしの顔を覗き込んだ。

 メガネに触れそうなほど顔が近づく。『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』のために完璧にメイクされた美しい顔が、メガネに触れてしまいそうなほど近くにある。

 澄んだ碧の瞳は宝石のようだった。心臓が高鳴った。


「い、嫌ですわレディクトール様……」


 そう言いながら後ずさった。ここでときめいて見つめ合ったりしたらダメだ。人によって意見は違うが、わたしは婚約破棄のヒロインは貞淑であるべきだと思う。あんまり惚れっぽいのはだめだ。

 レディクトールは「おっと、失礼」などと言いながら身を引いた。気障な仕草なのに優雅でかっよく見えて、わたしはなんだか悔しい気持ちになる。一方的にドキドキさせられるのってこんな気分になるのか。勉強になった。

 そしてレディクトールは再びミナパルト様たちの方に目を向けた。

 

「私からすればこんな美しい瞳をした令嬢がそんな薄汚いことをしたことこそ信じられない。何かの行き違いがあったのではないでしょうか? 例えば……そこの彼女が偶然転んだのを、プロデューシア嬢がやったのだと思い込んでしまったとか……?」


 レディクトールは意味深に問いかけた。まるでミースリディアの転んだ瞬間を見たことがあるかのような口ぶりだった。

 ミースリディアがびくりと震えた。少しは後ろめたい気持ちもあるのかもしれない。

 そんな彼女をミナパルト様は抱きしめた。

 

「私はミースリディアのことを信じる! 私達の間には真実の愛があるのだ! それだけは、誰にも否定させない!」


 悲壮感すら漂わせてミナパルト様はそんなことを言った。

 ちょっと反論されたからと言って、そんな悲劇の主人公みたいな態度を取らないでほしい。

 呆れる気持ちを抑えながら、眉を下げ、悲し気に顔を伏せた。婚約破棄されたヒロインとしては、他の令嬢と仲睦まじくする婚約相手を見て悲しみに暮れるべきだ。

 すると、レディクトールにはわたしの腰に手をまわすと、ぐっと抱き寄せた。


「ならばプロデューシア嬢は私がいただく!」

「な、なんだと!?」


 驚くミナパルト様をよそに、レディクトールは腰に手をまわしたばかりかわたしの手までとった。

 そしてわたしたちは見つめ合った。レディクトールの目は演技とは思えないほどに真剣だった。


「彼が他の令嬢を取るというのなら、もはや我慢する理由がない。ずっと前から愛していた。どうか、私のものになってほしい」


 顔が真っ赤になった。心臓の鼓動がどうしようもなく高まった。

 婚約破棄直後にイケメンが強引にヒロインを略奪する。そういう恋愛小説は何冊も読んだし、いくつもの舞台劇で見てきた。レディクトールはそういう筋書きで動いているということはわかっている。

 腰に手をまわされるのも手を取られるのも社交ダンスで慣れている。別にいまさら意識するようなことでもない。

 全部わかっていることのはずだ。それなのに心臓が高鳴って仕方ない。顔が熱くなる。汗がどんどん出てくる。まるで制御できない。

 

 レディクトールはわたしの耳にそっと顔を寄せて、小さな声で囁いた。耳に息がかかる感触にびくりと身が震えた。

 

「……部長、これからキスの芝居をします。もちろん実際に触れたりはしませんのでご安心を。リードするのでうまく合わせてください」


 ……すっと冷静になった。

 そう、これは劇。実際の婚約破棄と言う状況を劇に仕立て上げるための演劇だ。キスの芝居をするのなら、事前の確認は必要だ。

 わかっていたはずなのに、裏切られた気持ちになるのはなぜなのだろう。

 いや、そんなことはどうでもいい。王女を感動させるいい演劇にしなくてはならない。

 そこで閃いた。

 

「いえ、本当にキスをしましょう。第三王女の前でする特別な演劇なのですから、それぐらいは当然です」

「じょ、冗談言わないでください……!」


 レディクトールの声に動揺が見られた。なんだか一矢報いた気分だった。

 でもこれはとてもアイディアだと思った。演劇のためならキスの一つや二つ、なんてことはない。


「変なことを言わないで、うまく合わせてくださいね。僕がリードします」


 これ以上会話していては不自然になる。レディクトールはそう告げると、顔を離した。

 二人で見つめ合う。レディクトールはすっかり演技に戻ったようだ。わたしのことを本気で愛しているかのように、情熱的な目で見つめている。

 それを見て確信する。ここまで盛り上がったこの場面。やっぱり本当にキスをすべきだ。

 

「プロデューシア……」

「レディクトール様……」


 お互いの名を呼び合う。そしてぐっとレディクトールは顔を近づけてきた。彼の熱い吐息がかすめ、メガネが少し曇った。

 レディクトールはわたしを隠すように抱き込んだ。わたしの方が背が低いから、こうされると周りから顔がほとんど見えなくなる。それでキスの演技をすれば、周囲からは本当にキスしたように見えるだろう。

 

 わたしはキスには詳しい。恋愛小説でキスシーンをいくつも読んできたし、実際にキスをする舞台だって何度も見たことがある。キスなんてたいしたことではない。演劇のためなら唇ひとつをささげることなど何のためらいもない。


 レディクトールの顔が近づく。恥じらうようにそこから顔を逃がす。焦ったようにレディクトールはその動きを追う。そこでわたしは反転して、迎え撃つように唇を重ねた。

 

 唇と唇が触れ合う。ただそれだけのことだ。ほっぺや額への口づけなら、家族とはあいさつ代わりにしている。慣れたものだ。

 

 そういうものとはまるで違った。種類が違った。質が違った。

 伝わる熱。濡れたやわらかな感触。味。重なりあう息遣い。何もかもが熱くて甘くて狂おしかった。

 全身が痺れた。唇から伝わる甘い何かがわたしの身体をどうしようもなく痺れさせた。

 初めての経験だった。キスがここまで衝撃的なものだなんて知らなかった。わたしはいったいなにをやっているのだろうか。今更そんな疑問が頭の中に浮かび上がってきた。

 

 でも触れていたのはほんの数秒に過ぎなかった。レディクトールはすぐに離れた。

 再び見つめ合った。レディクトールは顔を真っ赤にしていた。わたしの顔も負けないくらい真っ赤になっていることだろう。

 恋愛劇の主人公とヒロインの顔ではなかった。もはや二人とも、演技が不可能な状態になっていることを覚った。

 ためらわず、胸元のブローチに魔力込めた。念話の魔道具を通じて演劇部員全員に指示を飛ばした。

 

『演劇部員全員に次ぐ。幕を引きます』

 

 そうして演劇部員たちは一斉に動き出した。

 まだ自分のやってしまったことを呑みこめていなかったが、身体は事前に練習した通りに動いてくれた。

 部員全員で第三王女サーディリミアの前に整列した。部員が高々と横断幕を広げる。

 そこには演劇のタイトルが書かれている。


「この婚約破棄は、ウィズダマート学園演劇部による演劇『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』でした! お楽しみいただけたでしょうか!?」


 部を代表して叫んだ。第三王女サーディリミアは驚きに目を見開いた。だがすぐに、にっこりとした笑顔を見せてくれた。

 

「……なんと、これは演劇だったのですね。さすがは噂に名高いウィズダマート学園の演劇部です。お見事です。とても楽しめました」


 わっと声が上がり、会場の生徒みんなが割れんばかりの拍手をしてくれた。

 いろいろと予想外のことが起きたが、どうやら成功したようだ。

 割れんばかりの拍手の中でも、わたしの耳には心臓の音の方がうるさく思えた。心臓が高鳴って仕方なかった。




 第三王女サーディミリアの視察は一週間続いた。

 演劇部は初日の夜会で演劇『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』を公演した。あとは卒業生の舞台俳優が訪れた時、接待の席に呼ばれたぐらいだった。教師陣は忙しそうにしていた。

 そして王女の視察の最終日。わたし子爵令嬢プロデューシアは、王女からお呼び出しを受けたのだった。

 

「失礼します」

「ようこそいらっしゃいました」


 学園の応接室に入ると、席に着いた第三王女サーディミリアの笑顔に迎えられた。

 部屋の中には他には王女付きの侍女が一人に騎士が一人。王女の護衛としては少ない。王女からの招待の手紙には、演劇『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』について話したい、とだけ書いてあった。これだけ人払いするということは、個人的な事情のようだ。学園長といっしょにお叱りを受けるみたいなことではないようで、少しだけ安心した。

 無礼にならないように注意しながら、慎重に席に着いた。

 

 間近で改めて目にした第三王女サーディミリアは本当に綺麗だった。腰まで届くプラチナブロンドの髪は滑らかで、まるで絹のようだった。琥珀色の大粒の瞳も宝石のように美しい。無垢で可憐でかわいらしい少女。だがその身にまとう気品は、学園の貴族にもなかなか見られないものだった。

 こんな高貴な少女が婚約破棄の場ではあんなにはしゃいでいたのかと思うとなんだか不思議な気持ちになる。もっと子供っぽい方かと思っていた。

 

 侍女が用意してくれた紅茶に王女が口をつけた。それに続いたわたしも紅茶を口にする。いい香りに緊張がほぐれる思いだった。

 そのタイミングを見計らったように王女は口を開いた。


「今日は突然お呼び出しして申し訳ありませんでした」

「と、とんでもないことでございます。お呼びいただいて光栄の至りです」

「ふふ、そんなに堅苦しくなさらなくてもいいのですよ。これから学友になるのですから、もっと肩の力を抜いてくださいな」

「はい、ありがとうございます」


 曖昧にうなずいておくだけにする。言われるままに気を抜くことはできない。不敬罪はシャレにならないのだ。

 ごまかすように紅茶に口をつける。少し落ち着いたところで、先ほどの王女の言葉に含まれた、ある一言が気にかかった。

 

「あの……『これから学友になる』とおっしゃったように聞こえたのですが……?」

「はい、言いました」

「え? もう入学する学園をお決めになったのですか?」


 王女は二つの学園の視察をしてから入学する学園を決めるはずだ。視察の最終日に既に入学を決めているとはずいぶんと気が早い。

 王女は不思議そうに小首をかしげた。さらりと流れるプラチナブロンドの髪が美しい。王族というのは何気ない動作も様になるのだなあ、なんて思わず感心してしまう。やがて何に気づいたのか「ああ」と言葉を漏らし、一人頷いた。

 どういうことなのだろうか。その疑問を察したように王女は語り始めた。

 

「学生である貴女はそういう認識なのですね。確かに表向きは視察によって入学する学園を決めると知らせてしました。でも初めから、このウィズダマート学園へ入学することは決まっていたのです」

「え? どういうことなのでしょうか?」

「私は学問と芸術に向いているという評価をいただいています。当然、支持してくださる派閥の中心は文官です。彼らは王女が軍部と癒着することに危機感を抱いています。軍部に強いつながりを持つブレンマスール学園への入学は、最初からありえなかったことなのです」

「では、どうして視察などをなさったのですか?」

「王国に並び立つ二つの名門校。国民はどちらになるかと予想を争わせていました。それで視察すらせずに入学する学園を選べば、要らぬ憶測を生むことでしょう。視察はそれを避けるための方便のようなものです」


 学園への入学を夢見る第三王女サーディミリア。そんな小説や演劇のような、夢のある話に思っていた。だが王族と言うものは国を背負う責務を持つ。自由なんてほとんどない。

 自分の意思で学園を選べるはずがない――言われてみれば当たり前の話だった。

 だが、どうにも不安になってきた。随分と深い事情について聞いてしまっている気がする。


「あの……これはわたしが聞いてしまっていいお話だったのでしょうか?」

「特に秘密にしているわけではありません。これは周知の事実です。学生の身とは言え、貴女も貴族令嬢ならすぐに知るはずのことです。何も心配することはありません」


 王女は紅茶を口にしながら当然のように言った。とても年下の、それも12歳の少女とは思えない落ち着いた思慮深い語り口だった。王家は貴族の学園とも異なる一段上の教育を受けていると聞いていた。その違いと言うものを目の当たりにした思いだった。


「ブレンマスール学園は視察に随分と力を入れていたと聞いています。それが無意味だったとは、なんだか悲しいものがありますね」


 ふと、そんな言葉が口と衝いて出た。ブレンマスール学園は視察において、大規模な模擬戦を行った。しかも王女の好みに合わせて物語を仕込んでいたという。その努力と工夫には一目置いていた。

 王女が初めからブレンマスール学園に入学するつもりなどなかったのでは、演劇に携わるものとしてやりきれないものを感じてしまったのだ。

 王女はゆっくりと首を振った。


「いいえ、彼らの努力は決して無駄ではありません。学生のみで大規模な規模戦を実現せしめた手腕は実に見事なものでした。ブレンマスール学園の優秀な教育を内外に示したと言えるでしょう。王家のためにあそこまで尽くしてくれた忠誠も嬉しく思います。来年度以降、王家からの支援金は間違いなく増額されることでしょう。

 敵味方に別れて婚約者が戦うという悲しい物語も実に素晴らしかったです。個人的にもとても楽しめました」

 

 王女は花のような笑みを浮かべた。

 王女も王家もちゃんと彼らの苦労に報いてくれるようだった。ライバル校のことながら、なんだか安堵を覚えた。

 

「もちろん、このウィズダマート学園の視察も有意義なものでした。教育内容も教師陣も実に高水準でした。芸術家になり大成した卒業生との対話も実に興味深いものでした。この学園への入学が更に楽しみになりました。

 でも……やはり初日の夜会で上演された『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』がとても印象深いものでした。お話を聞きたくて、貴女をお呼びしたのです」

「それは……恐縮です」


 少々横道にそれてしまったが、ようやく本題だ。改めて姿勢を正す。

 王女はまっすぐにわたしを見つめると、微笑みながら口を開いた。


「まず称賛を贈らせてください。本物の婚約破棄を宣言されながら、演劇に取り込み演じ切った貴女の機転。そしてそれを支えた演劇部員たちの対応力。実に見事なものでした」


 思わず固まってしまった。王女は当たり前のことのように、『本物の婚約破棄』と言った。あの婚約破棄が本当の事だったと王女は知り得ないはずだ。演劇部員の誰かが漏らしたとも思えない。いや、学園の誰であろうと、王女の前で婚約破棄を宣言したなどという学園の不名誉、わざわざ自分から話すはずがない。


「……本物の婚約破棄と思っていただけたとは、演劇部として嬉しく思います。ですがあれは演劇、虚構の物語に過ぎないのです」


 内心の動揺を抑えつけて、どうにかそう言葉を返した。

 王女はじっとわたしの方を見ている。大粒の琥珀色の瞳が、まるでこちらの全てを見通すかのように輝いていた。


「私、恋愛ものの演劇が大好きですの。好きな演劇は何度も観に行きます。観ている最中は興奮してしまいますが、あとで時間をおいてじっくり考えれば、何が演技で何が本当の事だったかはわかるのです。

 貴女のことを責めるつもりはありません。このことで学園の評価を下げないこともお約束をします。ただ私は、あの時のことについて貴女に話を聞きたいだけなのです」


 占星術において、星の動きを読めば人の未来が分かると言われている。

 星空に例えられた王女の瞳の輝きは、全てを見通しているかのようだ。少なくとも、婚約破棄の真実については確信している。どうやら口先でのごまかしは通用しないようだ。


「ご慧眼に感服いたしました。元々、王女の歓迎のために夜会を舞台にした演劇を企画していました。そこで本当の婚約破棄を宣言されてしまったのです。演劇を続けるために、わたしはそれを利用することにしてしまいました。

 我ながらおかしなことをしたと思っています。お恥ずかしい限りです」

「先ほども言いましたが、貴女を責めるつもりはないのです。婚約破棄を突然宣言された貴女は被害者なのです。謝罪する必要など無いのです」


 優しい言葉をかけられてなんだか救われたような気持ちになった。

 あれが本物の婚約破棄だと知っているのは、演劇部員と何人かの教師だけだ。他の生徒はみんな、あの婚約破棄を演劇だったと思っている。

 あれから、あの婚約破棄について誰にも相談していない。演劇部員たちも気を使ってか聞いてくるようなことはない。自分の中でも受け止めきれていない出来事だった。それを最初にいたわってくれるのが王女様だなんて、想像もしなかった。

 

「それで、確認したいのはミースリディア嬢が訴えたという『嫌がらせ』についてなのです。彼女が嘘を言っているのがわかっていますが、貴女が反論できなかったことが気にかかっています。実際にはどういうことだったのでしょうか?」


 ずいぶんおかしなことを聞くものだ。そう思ったが、別に隠すことでもないので、かいつまんで説明した。

 ミースリディア嬢がわたしの前で何度となく、わざと転んだこと。階段から転げ落ちたこと。噴水に落ちたこと。

 そして、様にそれをわたしのやった嫌がらせだと教えたであろうことを簡単に説明した。

 話を聞き終えた王女は、深々と嘆息した。


「なるほど……実に恐ろしい話ですね」

「ええ、まったくです。まさかあんなおかしな策略で追い詰められるとは思いませんでした」


 目の前でわざと転ぶ。そんなことを繰り返すだけの雑な工作で追い詰められることになるとは思わなかった。あんなバカな話をミナパルト様が疑いもせず受け入れたのも理解しがたい。恋は人を愚かにするというけれど、限度と言うものがあるだろう。

 だが王女は、どうも他のことを考えているようだった。


「いえ……私が恐ろしいと言ったのは、策略ではなくミースリディア嬢の愛の深さです」

「愛の深さ、ですか……?」

「ミナパルト殿とミースリディア嬢は、もう駆け落ちなさったのでしょうね……」

「え!? な、なぜそう思うのですか!?」


 思わず大声が出てしまった。

 確かに王女の言う通り、あの夜会の日からミナパルト様とミースリディア嬢は学園からいなくなってしまった。寮にも戻らず、学園のどこにもいない。実家に帰ってすらいないとのことだった。

 先日、学園の教師からそのことを知らされ、どこに行ったか心当たりは無いかと聞かれた。残念ながら思いつく場所は無かった。

 

 これが物語の出来事なら先の展開は思いつく。真実の愛を見つけ、婚約破棄を宣言した二人が姿を消した。ならば駆け落ちしたに違いない。珍しくない結末だ。

 だが現実的にはあり得ないとも思っていた。いくら愛し合っているからと言って、貴族の立場を捨てて出奔するなど、そう簡単にできることではないのだ。

 そもそも、これまでの会話でそんな結論を王女が導き出した理由がわからない。

 首をひねる私に対して、王女はゆっくりと諭すように語りだした。


「プロデューシア嬢。よく考えてください。転ぶのはとても『痛いこと』なのです」

「え、ええ。それがどうしたというのですか?」

「ミースリディア嬢は周りの人間が不審を覚えないほど自然に貴女の前で転びました。当然、打ち身や擦り傷程度のケガは負うでしょう。噴水に落ちてずぶぬれになるのも不快なことのはずです。それでも彼女は愚直に繰り返したのです」

「それは……ぞっとする話ですね……」


 軽傷なら回復魔法ですぐ治せるだろう。でも転んだ瞬間の痛みは消せないはずだ。

 痛いとわかっているのにわざと転ぶ。それを何度も繰り返す。どれほどの執念があればそんなことができるのだろう。

 だが王女の話はそこで終わりではなかった。


「本当に恐ろしいのは、その目的です。ミースリディア嬢はきっと、ミナパルト殿の愛を得るためだけにそのようなことをしたのです」

「どういうことですか? そんな愚かなことを繰り返す令嬢を、誰が愛するというのですか?」

「自分を愛するために愚かなことを繰り返す女性を、男性は愛してしまうものなのです」


 わたしの前で何度も転ぶミースリディア嬢。あるいはミナパルト様も、そんな彼女の行動がわたしを陥れるための策略だと気づいたかもしれない。

 でも、もし。気づいていながら彼女を愛したのだとしたら。


「つまり……ミースリディア嬢は、愛を得るためにわざと愚かな行為を繰り返したというのですか?」

「そうでなければ、わざわざ王女が参席する夜会で婚約破棄を宣言するはずがありません。二人は初めから駆け落ちする覚悟だったのでしょう。だから後戻りのできない状況で、あえて貴女に絶縁を叩きつけたのです」


 王女のいる場での婚約破棄はおかしいと思っていた。こちらの言い分をまるで聞かず、証拠もないのにミースリディア嬢を信じるのはおかしなことだった。

 だが。二人の間にある『真実の愛』が、そんな底なし沼のように深くよどんだものであれば……確かに説明がついてしまう。

 それは確かに……恐ろしい話だった。




 紅茶を淹れ直してもらって一息ついた。

 王女は最初から予想がついていたようだけれど、わたしには少し受け止めるだけの時間が必要だった。あまりに衝撃的な話だった。

 状況からの推測だ。真実に至っているのかどうかはわからない。でもすべての疑問をあまりにも綺麗に説明できてしまう。わたしにはそれ以外の真実が思い浮かばない。たぶん、正解なのだろう。

 二人はどうなってしまうのだろう。貴族として生きてきた若い男女が、平民になってそう簡単にうまくいくとは思えない。でも、そこまで愛し合っているのなら、あるいはただそれだけでしあわせなのかもしれない。

 

 

「落ち着きましたか?」

「はい……どうにか」

「貴女にはつらいことだとわかっていましたが、話しておかなければならないと思いました」

「お心遣い痛み入ります。おかげでなんだか……自分の中で区切りがついたような気がします」


 あの婚約破棄はわけがわからなかった。わたしからすれば、ミナパルト様がミースリディア嬢と知らない間にくっついて、いきなり婚約破棄を宣言されたのだ。しかも必要に駆られ、それを無理矢理演劇の一部にしてしまった。

 そのせいで自分でもどう受け止めていいものかよくわからなくなっていた。王女との会話で、ようやく飲み込めた気がした。

 

 それにしてもサーディミリア王女は聡明な方だ。さすが特別な教育を受けた王族だ。いや、この才覚はそれだけでは説明がつかない。きっと特別な人間なのだろう。思わず感嘆の息が漏れた。

 わたしが落ち着いたタイミングを見計らったように、再び王女は話を切り出した。


「……プロデューシア嬢にはもう一つ確認しなければならないことがあります」


 まだ何かあるのかと、思わず叫びそうになってしまった。正直もう受け止めきれる気がしない。それでもわたしのことを慮ってくれている王女の言葉だ。きちんと聞かねばならない。

 

「『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』の最後で、貴方はどうして本当にキスをしてしまったのですか?」


 王女の問いは想像したよりずっと軽くて単純なことだった。

 だから、即答できた。

 

「効果的な演出になると思ったからです」


 わたしの答えを聞き、王女は目を伏せてため息を吐いた。何かお気に召さなかったのだろうか。なんだか不安な気持ちになった。

 

「演劇部の部長である貴女にこんなことを言いたくはありませんが……恋愛劇におけるキスシーンというのは大切なものです。どうか目を背けず、きちんと考えるようにしてください」

「はい……わかりました。ご指摘ありがとうございます」


 王女の言葉は、さきほどまでの理路整然と本質を突く感じではなかった。なにか遠回しな感じだ。

 やはり本当にキスしてしまうというのは安易な演出で、王女としては不満だったのかもしれない。でもあの時は、状況が特殊過ぎたし準備も足りなかった。王女はその辺の事情を察して、あまりはっきりと不満を述べるのはやめたのだろう。やはり思慮深いお方なのだ。


 そのあとは学園について当たり障りのないことを話した。

 紅茶を飲み終えた頃、王女との面談は終わった。

 

 

 

 第三王女サーディミリアが視察を終えて学園を去ってから三日後の事。

 放課後の校舎裏で、わたしは一人、待っていた。約束の時間より早めに来ていたが、待ち合わせの相手も早めに来てくれた。


「部長、お待たせしました」

「わたしもさっきついたばかりです。よく来てくれましたね」


 やって来たのは金髪碧眼の二年下の後輩、子爵子息レディクトールだ。

 王女に言われてあのキスシーンについて改めて考え直した。すると、わたしは大事なことをしそびれていたことに気づいた。

 『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』でわたしを助けに来てくれ、演劇を成功へと導いてくれたレディクトール。演劇部で反省会を開いたときに少しは意見のやりとりくらいはした。でもそれ以外にはあまり話せていなかった。それどころか目を合わせることすらろくにできていない。さすがのわたしも気まずかったのだ。

 

 だからこうして呼び出して話すことにした。

 レディクトールはいつも通りの学生服だ。あの時のような完成度の高いメイクもしていない。ちょっと顔立ちのいい演劇部の後輩。わたしのよく知るいつもの姿だった。

 妙にそわそわしている。夜会の時の毅然とした姿とはえらい違いだ。もっとも、あの姿は演技による特別なものだ。レディクトールはもともと、わたしと二人っきりのときはこんな感じなのだ。なんだかホッとするものを感じた。

 

「それで、今日はなんのご用でしょうか?」

「『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』を終えてから、二人で話す時間が取れませんでした。あなたには言わなければならないことがあるのです」

「な、なんでしょうか……?」


 レディクトールはごくりとつばを飲み込んだ。妙に緊張している気がする。

 まああんなことがあった後で、呼び出されれば緊張もするだろう。あまり負担をかけるのも悪い。手短に済ませることにした。


「『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』がうまく言ったのは部員全員の頑張りの成果ですが、その中でもあなたの働きは大きなものでした。問い詰められた時、あなたたが来てくれて嬉しかったです。本当にありがとうございます」


 にっこり笑ってお礼を言った。レディクトールは顔を赤くして頭を掻いた。


「それから、本当にキスをするなんて演出にしてしまってすみませんでした。今思い返すと、あの時は冷静な判断ができていませんでした」


 そう言ってぺこりと頭を下げた。

 キスを本当にしてしまうという演出。あの判断は正しいのだと信じていた。

 だが王女から指摘を受けて改めて考え直すと、考えが変わった。キスの演技だけで十分だった。本当にキスをして客の興奮を煽るなど、平民向けの劇場でしかやらない種類の演出だ。貴族向けの劇場では下品とされる。それを王女の前でやるなんてどうかしていた。

 結局のところ、あの異常な状況でまともな判断ができていなかったのだ。

 

 頭を上げるとレディクトールの真っ赤になった顔が目に入った。あの時のことを思い出しているに違いない。

 わたしの方もだんだん恥ずかしくなってきた。あれは劇の演出。演劇のためなら唇の一つや二つ惜しくはない。そうは思っても、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 用件は済ませた。とっとと立ち去った方がいいだろう。


「用件は以上です! それでは失礼します!」

「えっ……?」


 レディクトールがなにやら物足りなそうな顔する。しまった、なにか手土産で持ってくるべきだっただろうか。そこまで気が回らなかった。

 でも用意していないものは仕方ない。今度なにかおいしいものでもご馳走しよう。そう考えて、彼に背を向けると歩き出した。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 一歩目で腕を握られ止められた。振り向くと、妙に真剣なレディクトールの顔があった。


「……なんですか、レディクトール?」

「僕からも一つ、お話ししたいことがあります!」


 しばらくまともに話せていなかった。レディクトールにも言いたいことがあるのだろう。

 こちらだけ一方的に言いたいことを言って、相手の言葉を受け取らないのでは筋が通らない。

 手短に済ませようとしてそんな大事なことを見落としていた。改めて彼と向き直り、その言葉を待った。

 レディクトールは少し怒ったように眉を寄せ、演劇部で鍛えた声で、まっすぐにわたしに向けて告げた。


「いくら演劇のためだからって、好きでもない男にあんなことをしてはいけません! もっと自分のことを大切にしてください!」


 ごく当たり前の真っ当なお叱りの言葉を受けた。

 なぜかその言葉にひどく引っかかるものを覚えた。

 

 いい演劇のためならどんなことでもする。自分の婚約破棄すら演劇に組み込む。それがわたし、ウィズダマート学園演劇部部長プロデューシアである。

 

 今までの演劇部の活動の中で、演劇のためだからと言ってあんなことをしてはいけないと説教されたことが何度もあった。聞きなれた忠告だ。普段なら、反省してもその言葉にとらわれすぎることもなく、演劇のために邁進したことだろう。

 だがこの時だけは、どうしても聞き流すことができなかった。ひどく気に障った。思わず大声で言い返していた。

 

「言われるまでもありません! そもそもあなたは勘違いしているのです! いくら演劇のためだからと言って、このわたしが好きでもない男に口づけを許すはずがないでしょう!」


 レディクトールは目を見開いて口をぽかんと開いていた。よほど驚いたのだろう。

 わたしも驚いている。何を言っているんだ、わたしは。

 今の言葉を取り消さなくてはならない。この状況をなんとか取り繕わなければならない。そう思っても、口が上手く動かない。火が出そうなくらい顔が熱くなって、身体が震える。気を抜いたら倒れてしまいそうだ。考えがちっともまとまらない。

 

 でも心の奥底ではわかっていた。わかっていたのに、気づかないふりをして、その気持ちに蓋をしていた。

 言葉にしてしまったら、もう無視することなんてできなかった。

 

 わたしは、レディクトールのことが好きなのだ。

 

 演劇部に入ってきたときは、顔がちょっといいだけの素人だった。演技などまるでできなかった。でも、努力を惜しまず、熱心に励んで、どんどんうまくなっていった。

 そして、あの夜会の夜。婚約破棄で冤罪を押しつけられて、どうしようもなくなった時。

 真っ先にレディクトールが来てくれた。心強かった。

 自分の演劇への情熱を認めてくれた。守ってくれた。すごくすごく、嬉しかった。

 ずっと心惹かれていた。そしてあの夜、わたしは恋に落ちたのだ。

 自分の気持ちを自覚できないまま、ただつながりだけを求めた。そしてあの時、演劇のためと言い訳して、キスしてしまったのだ。

 

『恋愛劇におけるキスシーンというのは大切なものです。どうか目を背けず、きちんと考えるようにしてください』

 

 王女の忠告が思い出された。聡明な彼女のことだ、きっとこのことを見抜いていたのだ。

 わたしはなんて愚かだったのだろう。

 いや、でも、ちょっと待ってほしい。わたしはなにをしているんだ。これからどうすればいいんだろう。頭の中がごちゃごちゃで、ちっとも考えがまとまらない……!

 

「僕も部長のことがずっと好きでした。どうかお付き合いしてください!」


 ぐちゃぐちゃだった頭の中が真っ白になった。レディクトールは恥ずかしそうに、しかししっかりした声で、わたしに向かってそんなことを言った。

 

「え? いつから好きだったって言うんですか……?」

「演劇部に入る前から好きでした! 部長には婚約者がいたので我慢してました! あの夜、婚約破棄された部長のことを見ていられなくて、先輩方に無理を言って助けに入りました!」


 思わず漏らした問いに、レディクトールは律義に答えた。

 え、知らなかった。なんかやけに聞き分けもいいし練習熱心だと思っていたけど、そういう理由だったのか。『乙女に(ロマンス・)捧ぐ一夜の夢(ナイトドリーム)』の時、なんで彼が最初に来たのかと不思議に思ったけど、そういうことだったのか。

 

 両想いだった。恋愛が成就してしまった。いや、わたしがキスをしたのは間違いで、さっきの言葉も失言で、それで告白されるなんて許されるのだろうか。

 わからないわからない。でもなんかよくない。状況を整理しなくてはならない。演出家として演劇部を指揮してきたわたしならできるはずだ。この状況をなんとかしなければ!


「あなたそれでも演劇部員ですか!? 演劇部員ならもっとロマンチックな告白をしてください!」


 ……本当に、わたしは何を言っているのだろうか。さっきから心と体がバラバラだ。思考がおかしな変換を経て口から出力されている。

 そんなわたしのそんな無茶ぶりに対して、レディクトールは動いた。


 先ほどまで真っ赤だった顔がすっと引き締まった。これはあの夜会で見せた学年一の貴公子の顔だ。

 そしてレディクトールは優雅な所作で跪くと、わたしの手を取った。


「あなたのことを愛しています。どうかあなたのおそばにずっといさせてください」


 これは姫君に永遠の愛を誓う騎士の演技だ。レディクトールが普段からきちんと稽古していることがうかがえる。舞台でやったら観客の誰もがときめかずにはいられない、完璧な所作とセリフだった

 

 ……本当に言われた通りにしないでください!

 思わずそんなツッコミが口から出そうになるが呑みこんだ。やれと言っておいて実際にやったら叱りつけるとか、どんな理不尽だろう。

 もっと言うべきことがあるはずだ。言わなくてはならない言葉があるはずだ。

 今度こそ、きちんと言葉を返さなくてはならない。


「はい……わたしもあなたのことをお慕いしています……」


 消え入りそうな声で、そんなことを言ってしまった。

 これは騎士の愛に応える姫君の演技だ。

 

 演劇部部長だから、この場面で言うべきセリフがわかってしまった。

 演出家として、指示した以上の演技を見せた俳優はきちんと評価しなければならなかった。

 恋する乙女として、想いを寄せた男の子に好きと言われたらきちんと応えねばならなかった。

 そういったもろもろのことが合わさり、わたしは恋愛劇のヒロインのような言葉を返すことしかできなかったらしい。


 レディクトールはその言葉を聞くと立ち上がった。先ほどの厳粛な騎士の演技を捨てた。泣きそうな笑顔を浮かべ、わたしのことを抱きしめた。

 もう頭の中はぐちゃぐちゃで、なにひとつまともな考えをまとめることなどできなくかった。

 だからもう、考えること放棄した。ただ好きな人に抱きしめられる喜びに身をゆだね、夢中で抱きしめ返した。

 

 

 後日、入学してきたサーディミリア王女にこの日のことを聞かれることになる。聡明な彼女は二人が付き合うことになることも当然わかっていて、わたしはめちゃくちゃ恥ずかしい思いをすることになるのだが……それはまた、別の物語である。



終わり

今まで王族は貴族の学園に通うものと思い込んでしました、

でも王族は王宮で専属の教師から特別な教育を受けるという感じの作品にいくつか触れました。

説得力のある設定だなあ、と思いました。

「王族が学園に通うようになるとしたら、そのきっかけはどんなものだろう」と考えて、それを話の軸として婚約破棄の要素を足してキャラや設定を詰めていったらこんな話になりました。

なかなかうまくまとまりませんでしたが、なんとか仕上がってよかったです。


2024/7/9、9/28

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[一言] ここで、2人だけの大事なシーンではあるけれど 人でなしな私としては、王女様にこのシーンを直接見ていただきたかったwww それがクリエイターとしての性だと思うのだ。 プライベートを切り売り…
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