奇跡では改心出来ん
その台詞は
「奇跡、彼はそんなものにすがりはしない。科学の道を一歩々々たどるだけの…… 」
実は、これはひふみ神示でよく云われている事なのです。
それは、「奇跡では改心出来ん」と「何事も一段づつ、一歩づつ」です。
まずは、「奇跡では改心出来ん」です。
ひふみ神示では、奇跡を否定しています。
それは、奇跡は存在しないという事ではなく、奇跡のみでは本当の改心は出来ないというものです。
「奇跡を見せ、病気を直してやるのもよいのぢゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。それのみで道を説いてはならんぞ。そんなこと位でマコトのホッコンの改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。今迄のやうな宗教は亡びると申してあらうが。亡びる宗教に致して下さるなよ」
「霊覚者や行者の中には奇跡的なことや非常識な行動をする者がよくあるぞ、一般の人民はそれにだまかされることがよくあるぞ、何れも下級霊のしわざであるぞ、正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。高級霊は態度が立派であるぞ、わかりたか」
「地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。浄化し、改心し得ないものである」
奇跡とは、教えを信じさせたい人や、自身を神や高級霊だと信じさせたい下級霊により、なされたケースが多いと看破されています。
また、そんな事で改心できるなら、遠の昔に改心できて世の中が良くなっているはずだと皮肉めいた事を仰っています。
そして、「奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われ」です。
自然な流れである「大いなる動き」を”正道”とするなら、逆行する動きの奇跡は”奇道”と呼ぶに相応しいものなのかも知れません。
更に、
「今迄の教会も元はよいのであるぞ、いづれも取次役員がワヤにいたしたのぢゃ、神の心からはなれて人間心となったからぢゃ」
これは、元の教えは良かったのですが、教えを信じさせたい人が駄目にしてしまった事を示唆しています。
「他の宗教に走ってはならんと云う宗教もそれだけのもの」
「神も仏もキリストも元は一つぞよ」
「一神説いて多神説かんのも半分、多神説いて一神説かんのも半分、一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ」
どうも、ひふみ神示は宗教の集大成でもあるようです。
最後に、一神則多神則汎神を説明する一文を
「太一二大神としてのこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神様の名ぢゃ。無限であるぞ。このほう一柱であるが無限柱ぞ。総てが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。汎神ぢゃ。総てが神ぢゃ。喜びぢゃ」
(続きます)