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余吟抄  作者: 森川めだか
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ぶっきらぼう

ぶっきらぼう

      


「また行こうね。遊園地」父の手を引いた。

メリーゴーラウンドはまだ回っている。

世の中にはもう会えない人のほうが多い。

父もその仲間入りをしてしまった。


13年ぶりに父の書斎に入った。

私は23歳になっていた。

書棚には、父の代表作となった「題名の無いルペンス」が飾られている。

父は小説家だった。

私は結婚間際だった。

「お母さん、これ何?」無造作に父の椅子に立てかけられている古い紙袋を指差した。

「ああ、それ。お父さんの遺作」

「へえ・・」紙袋から原稿用紙の束を机に開いてみる。〆切が13年前の今日になっている。

「ねえ、お父さん、病気のこと知ってたんでしょ? 何で引き受けたの?」

「さあ・・?」

題名は「狂ってたまるか」。

「まだ書きかけなんだ・・」原稿用紙をパラパラとめくってみる。

私も字を書くのが好きだった。

「好きこそものの下手の横好き」と言いながら、父のペンネームの隣に、伏見二奈子(ふしみになこ)、と自分の名前を書いた。

(みさき)という女の子が主人公のようだ。

今日は母に料理を教わりに来たのだ。

今日のお昼はごぼ天と大根おろしのお味噌汁だ。

私はただ見てるだけ。

「なんだ、簡単じゃん」

テーブルに着いて二人差し向かいで食べた。

「お父さん、これに卵の黄身入れるのが好きだった」母が大根おろしのお味噌汁を見て言った。その顔は少し寂しそうだった。

母は父が死んでからも、再婚もせず、私を育ててくれた。

二人で見るはずだった娘の成長を一人で見てきた母が、少しかわいそうだった。

私は母を立派だと思う。

「私もそうして食べてみるね。これ、ちょっと辛くない?」

手の平から白身が落ちる時、お父さんの遺作のことを思い出した。

父の机に向かう姿は子供心にまだ覚えている。

私を忘れてしまったの?

フッと私に気付き、顔を上げて、いつもの素直で温厚な顔で笑う。赤信号が青に変わるように。私は少し寂しかった。そして、父が少し心配だった。

わざと私は甘えて、父の膝の上に乗ったりするのだが、その前に原稿用紙を閉じて、私に見せようとしなかった。

母がキッチンに入ってきた。

「ヨーグルトのデザート作るから・・」冷蔵庫をゴソゴソやっている。

「ねえ、お母さん。私、お父さんのあの遺作の続き、書いてみてもいい?」

母は驚いた顔で私を見ていた。冷蔵庫を開けたままで。私も卵の黄身を持ったままだった。

「途中まで書いてあるでしょ? それからお父さんのこと想像してみるの」

母がヨーグルトを落とした。ヨーグルトが床にこぼれた。

「ああ、ごめん。何か嬉しくって」母は涙ぐんだ目を拭った。

ヨーグルトを拭きながら、「お父さんのこと、思い出しちゃってね・・」と母が言った。


母は父の書いた所だけコピーを取って、原稿用紙を私に渡した。重かった。


陽光(あきら)と同棲しているアパートに帰った。陽光はまた腹を減らして帰ってくるだろうから、早々にごぼうのアクぬきをすることにした。

付き合って2年足らず。何事にも飽きっぽい性分の私が、まさか、こんなに早く結婚することになろうとは。

父が死んでから、小説を読むようになって、父の小説も読んだ。

私は冷蔵庫から夏みかんの皮を甘く煮込んで漬けた物をつまんだ。これも母から教わったものだった。

車の音は雨に似ている。

ベランダに出ると、干していた陽光のバンダナが風に揺れる。

陽光は大口を開けて、ごぼ天とご飯を平らげていた。大根おろしのお味噌汁を飲んでいる時、「辛すぎたら、卵の黄身入れるといいよ」と二奈子は言った。

「こんくらいの辛さが丁度いいよ」と陽光は言って、おかわりもした。

二奈子は、「そう・・」と少し寂しかった。

陽光は焼酎を飲んでほろ酔いになっていた。二奈子は素面の陽光の方が好きなのだが、自分もちょっとばかし焼酎を飲んだ。

「子供なら、さあ、女の子がいいな」TVを見ながら、陽光がそんなことを言った。

「あんたにはスケベ心しかないの?」

「何、怒ってるの?」驚いて二奈子を見た。

「別に」二奈子は和室に入り、机の前で原稿用紙を広げた。


「泣いてるの?」部屋に入って来た陽光が聞いた。

私は涙と鼻水をティッシュで拭いて、答えなかった。

「狂ってたまるか」はひねくれていた。父の作品はどれもひねくれていた。

私は、この作品では素直になれたとどこかで期待していたのかも知れない。

私が見たお父さんは一体誰だったの?

岬がかわいそうだ。客のいない舞台みたいにひねくれてる。煙草のようにひねくれてる。

机に突っ伏した。

最後ぐらい素直になれ。

私はページをめくった。

今は一人だけど、で終わってる。

私に渡されたバトンのように感じた。

わざとここで終わってるみたい。

二奈子はシャーペンに芯を詰め込んだ。

カチカチ、ノックした時、フッと緊張した。

これから、お父さんと会うんだ。


雲が空に吸い込まれていく。

12月の晴れ間、岬のあれこれのことに思いを馳せて明け暮れていた。

素直な雨が降っている。まるでお父さんの雨に寄り添うように。

少しだけ暖かい水。

岬の徒然の恋を不器用ながら清算してきた。

後はどうしようか。

縁側によく座っていた父を思い出す。

そうだ。岬はお父さんと会うんだ。

素直で温厚で、でもへそまがりかも知れないお父さんと。

二奈子は早速和室に入って、机に向かった。

岬がよく顔を出すナイトクラブに若かりしお父さんを登場させる。名前は、・・何がいいのかな。

お父さんは死んだ。だけどもう一度出てきてもらう。だからプラスで十一生(といき)。プラスマイナスで十一生。

お母さんに心配されるのが嬉しくて、仮病を使ってた。

ふとそんなことを思い出して、二奈子は目がうるんでしまった。

小説は難しい。

雨の匂いの染み込んだ洗濯物。

猫のように飽き性の私が「ヒマジン」と友達に罵倒されても続けられているもの。

少し雪が残っている。

雪はすっかり溶けて、消えてしまうのだろう。

死んだ人のように。


陽光が二匹の亀を買ってきた。

モサとアンナ。

モサは陽光が付けて、アンナは二奈子が付けた。

「今日、先輩から聞いたんだけどさ、猫の足跡ってどうして聞こえないか?」なぞなぞを出した子供のように満面の笑みで陽光が聞いた。

「ああ、盗まれたんでしょ」

「え、知ってた?」

「うん、半ば常識」芋チップをかじって、私は笑った。

「なんだよー。言おうと思ってたのにー」陽光はそう言って、笑った。

父は博識だった。何でも知ってた。何でも答えてくれた。けれど、それは、何も答えてくれないことと同じだった。

大人になって初めて知ったことだった。

残った芋チップを陽光に渡すと、私は食器を洗いにキッチンに入った。

振り向くと、まだ陽光は芋チップをかじりながら、亀を面白そうに見ていた。

私は、陽光のような、一緒に考えてくれる人を探していたのかも知れなかった。

「私さ、幸せだよ」食器を洗う音で、聞こえるか、試してみた。

「俺もだよ」何のためらいもなしに陽光が言った。

微笑んで肯くと、二奈子は炊飯ジャーに明日の朝用に二人分のお米と水を入れて、予約のボタンを押した。

これから先、ずっとこれが続けばいいなと思った。

何が面白いのか、陽光はずっと亀を見ていた。

「亀は万年って言うからな」陽光が言った。


岬と十一生は駆け落ち同然で出て行った。

「どうしたんですか? 開けますか?」

水槽みたいな空を見ていた。

見ると、エレベーターがもう着いていて、閉まりかけていた。

「あ、すいません」

市役所に来ていた。

婚姻届をもらいに来たのだ。

飲み会に遅れて来たのが、陽光だった。

アルバイト先が一緒で、でもシフトが違って、それまで会うことはなかった。

その日は、大学を卒業する人達のために送別会も兼ねていたので、全員集まったのだ。

食べ残したご飯に、味噌汁をぶっかけて、猫まんまにして食べていたのが陽光だった。


「ただいま、婚姻届もらって来てくれた?」

「おかえり・・」

二奈子は満月のような瞳をしてキッチンに突っ立っていた。

「お、おお・・」陽光はビビっていた。

「あ、あのさ、本当は二人で、と思ったんだけど、さ・・」陽光は言い訳を始めた。

モサとアンナは歩いている。水槽の中で。

こんなに悲しい日は久しぶりだ。

「愛を騙すペテン師は、ペンギンの姿してるのよ」

「えっ?」

「題名の無いルペンス。読んでないの?」

「ああ、親父さんのか・・」

「読んだの? 読んでないの? どっち!?」

「読んだよ。難しくよく分からなかった」

「お父さんのことそんな風に言わないでよ!」

二奈子は和室に入り、閉じこもった。

「二奈子さあ、もう小説やめたほうがいいよ。何か、おかしいよ」

襖越しに陽光は腰かけているようだ。

「それ、親父さんの小説だろ? 二奈子のじゃ、ないよ」

「私、お父さんのこと誤解してた」

「二奈子はもっとさあ、」

「もっと、何よ」

「優しいんだよ」

「陽光、私を連れて逃げるつもりある?」

「あるよ」

「どうして私のこと好きになったの?」

「分からないよ。そんなの」

「私はね、陽光が猫まんま食べてたから好きになったんだよ」

「俺、親父さんに会いたかったな。ちゃんと挨拶したかった。殴られても良かった」

「信じてる」


「お母さん、出汁ってどうやって取るの」二奈子は電話で母に聞いていた。

「今のは、出汁みんな入ってるよ。あんた、プロの料理人にでもなる気?」

「違うよ。陽光においしいもの食べさせたいんだよ」

「ごちそうさま」

「ズッキーニって皮剥くの?」

「剥かないよ、そりゃ。きゅうりみたいなモンなんだから。男が好きな料理のコツはね、手を抜くことだよ」


「ただいま、今日のご飯なに?」

「ザリガニのスープ」

「結婚式の引き出物、何にする?」

「紅白まんじゅうでいいよ。紅白まんじゅうが、いいよ」

何でも一口で食べる陽光が好きだった。

「陽光、これ美味しそうだよ」

インターネットで検索したレシピを陽光に見せた。

「二奈子が作る物だったら、何でも美味しいよ」

「狂ってたまるか」は長いこと、手付かずになっていた。

「ちょっと、これも美味しそう。陽光の愛してやまないごま油だよ」

「二奈子の作った物だったらさあ、」

「だからそれ止めてよ、張り合いが無い」


岬と十一生はどこへ行ったのかな。

どこへ行ったんだろう。

私が書かなきゃ。

どこへ行くんだろう。

車のライトが天井に水面のように。

二人は同じベッドにいる。

水槽の中だ。

草がボーボーに生えてるホテル。

「大変! ビールから湯気が!」

「風呂上がりに飲んだせいだよ」

モサとアンナ。

モサが気取ってる。

衣替えする季節になって、陽光との結婚がいよいよ近くなった。

マリッジブルーする余裕もなくて、「狂ってたまるか」を書いていた。

「改まって言うのもなんですけど、・・娘さんを僕に下さい」

「はい、あげます」

写真立てに置かれた父はちょっとぶっきらぼうだった。

ぶっきらぼうのお父さんが見たかったな。

恋人たちを乗せてティーカップが回っている。陽光と遊園地に来ていた。

世界は変わることなんて無い。

芸術は始まり、芸術は終わらない。

卵の黄身のような月日だったな、言葉じゃない世界。


朝から二奈子は浴室のカビをこそげ落とすのに没入していた。

陽光はバンダナを頭に巻いてごま塩をご飯にかけて食べていた。

モサとアンナはベランダで二人揃って仲良く甲羅干し。

「この亀よりも長生きしようね」汗だくになった私は陽光に言った。

「おお。行ってくる」

亀を育てる。

水色のバケツ。

二奈子は陽光の大好きなみかんの缶詰を冷やしておいた。

私が作った物より、こんな物を美味しがるなんて。

洗濯物にカメムシの匂い。

自分の昼用に焼き魚を温めていると電子レンジで魚がパンクした。


お母さんに「狂ってたまるか」を見せに行った。

「下手だね。お父さんと一緒」

思い出に消えて、失恋を繰り返して、岬と十一生は素直になれない。

そうして私の代表作「アブラカタブラ」は完成した。


陽光との新婚旅行。

「お土産が増えるだけだよ!」母は来たがらなかった。

ほったらかしの陽光の荷物。

「みかん、出しっ放し!」

〆切は過ぎた。


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