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余吟抄  作者: 森川めだか
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エルル

エルル

   


「目を開けていいよ」

それはエルルの誕生日の一日前だった。

「ありがとう」

それは少し派手だがネックレスだった。

雨にならずに雪が降った日。レストランのオーニングの下で離婚話を切り出されている。本当は中で食べたかったのだがオスパルがわざわざ予約した。

このスパゲティ屋は夫婦の特別な時にしか訪れない店で二人とも仕事帰りだった。エルルはあのネックレスを着けていた。

オスパルは黙ったまま座った。何がいけなかったの? と聞くことはない。悲しいが、男と女は一個の人間で、歳の重ねようも人それぞれ変わってくる。

子供がいたらいいのにね。エルルは何度もそう飲み込んだ。

「ロゼにしてここにいてよ」

オスパルはおとなしかった。私もおとなしい、おとなしい夫婦だった。

パニエには白のシャルルマーニュと赤のカベルネソーヴィニヨンが置いてある。ロゼは頼んだことがなかった。

「ロゼで」オスパルが言うと、シュヴァリエが運ばれてきた。グラスに注ぐと人生を表しているようなバラ色のワインが半分までサーブされた。

「乾杯、しようか」

「今日の日に」

音もなくすれ違い、二人とも口に含んで、口元を拭いた。

「あなた、何にするの」ボトルネックのセーターを合わせたあの日のアメシストのネックレスにオスパルが気付いているか知らない。

このロゼは私だ。信じていた私。エルルはメニューを見た。

「僕はコースにするよ、君は」

「シュリンプトマトソース、にするわ」海老のように戻れないだろうか、二人の愛がまだ幼かった頃に。

空が重い。一生分を一年で話すことができたなら豚になってもいい。

黒のボトルネックの襟を正した。そろそろドライクリーニングに出す頃かも知れない。

「この店は待たせるね」オスパルがそんな事、言ったのは初めてだった。

ロゼを飲み干すと、エルルは店の隣の坂を見た。今ちょうど私によく似た女が上ってくる。一人身だろうかスポーティジャケットを着ている。

オスパルはゆっくりとロゼを飲んでいた。向かい合っているのに隣を向いて。

「私の方が先に来たわ、いいかしら」

このシュリンプトマトソースのスパゲティはネックレスを表すようだ。巻き取っては食べる。もうオスパルは具体的な話をしなかった。

何か言って欲しいと黙っていたが、スパゲティを口に入れたままでドライクリーニングの引き換え券をオスパルの前に置いた。

オスパルはそれを胸の内ポケットに入れて、手ぶりだけで胸に弧を作ってみせた。少し嬉しそうに笑っていた。エルルも少し笑って、海老をいじってる間にミルフィーユが来てしまった。

このミルフィーユは夫との良き日。気付かない間に雪は止んだようだ。スポークで潰していると中のメレンゲと生地が離れて崩れた。

よく人は何が良かったのと聞くがオスパルはそれもまた全て古色にしてしまうの。雪は溶けて凍っている。

エルルはオスパルのために腕時計を買った。今日、渡すつもりだったが「外にしよう」とオスパルが言った時から渡しそびれていた。

パニエにはまだシャルルマーニュとカベルネソーヴィニヨンが置いてある。ロゼのシュヴァリエだけがテーブルの上に立っている。

今日の日を限りにここに来ることもないだろう。

「あなた」オスパルはもう食べ終わって残りのロゼを注ごうとしている。ロゼと深い夜がアメシストに見えた。

店はオーニングが巻き取られた。

「僕らが最後の客になったね」

そうかも知れない。でも明日にはこのシャルルマーニュかカベルネソーヴィニヨンは誰かにサーブされるのだ。

最後のロゼは私たちのグラスに注がれた。あっても困るなくても困る、それが愛なのかも知れない。神様からもらったギフトなのかも知れないけど古いダイアのネックレスみたいに宝石だけは色あせない。

私には少し派手だけど、オーニングが巻き取られ終わると星空が見えた。

「乾杯、でもないか」

エルルはグラスを上げた。チン、と音がした。

「音を立ててしまったね」オスパルは少し笑った。

笑ったまま目と目合ってフルムーンを見つけた。

雨にならずに雪が降った日、笑ったまま目と目合ってフルムーンを見つけた。


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