長子さんの長い下り坂
長子さんの長い下り坂
長子は家を飛び出して、坂を走り下りた。
夜のことだった。
駅のホームに立った。
吹き抜ける風を向いた。
こんな時になって、反対するなんて。
あまりの悔しさに歯噛みした。
女優さんになるんだ。
私はこんな所で、別嬪さんで終わるような女じゃない。
電車に乗って外を見た。
誰も追ってこなかった。
飾り夢だった。今はそう思う。
夢芝居。
私のお腹の中には赤ちゃんがいる。
隆男との子だった。
あの女のとこから電話がかかってきた。
「今日は会いたくね」
「そう。暑いものね」
西日の当たるベランダで長子は煙草を吸った。
この子には命子と名付けよう。それさえあれば生きていけるよう。
このベランダからは狭い空しか見えないけど、小さな太陽。
あの坂に靴を忘れて来たようだ。裸足で走ってきたようだ。
靴下を脱げば、自由になれると信じて。
長子は思わず足先を隠すように座った。
お湯で顔でも洗って、気分を変えよう。
隆男は時々帰ってきては、私に暴力を振るった。
私はうずくまって、腹を庇った。
刹那が苦しくて、刹那が恋しい。
自分に正直に生きよう。
それさえ、神様は許してくれるだろうか?
長子は、もうお母さん顔だった。
言葉にしたら終わり。
隆男はしばしば長子を殴った。
命子が産まれてからもそれは続いた。
煙草を吸いながら、舌打ちをする男。
心の中でさえ眠れない。
この雨の中で。
あの腕の中で。
暴力の末、「愛してるの。愛してるの。・・」幸せの卵を抱くように、命子を抱いて泣いた。
隆男が珍しく泊まっていった時、長子は身の危険を感じて命子を連れて家を出た。
駆け走った後、夜の中に、二人溶け込んだ。
あの人は追ってこなかった。
ホッとした。
朝を待って、二人、歩き出す。
命子の手をひいて。
「ママ、パパは?」
あのひとは私には似合わない。
だから、さよならをすることに、決めたの。
もう、あの人に頼りっ切りじゃ駄目になるわ。
会いに行く言葉が無いの。
長子は命子の手をグッと握った。
コンビニで菓子パンを買って食べた。
安普請の家を借りてそこに住んだ。
春が過ぎて、夏が過ぎて、秋が来た。
あの人に見つけられそうで働けなかった。
育てられなくなって。
「分かって・・」
まだ幼い命子に、命子に手紙を持たせて、「あっちの家に行くんだよ」
「デン車」
その笑顔が、最後になる気がして。
長子は命子を抱き締めた。
祖父母の家へ、長い坂を上らせて、「元気に歩くんだよ!」後ろから手を口に当てて長子、叫ぶ。
私が下って来たこの坂を命子が上がっていく。
私が駆け抜けた硝子の坂を、命子が上って行く。
命子が振り返ろうとする。
「前を向いて!」
元気に歩くんだよ。
夜行終わりで長子は命子から離れた。
どこへ行こうか。
今でも分からない。
夜の電車でユラリユラリ。
死は生への執着だ。
今も、あの夜の中にいる気がして・・。
俳優になりたかったな。
夜景が天国に通じているようで、気が重たかった。
暗く沈む海の色。
枯れた歌い声の、「とおりゃんせ」
漁海は悲しかった。
この気持ち、どうしようか。
破けたハンカチを首に巻いて、スカーフ代わりに。
私がこんなに寂しいなんて。
思わず、顔を手で覆った。
ちり紙で口紅をぬぐって、肩を力を抜いて、フッとため息をついた。
永情。
愛は全てを包むもの。
泣きながら消える母性本能はなくていい。
持たざるものは持たざるべき。
住み込みで海産物の卸しをやっている内に、時が経ってしまった。
もう後戻りはできない。
目を閉じれば、電車の音が聞こえてくる。
いつだって正直に生きてきたわ。
これが私通りなの。
休暇を頂いて、昔を訪ねることにした。
丈夫な革の鞄を持って。
隆男が死んだ。
「悪い奴にあたったんだな」馴染みのおっちゃんが言った。
ケンカだった。
墓の前で、「阿呆」と言った。
ほの赤くピンク色に染まった黄昏だった。
煙草、草の香り。
煙草は枯葉に似ている。
冬い。
「ママ?」
「命子」
誰かの横顔。
「ママ」
命子が取りすがってきた。
長子はそのまま崩れ落ちた。
「小山内さん」命子が紹介した。
隆男とは似ても似つかない男だった。
雲が見える。
私の面影を探して居てくれたんだね。
夢引くあと。
セーター。
想いと時間をプレゼント。
子供用にも、・・・・。
これからは返そう。
パジャマ姿のまま、セーターを編んで、鳥を愛でて。
これからは考えよう。そう、色々と。考えることが多すぎる。疲れたなぁ。答えは見つけることができなくても。
これからはのんびり暮らせそう。
何故か涙が頬を伝った。
瞼を閉じると音が聞こえてくる。
クルマ?
いいえ、電車の音。
遠くから電車が来る。
もうくたびれることも無いわ。
三面鏡の上の化粧品をバラ撒いて、倒れ込む長子。




