午後の8月 午前の10月
午後の8月 午前の10月
今でもいい役者を見ると血が騒ぐ。
足立春はスタジオ山手に受かった。
帰らないために財布に行きの新幹線の切符だけを挟んで上京した。
アクターズスクールの中でも名門だ。
同期生は25人いた。
栗本秀美は始めは目立たなかった。
山手信先生の激励があると、自己紹介があった。
春は受けを狙ってわざと訛りで喋った。
栗本秀美が立つと、皆が黙った。
「俳優になるために来ました」そう言っただけだった。
部活動をやったこともなかった春には何もかも新鮮だった。
俳優を夢見てから何年経っただろう。
焼き肉屋のバイトをしながら、やっとステージに立てたのだという感慨に耽った。
「美こそ、美のためにある」
栗本秀美は芸術至上主義であり、唯美主義者であった。
声出しの時にも栗本秀美の声だけが聞こえてきた。
研修生だけで劇を作る宿題があった。
夜更けまで膝を突き合わせて練った。
その間も、登録しておいたエキストラに呼ばれることもしょっちゅうだった。
ある日、栗本秀美と同じエキストラに呼ばれた。
ただの通りがかるカップルだったが、栗本秀美は何かが違った。
「エキストラの方が演技上手いじゃないか」
演出が栗本秀美に話を聞いている。
「エキストラにはもったいない」
栗本秀美にだけ端役が与えられた。
研修生たちで書いた練習劇、「晴れ模様 雨模様」を山手信先生に見せた。
情動的な母親の機嫌と愛とに振り回される姉弟の劇だ。
山手信先生は首をポリポリ掻くと、主役の姉を栗本秀美に指名した。
弟はというと、春だった。
バネがあるから、という理由だった。
今なら、栗本秀美の相手役なら誰だって良かったと思ってる。
創作ダンスなら、栗本秀美一人だけ羽根が付いたように見えた。
自然と稽古も栗本と二人になることが多く、言葉を交わす機会もあった。
春は雑誌の星占いを見ていた。
「足立君、しし座なの? 8月生まれなんだ」
「うん、栗本は?」
「てんびん座。次の季節ね」
「10月?」
「うん。神無月」
「春は筍夏はゴーヤー秋はおでん冬は春菊・・」
「ラスパ! ラスパ!」
ワークショップでの上演を前にラストスパートがかかっていた。
「腹から声出せ!」
「舞台では背中を見せるな」
山手先生の怒声が飛ぶ。
自主練ではイメージトレーニングが一番きつかった。メッキがはがれるように自信がプレッシャーに押し潰されそうになった。
「お母さんは?」
「二階ストライキ」
「またヒステリー?」
「母は元気で、留守がいい」声を揃えた。笑いが起こった。
「相手にしてたら、キリがない」
やれやれという身振りを栗本がアドリブでした。
「子の心、親知らず」
何をやっても様になる。
恰好なんかどうでもいい、この演劇を成功させたい。
目を閉じてもステージライトが眩しい。
母が二階から下りてくる足音の音響。
二人は自分の部屋に引っ込む。
奥で待っていると、「ラスパ、ラスパ」と声を掛けられた。
「ラストパフォーマンス・・」栗本が呟いた。
僕の見てる栗本秀美は、いつも僕を見ていない横顔だった。
静止画みたい。
「どうかな、オーバーアクトかな」
よく注意されていた。
栗本は肩を叩いた。
「それだけ伝えようとしてるってことだもの」
栗本は笑った。
「好き、が才能なのよ」
「片想いだよ」
二人の背が押された。
「晴れ模様 雨模様」を終えた直後、栗本秀美はスタジオ山手を辞めた。
栗本は一度だけ来て、大きなお辞儀をして、女優を辞めた。
栗本秀美が辞めた後、火が消えたようになった。
「才能よりも下積み」山手先生が言った。
春は一度だけ、栗本に会った。
焼き肉屋の裏で煙草を吸っていたら、いたのだ。
「どうして、やめたの」
「そんな恥知らずなこと出来ない」
午後と午前は同じ一日でも、別々の時を刻む。
二人の舞台は違っていたけど、夏の時間、思い出の冬。
「激情は芝居だけでたくさん」最後に栗本は笑った。
それからしばらくして、新聞の片隅に新進劇団にゲスト出演する栗本秀美の絵があった。
『遊歩道』という題だ。
春は見に行けなかった。
自分の中の何かが、大きく変わってしまうような気がして、それが怖くて見に行けなかった。
片足立ちで自転車で停まっている。
真っ黒い夕焼けだった。
栗本秀美を思い出す時、その時、いつも、私は、自分が俳優になれなかった理由が何となく分かる気がする。
真に生きている理由を突き付けられたのかも知れなかった。
言い訳の出来ない夢の重み。
時を超えた今も、静かにそこに立っている。
夢の狭間に立っている。
私はまだ、その意味が分からないから、生きているんだろう。
そんな気がする。




