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余吟抄  作者: 森川めだか
16/25

泣かない君はいない

泣かない君はいない



 武田(たけだ)(たみ)(いち)(はや)(おか)美記(みき)は、カナカンダという駅に着いた。

車で、煙草を吸いながら、契約しておいたガイドの英俊(はなぶさしゅん)(すけ)が待っていた。

ここから150キロメートル。

人一人いない砂漠の向こうにその地はある。

「まさかドボコボ語が役に立つことがあるとは思いませんでしたよ。片手間に勉強していたくらいですからね」英はヘラヘラと笑いながら、ジープを運転しながら話した。

武田たちが来たのは、ドボコボという世界の辺境にある、誰からも見放された地だった。

これっぽっちもない資源も、未だ原始人並みの生活をしている住民たちにも、まるで魅力がなかったからだ。

その地である事が起こるというゴシップにもならない小新聞の記事が、武田とその助手の早岡を、この土地に呼び寄せたのだ。

そのある事とは、超常現象の一つ、ポルターガイストだった。

武田は戦場ジャーナリストだった。その時知り合った早岡とはそれからの付き合いで、現在は早岡は武田の助手をしている。

二人は、すぐにこの英というガイドを信用のおけない男だと思っていた。

武田は、今は戦場ジャーナリストを降り、オカルト方面の取材を専門としていた。どんなに胡散臭いところにでも行く。

昔の同僚から、小心者と呼ばれていることも知っている。

武田は自分が撮ったある一枚の写真をきっかけに、戦場ジャーナリストを辞めざるをえなかった。それは、宗教間での対立から生まれた内紛をしている国で、目の前で撃たれた女の子を、思わず抱き留めた時の自分の手の写真だった。血で汚れた手。もう死んでいた娘。笑いながら車で去って行く兵士たちの横顔。その時の気持ちを忘れまいと自分の手の写真を撮り、武田は戦場を去ったのだった。

それで今、超常現象の取材をしている。収入はほぼない。

早岡はそんな彼を見かねて、追ってきたのだった。

武田と早岡は、恋人だったこともある。まだ知り合って間もない、早岡がまだ駆け出しの記者だった頃の話だ。

今は、武田は43歳、早岡は35歳になる。

そんな二人の関係を窺うかの様に、いやらしげな目つきで英は後部座席をチラチラと見るのだった。


そこは、河が一本あるっきりで、乾燥した大地に木が所々に生えていた。

枝で作った大きなひさしの屋根に、布がぶら下がっている小屋、それが彼らの住居だった。

ここの住民たちは皆、一様に肌が異様に浅黒く、全身に布を何枚か巻いて服としていた。

一年中夏で、雨期も無い。だから、雨を見た事もない子供たちが大勢いると言う。

その村の長老に、まず一番に会わなければならなかった。

長老は長い白ひげをたくわえた老人だった。私が歳を尋ねると、長老が答えた。英の通訳によると、「50歳くらいだ」という話だった。武田はにわかには信じられなかった。自分とそれ程変わらないのに、長老はしわだらけの白髪で、立つことも出来ず、ずっと座ったままで、声もか細かった。死期が近い老人のそれであった。

私は長老にこの村で超常現象が起きているというのは本当か、と尋ねた。長老は「そうだ」と言う。

詳しく話を聞くと、ポルターガイストに限らず、不可思議な、あることがない事が起こると言う。長老の話している言葉に度々、「パシエストロ」という単語が出て来る。後で英に尋ねたが、それは現地語で、「悪魔のしっぽ」という意味だと言う。忌まわしいことを表すのに使われる言葉らしい。

始めに気付いたのは、小さな畑を耕す女だったという。その地で主に育てられている芋を掘っていた時、ボリボリという音を聞き、振り返るとまだ掘り返していないはずの芋が綺麗に地面に並べられていた。その女が驚き、近付くと、芋が一斉に火を噴いて燃え出したという。

最初は、芋を誤って燃やしてしまったその女の言い訳だと思われたが、そんな事があちこちで起こり出したのだという。

しまいには、軒先でボール遊びをしていた女の子が、急に倒れ、誰かに引きずられるようにして、河に落とされ、亡くなった。母親は猛烈なスピードで引きずられてゆく娘を悲鳴を上げながら追い駆けた。その一部始終を大勢の村人たちが見ていたのだ。

「この地が狂ってしまったのだ」と長老は言った。

まじないや、祈りの儀式を捧げたが、一向に「悪魔のしっぽ」は止まず、皆が怖がっているのだと言う。

私達はとりあえず、長老の横の小屋を借りて、そこで生活をすることになった。

美記は英と一緒に寝ることを嫌がったが、仕方なかった。

英は下らないことをやたらと話すお喋り屋だった。夕食の準備をしている時も、私達の職業を「イカサマだ」と笑い、からかった。

英は亀のように怠け者だ。

私達が通訳を頼みたい時にも、嫌々やって来る始末だ。

「で、何でそんな意義深いジャーナリストから、こんなオカルトまがいのことを取材するようになったんです?」芋のスープを飲みながら、英は聞いた。

「さぁ、どうだろうね」英には話したくなかった。

武田は、簡単に言えば自分の無力さに落胆し、人に辟易して、神に縋るような思いだった。

超越したモノ、力があるとすれば、人間は救われるのではないだろうか。

しかし、ジャーナリストだった武田は、インチキをすぐに見抜いた。

だから、これまで本当の超常現象には遭遇したことはなかった。

美記はそんな武田を昔、「現実に目をつむっているだけよ!」そう怒鳴られたこともあった。

しかし武田は、「僕には現実が何なのか分からなくなった」と寂しげに呟いただけだった。

今も美記はどう思ってるのか知らない。

「秩序なんかないんだ。今の世の中には」武田は続けて言った。

「大切なのはね、大切なことを忘れない才能だよ」と武田は言った。

美記はついて来てくれている。それには感謝している。

申し訳なくも思う。


ドボコボの夜は寒い。

それに青い月が出てて、不気味だ。

何やら外で騒ぎが起こった。

私はすぐにカメラを持って、外に出た。

少女が宙に浮いていた。

美記も写真を撮っていた。

私は慌てて、カメラの録画スイッチを押し、少女に合わせた。

それと同時に、二台目のカメラで集まって騒いでいる周りの人々を映していた。

その娘の母親と思しき女が、しきりに名前を叫んでも、少女は何も答えない。ピクリともしない。死んでいるのか? と武田が思った時、突然、ビュンッと激しい音をたてて、少女は横に吹き飛んでいった。

男達を筆頭に、住民たちがその方角に走り出した。

私は、一台のカメラを置いて、もう一台を手に持って、追い駆けた。

捜索の結果、少女はかなり離れた林の中で見つかった。見事に、首がへし折られていた。


遺体は、葬儀もそこそこに、土中に放り込まれ、砂をかけられた。

誰も泣かない。親兄弟でさえも。

どうやら、人前で涙を流すことは掟で禁じられているらしい。


英はこの出来事ですっかり縮み上がってしまった。

「俺はもうごめんだ。こんな村、出る。町に着いたら、また新しい案内をよこすからさ。悪いな」英は、そう言って荷物をまとめ、出て行った。

そんな英がしばらくして、小屋に帰って来た。

「どうした?」

「なんてこった。ジープが。・・なんてこった・・」英はそのままへたり込んだ。

英がジープを停めた所に行ってみると、そこにはわずかなオイルの跡しかなかった。

近くで子供を遊ばせていた男に聞くと、「ジープなら、もうとっくに鉄クズにされて、ガキどもが売りに行ったよ」と言われたそうだ。


「何も異常は見られない」私は一連の録画と美記の写真を照らし合わせて言った。

「何も異常は見られないだって!? あんなガキが空中に浮いてる姿を見て、何も異常がない?」英が食ってかかった。

私達はそれを相手にしないで、フィルムとネガを見比べていた。

「何の工作もない」私と美記の意見は同じだった。

「もうちょっと、・・様子を見てみよう」

「ハッ、何がもうちょっとだ! 俺らはここからもう出られないんだよ!」英が鍋を蹴り飛ばした。

武田は、「子供たちは歩いて町に売りに行ったんだろう? なら、僕らも歩いて帰れるんじゃないか?」と言った。

「馬鹿か、あんたは。ここまでの長い道のりを忘れたのか! あんたらは知らないだろうがな、ここらの住民どもは信じられない体質なんだよ! 飲まず食わずで何日も歩き続けられるんだ! 俺らは死ぬだけだ!」英はつばを飛ばして、怒り狂っていた。

「でも、・・」と美記が言った。英がキッと睨んだ。

「私達は一か月の契約でここの地に入ったのよ? 帰って来なかったら、捜索隊が来てくれるわ」

「お前らはどうかしてる。・・人を信じ過ぎだよ」と吐き捨てるように英が言った。

「そうでないとしても、ジープの部品を子供たちが売っていたら、さすがに怪しむだろう。きっと、誰かが助けに来てくれるさ。それまでは研究に集中しよう。」武田は美記に言った。

「きっと、誰かが、か。ハッ」英が横になって、煙草に火をつけた。

武田と美記はまた録画した映像を再生した。


英の態度があからさまに悪くなった。村人たちをぞんざいに扱い、村人たちはまともに話もしてくれなくなった。

私達三人は村で孤立した。


その夜は、不思議と熱帯夜で寝られなかった。

ズズと、何かを引きずるような音がした。

「うわあっ!」英が急に叫んだ。

英はうつ伏せのまま、足から何かに引きずられるようにして、床を滑っていた。

「助けて! 助けて!」絨毯を握り締め抵抗するが、絨毯ごと引きずられていく。

私は力いっぱい英の腕を引っ張るが、びくともせず、引きずられていく。

美記はただ怯えてすくんでいた。

英は半狂乱になって叫び声を上げ続けていた。

壁まで英が来た時、私達は確かに、見た。

確かに、英が、壁をすり抜けるのを。

上半身だけの英が「助けて!・・助けてくれ!」と懇願した。その直後スッポリと壁の向こうに引きずられていった。

私は急いで、ドア代わりの布を開け、走って英の名を呼んだ。

そこには何もなくなっていた。

英も、英を引っ張っていた「何か」も。


木の陰で英が死んでいた。騒ぎを聞きつけた村人たちも集まっていた。

英の死体には、口にいくつもの銀製のフォークが詰められていた。腹いっぱいにも銀製のフォークが詰まった状態だった。腹が奇妙に膨れて、フォークの刃が突き出していたから。

ここの地にはフォークなんて無い。ましてや、こんな大量の・・。死んで間もないはずなのに、英の死体からは腐臭がし、うじがわいていた。

死んだ英の姿を見て、村人たちは一様に指を差し、「ハナブサ」と言いながらゲラゲラ笑っていた。

美記は私にすがって泣いていた。涙を見せないように。美記が震えていた。

私は、写真を撮ることも忘れていた。

冷たい汗が全身に流れるのを感じた。


「逃げよう」私は美記に二人きりの小屋の中で言った。

「ここは危ない。研究どころじゃない。ここに何かあるにせよ、誰かがやっているにせよ、どうでもいい。死んだらおしまいなんだ」

美記は賛成した。私達は急いで、村人たちに気付かれないように最低限の荷物だけをまとめて、夜中に小屋を出て、走って河を渡す橋まで向かった。

そこで、ありったけのボトルに水を汲んで、歩き続けよう。そうしたら、行商にでも会えるかも知れない。このまま村にいても仕方がないだけだ。

そうして走って、河まで来た時、私達は唖然とした。

河沿いで橋が嵐にでもあったかの様にメチャクチャに壊れていたのだ。

橋は根元から引っこ抜かれ、渡りようのない河だけが流れていた。

「これもポルターガイスト?」言葉を失っていた武田に美記がそう呟いた。

「そうみたいだ」人間にできるものじゃない。武田はそう確信した。

私はそう思って、手の平で顔を拭った。

その顔を見て、美記が驚愕した。

「どうした?」私は聞いた。

「あなた、どうしたの、・・その顔!」美記が震えた声で指差す。

私は手を見た。

手の平から自然に真っ赤な血が滲み出ていた。

ああ、あの日と同じだ・・。

私は言葉も忘れて、笑い声とも泣き声ともつかない声を上げ続けた。


小屋に戻った私達は、力無く座っていた。

その時、遠くから歌声が聞こえてきた。

それはまだ埋葬されていない英の死体がある方角から、英の声で、歌われていた。

武田は頭を抱えて、絶叫した。

「何なんだ! 何なんだ、この村は!」

どうなってるんだ! と叫びながら、武田は小屋を走り出て、嘔吐した。

美記は泣き叫び、誰も助けてくれなかった。


それから三日たった。

今日は、少年たちが大人になることを祝う祭りらしい。

年頃の少年たちが三人、炎の前に並んで、その後ろを男女が勇壮に歌い踊る。

この時に限らず、音楽に身を任せるだけが彼らの常だった。

私と美記はそれを黙ってボンヤリ見ていた。

一人、一人、と少年が炎の中を走って渡る。その度にオオッと大きな歓声を上げられる。

最後の少年が炎をくぐって、私達の前に躍り出た。その時その少年は笑っていた。そして、私達に突然、日本語でこう囁いた。

「この世界はね、オーバルなんだよ」ククッと笑い声を上げ、その少年は踊りの輪の中に入って見えなくなった。

私達は互いに耳を疑った。確かに言った。日本語で言った。

私は立ち上がり、猛然とその踊りの輪の中に割り込み、あの少年を見つけ、捕まえた。

「お前か! お前は誰だ! この正体はお前か!」私はすっかり理性を失って叫び続けた。

少年はまだ笑っていた。

大人の村人たちが私とその少年を力づくで引き離した。

私はめちゃくちゃに殴られた。

気絶した私を介抱してくれたのは美記だった。


目を覚ました武田は、美記に言った。

「あの少年だ。・・あの少年だよ! 君も聞いただろ?・・彼は普通の人間じゃない。もしかすると、今度は私たちが殺されるかも・・」

「どうしよう」美記が泣き出した。

武田は起きようとしたが、無理だった。

「まだ痛むの?」美記が涙を拭いて聞いた。

「ああ・・あの少年と話がしたい・・」武田が言った。

「この期に及んで何言ってんのよ! 殺される・・。第一、どうやって・・」

「あの少年は超能力者だよ。無意識じゃない。確かに意図してやったことだ。そうすると、私達にも興味があるだろう。すぐには殺しはしないさ。きっと、・・奴から何らかのシグナルが来るはずだ」


二日経って、三日経っても、何もなかった。ようやく、武田は歩けるようになった。食料品は全部、食べ尽くしてしまった。美記は外に出たくないと言う。

武田は恐る恐る長老の小屋に行って、少しばかりの食料を分けてもらいに行った。

長老は私の顔を見るなり、露骨に顔をしかめ、何やら言った。何を言ったのかは分からなかった。

私は身振りでお腹が空いている、食料を分けてくれと頼んだ。

長老は側にいた若者に何か言って、若者が芋を何本か武田に手渡した。その時、その若者も嫌そうに何か言った。

私は頭を下げ、無言で小屋を後にして、美記が待つ小屋に帰った。

二人で芋の皮を剥いている時、美記が叫んで、芋から手を離した。

「どうした!?」

「こ、・・これ・・!」美記が転がった芋を指差す。

武田が拾い上げると、剥いた芋の表面に、日本語が焦げた跡で書かれていた。まだ焦げ臭かった。

「僕のこと探してるでしょ? あなたたちのいる小屋から見た三本のねじれた木の下の小屋に僕はいるよ」そう書かれていた。

「とうとう、来たか・・」武田はそう呟いた。

その直後に武田達のいる小屋が小刻みに揺れ始めた。カタカタと皿がラップ現象を起こした。それは笑っているみたいだった。

小屋から外を覗き見ると、三本のねじれた木の一本の枝の上で、あの少年が手を振っていた。

忌々しく思えて、私は小屋の入り口の布をバサッと閉めた。


それから二日たった昼のころだった。突然パサパサパサッと小屋の天上から木の葉が降って来た。

それは集まって文字になり、「きて」と書かれていた。

「行こう」意を決して私達は、少年のいる小屋に向かった。

村人たちが皆、私達を避けている。どうでも良かった。そんなことは。

私の手は僅かに震えていた。

小屋まで着いた。

布を開けると、少年一人が笑って待っていた。

「やあ」と少年は言った。

「お前は誰だ」私は聞いた。

「ねえ。人にも想像できないんだから永遠なんてないんだよ。そう思わないかい?」少年は言った。

「お前は何者だ」

「しつこいなあ。僕には名前なんかないよ。でもさ、面白いこと考えたんだ。外に出てごらんよ」少年は私達の間をすり抜け、布の外に出た。私達もそれに続いた。

「帰れなくて困ってるんでしょ? 僕さ、こんなことも出来るようになったんだ」と言って、少年は天に指をかざした。

すると、にわかに薄曇りになって来て、急激に寒くなってきた。

「温度も下げられるのか・・?」私達は寒くてガクガク震えていた。

「こんなの見たことあるだろ?」少年は一段と高く腕を天に伸ばした。

チラホラと白いものが天から、降って来た。

「雪・・・・」美記が声を失くしたように呟いた。

それは確かに雪だった。どんどんその量は増し、ついに吹雪になった。

村人たちは大騒ぎして、皆、雪から身を隠すように、自分の小屋へと駆け込んで行った。

雪を降らした少年は、凍えても震えてもいなかった。ただ楽しそうに笑っていた。

私達も凍死してしまうと思い、少年を残して、小屋へと急いだ。

小屋の中で私達は抱き合って温め合った。

吹雪は夜まで続いた。


私達は雪が降り止んでから、しばらく待って、急いでありったけの布を体に巻き付け、防寒着にして、小屋を出た。

外には誰もいなかった。

何かを祈るような不思議な響きが聞こえてきただけだった。

私達は積もった雪を食べながら、長い長い道のりを息絶え絶えになって町に辿り着いた。

二人とも足に凍傷を負ったが、お互い意識ははっきりしていた。

酷い状態の私達を見た人たちが、地元の診療所に連れて行ってくれた。

そこの医者は凍傷なんか診たこともなかっただろう。適当に包帯を巻いて、帰らそうとした。私は電話はあるかと身振りで尋ね、借りさせてもらった。

すぐに日本に連絡をとって、ただ帰りたい旨を伝えた。


それからすぐに最寄りの街から日本大使館の人が来たが、私達は真実を話さなかった。

頭が変になったと思われるに決まってるからだ。

「ドボコボで、・・雪、・・降りませんでしたか?」私は帰りかけたその人に最後に尋ねた。

「は?・・いや、ハハ。そんなことありえません。あそこの気象情報は取っていませんが、一年中夏ですからね。ハハハ」その人は笑い飛ばして、日本に帰るための日程を渡して帰った。

カメラも何もかも置いて来てしまった。

ただ、私達は悔やまなかった。

美記は安心してか、泣いてばかりいた。

それさえ嬉しかった。


日本に帰って、しばらく経ったころだ。美記に言いづらいことだったが、英のことを話した。

だが、美記はキョトンとして、「誰、それ?」と聞き返したのだ。

美記にはあそこに行っていた間の記憶が一切無くなっていたのだ。

その頃、何していたかを尋ねると、不思議そうに美記は言った。

「退屈な毎日だったわ。毎日毎日、あなたのために新聞をチェックしたり、写真とかを整理したり、・・ただ、あなた忘れちゃったの? 映画に誘ってくれたじゃない。ほら、最後に朝日が昇って、君のためにも朝が来る。って言うやつ。面白かったね、って・・本当に、忘れちゃったの?」美記は聞いた。

武田は何も言えず、押し黙った。

私の頭からも、いつしかあの記憶が一切無くなるだろう。

何も残さないつもりなのだ。

あいつは。


この頃、フォークを見ると何か思い出すような気がする。

この頃、雪を見ると何か思い出すような気がする。

何か、忘れているような気がする。


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