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余吟抄  作者: 森川めだか
12/25

もう大丈夫

もう大丈夫

     


Choco


 (せき)夕子(ゆうこ)はカップを持ちながらCくんのことを思い出していた。私の初恋の人。今好きな人に悪いと思いつつも、大人になったからなのかこの頃よく思い出す。

CUPをくれたから。ただのCくん。ただの白いカップ。

雨の日はこのカップで窓際でコーヒーを飲むことにしている。外は大げさな雨だ。

16歳の頃だったか。明けない夜はないというが暗い夜は暗い。一生に一回しか会えないから一期一会というのか。

芝浦から台場にまたがるここのマンションからは夜景とそれを囲む糸のような車の灯が見える。夕子はカップを持ちながらスプリングブックを開いて今日の予定を見る。ただの大学ノートなのだが使い易く重宝している。

カップを置いたら携帯が鳴った。初めて見るメールアドレスでこう書かれてあった。

「失礼だとは思いますがあれでしたら読み飛ばして下さい

驚かれたとは思いますが警人のことを知っていますね?

不肖の夫のことですがあなたの所に行っていませんか?」

警人(けいと)とはさっきも思い出していた初恋の人の(なだ)警人のことだ。結婚していたのか。

夕子は返信しなかった。送り人は真砂(まさご)となっている。今日初めて来たメールがこんな物だとは。どんな大人になっているだろうか。

夕子はホタル族になってベランダに立っていた。私が見ていたのは安全反射ベストのリフレクターだったのか。夕子は大学の教員をしている。専門は米と人のくらしだ。

警人が住所不定の夫だとは笑える話ではないか。もう何年も会ってないのに真砂はどうして私のことを知っていたのか。警人も私が初恋の人と言っていたのか。何で警人でさえ私のメールアドレスを知っていたのか。

夜の鏡には幽霊が映るという。思い出も幽霊のような物ではないのか。悪い物を見た気がする。

急に初恋の世界から現実の世界に引き戻されたような、そんな体の中の熱。

充満した夜にこの灯は差し色か。夕子はリップを塗った。滑った部分を拭き取って住所が決まってない夫を探しに行こうと思った。

夜に山が動く、月を隠すこの世界は夕子の作った嘘の世界なのだから。

芝浦から台場にまたがる橋を渡って、助手席にはスプリングブックを入れたエディターズバッグ。手探りで煙草を探した。車内にはジルバがかかっている。リフレクターを着た道路工事を追い抜いて夕子は世界のどこにもない島に来た。

もし別の世界だったら探したりしない。

大学の教員になる前はイラストレーターになりたかった。どこかで見た絵しか描けないので断念した。

久しぶりに煙草に火をつけてスプリングブックに絵を描いた。その世界で警人は奴隷にされていた。肩にリフレクターを付けて16歳だった。

橋の下はいつも雨が降っている。夕子は大学の近くの月極駐車場に車を停めエディターズバッグをかけて煙草を厚底で踏み潰した。

どこかで見た絵。三流の河が流れている。

「探すのをやめた時、見つかることもよくある話で・・」

モノにならないな。空に溶け込めればいいのに。

警人を見つけた。三流にもならない川で押し流された真砂を探しているのだ。

「ガキ一人救えないようじゃ」警人は呟いた。

夕子は警人の胸ぐらを掴んで立たせた。

「やられてばかりでかっこわるい!」

目にチリチリ星が浮かんだ。力んだ時目に現れる星のようなもの。自分で勝手に命名した。


Late


「Cくん、覚えてる? 私にさ、あのカップくれたの」

車内で警人は子供のように窓の外を見ていた。

仕方ないので夕子は携帯を見た。充電が減っている。メールが来たからか。

「20年の遅刻よ」

言いたいことの半分も言えない自分の手さえ悲しい。新しい道ができるのか。夕子もリフレクターを見つめた。

警人をマンションに連れて来て、「奥さんに電話しなよ」と言った。夕子はホタル族になりに行った。

「どうしたの? 電話のかけ方も分からないの?」

窓の中で警人は指をいじっている。夕子が窓を開けると、「取れた」と言った。

「何て言ってた? もう帰るんでしょ?」

帰ってよ。警人はまた「取れた」と言って、夕子に中指を見せた。血が爪の間に滲んでいる。

「ささくれだったの、真砂さんって」

目に枯れ吹雪が浮かんだ。これもチリチリ星だ。

「ありがとう、セキノ」そう言って私の「初恋」は去っていった。

ホタル族の私はザリガニの匂いの息。

「あ、雪が降ってる」

米をとぐ音がして、お隣のベランダを見ると奥さんが炊飯器の釜だけ持って夕子と同じ様に雪を見ていた。

「冬り過がりの者ですよ」

奥さんはそう言って、ひっこんだ。

夕子は笑いが収まらなくなった。ヒーヒーとお腹で息をしてそれが何なのかも分からなくなった。

誰に聞かれてもいないのに「もう大丈夫」と繰り返し、三度目の「もう大丈夫」は自分のためだった。


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