ミネストラーノ
ミネストラーノ
初めはただの興味、好奇心だった。
「まだライト点けてんのか」車、夜明け。
外に出ると今日も噴気コックの音が噴き付ける。
ソカは手をすり合わせた。
夢のカリフォルニアが聞こえてきそうな冬の朝だった。
ソカは探偵をやっている。失業率が上がる中で仕方なくのことだった。
今日も郵便を開けて、何も来てないことを確かめて階段を上がる。
ソカと母、ニーリーの部屋は101だが、一階が駐車場になっているので二階になる。
ソカの母はボケている。軽くボケているのだ。
まだ言う事はしっかりしている。
ただ、こういう事がよくある。
「もう食べた」
「まだ食べてませんよ、お母さん」
普通は「まだ食べてない」と粘るのだが、食欲のなかった母だ。これで誤嚥性肺炎で亡くなることもないだろう。
苦労して食べさせたせいでソカの方が食欲がなくなる。
探偵の仕事は皿洗いから、とニーリーに言われている。ニーリーも探偵をやっているのだ。
先頃、ユリシーズの初版本をジャック・レモンに盗まれた。
心臓の形に矢を通したトレードマークの女盗賊、ジャック・レモンはこの街、マホトキを騒がせていた。
次はフィガロの結婚が狙われていると聞く。
油だらけになった手を拭くともうニーリーがサイドトライクのサイドカーに収まって「行くよ」と手でやっている。
「今日は仕事はありませんよ。もう忘れたんですか」
この僕らがジャック・レモンを捕えるような事があったら大手柄だ。人騒がせな。
「僕は行く所がありますからね」
ニーリーを下ろして、ソカは七マイルヤングストリートを歩く。違う意味で手をすり合わせて。
ソカはレモンとのラブチェアを思い浮かべる。可愛い人だ。
ニーリーには恋人を隠している。それがレモンだ。
七マイルヤングストリート、略してストリートはモノトーンだ。
これじゃなきゃだめなんだ。ソカはレモンを膝の上に下ろして抱きしめる。
二人の愛の巣には天使の置き物が置いてある。
「全くお母さんには困らされるよ」
レモンが皿洗いに立った。
「僕がやるよ」
「いいの。私がやるわ」
「君にはきっとサンタクロースが訪れるね」
ほっぺにチューをした。
ストリートに出て、ダイオードの明かりの下で二人で星を見た。
「君の方が・・」と言いかけてやめた。
空は残酷な月の涙。
砕いたダイヤモンド。
サイドカーに母を乗せ走っていた。
フィガロの結婚が盗まれた。
「ここからはオートバイでは行けません」
「え、何で?」
「シャトルバスで出てますから」
どうやらジャック・レモンに盗まれた美術館は観光名所になってるらしい。
バスは満員だったのでニーリーは補助座席に座った。
フィガロの結婚の前には心臓の形に矢を通したトレードマークが残されたままになっていた。
「次は・・「せかいのやくそくをいただく」?」
「せかいのやくそく」とはドリーム、寝て見る夢のことだ。この街の誰もが探している。
「私たち、夢が見れなくなったらどうしたらいいの!」
「ジャック・レモンに狙われたら・・」
「あの、ジャック・レモンだもんねえ」
「他に盗まれた物はありませんか?」やっと自分の順番が来てソカは聞いた。
「はい」
「その、手に持っているものは?」
「ジャックと豆の木でございます。空いた所に飾ろうかと」
「草の根を分けてでも・・」警察が話している。
「何か気になる事でも?」
「いえ、ニーリー」
ニーリーはまだ絵を見ている。
「「せかいのやくそく」とは考えたね」
レモンは二人の部屋でシフォンケーキを作っていた。
「作り方で調べたんだけどね・・」
「レシピで調べればいいんじゃないかな」
二人の手が重なって卵白を混ぜた。
恋煩いは「町医者には治せないね」。
「ねえ、ソカにとって一番って何?」
「僕と君、ときどき母、かな」
「帰らなくていいの?」レモンは足の親指を伸ばした。
「これ、持って帰ってもいいかな」
ニーリーはシフォンケーキを甘そうに少し食べた。
「あの子は偽悪だね」
「偽悪って何ですか」シフォンケーキの皿を洗いながらソカは聞き流していた。
「ま、悪ぶるってことだよね」
「そんな必要ありますかね」洗った皿を置くとワークトップに水が滴った。
「もう食べた」
「ええ、食べましたね」
ニーリーは横になった。
小雪の降りかかるストリートは影を描いて。
ニーリーは夢を見るんだろうか。
母も診てもらってるし、明日はドクターニッケルに話してみよう。どこからか来た犬が寄ってきた。
「おいおい、僕はエサじゃないよ」
服の中に入ろうとする。
「そんなに寒いのか」
医者は何もしてくれない。
「ドリームは見つけちゃいけないんですよ」
「「せかいのやくそく」のことですか」
「夢に嘘は持って行けないのでね」ドクターニッケルは灰皿に灰を落とした。
「何か気になる事でも?」
「いや」
帰りにアメリカンカットにしてもらって、レモンの所へ行った。
「よく似合ってるわ」
美しい大事な人。
「みんな、「せかいのやくそく」を探してるよ」
天使の置き物を撫でた。
空は紺青に広がってダイオードの明かりみたいだ。
カンディンスキー柄の空。
「こんな言葉を知ってる? 人生は近くから見たら悲劇だが、遠くから見れば喜劇であり欠陥商品である」
「さあ、知らないな」
「知らなくて正解」ソカはレモンのその細い手を取った。
「宇宙は形がないから作られたのだとしたら、君の方が・・」
レモンの瞳はうるんでいた。
それでも腹は減る。
101に帰って、ミネストローネを食べていた。
「寝てなかったんですか」
「その髪型、どうした」
ソカはラダーを上る。ラダーの上に自分の寝床があるからだ。
狭い天井はハートを盗まれたトランプのように凹凹だ。
「せかいのやくそく」・・「せかいのやくそく」・・。
「ああ、分からない!」
何か壊したい。たまりかねず鉛筆を折った。
母ももっと放縦になれたら楽だろう。
また末の光、七マイルヤングストリートは過去も未来もない異世界のように見えた。
起こしちゃいけないからミネストローネの皿洗いはやっていなかった。
またソカはバスに乗っていた。折りたたみの補助座席の上にニーリーが乗っている。
「せかいのやくそく」がとうとうジャック・レモンの手によって盗まれた。
さようならなんて言わないで。バスの中で、窓を見ながら、はためく空を見た。
現場にはまだ心臓の形に矢を通したトレードマークが残されていた。
「何々・・「これからはいい子でいます」ジャック・レモン」
空は雨が降っていた。
「せかいのやくそく」はこの傘の上に。
帰りもバスで帰った。
ラブチェアに帰ってきた。
「疲れた?」
「もう食べた」
ソカは立って、窓際に椅子を置いた。
「最悪の最、だ」
カーテンを開けた。
「いつから気付いてた?」
「今だよ」
キミガ・・ジャック・レモン、ダ、ッタ、ン、ダ、ネ。
「サンタクロース」ソカは自分が笑ってるとは思わなかった。
「誰を愛してた?」
「――馬鹿ね」
「天の裁きを待つよ」
ストリートには季節風が吹いている。
乾いた風だ。
101では母がサイドカーに収まって「行くよ」とやっている。
それをソカは見ていた。
かれきだ。
ソカはニーリーを下ろした。
「今日は・・」
「噓つきは泥棒の始まり」
ミネストローネにレモンは欠かせない。
シャンシャンシャンとサンタクロースが来る。どっちかというと幼稚だ。
ラダーを下ろして、ミネストローネの洗ってない皿を割った。
「僕は行く所があるのでね」
サイドカーに、補助席。
「お母さん、何でそんなに遠慮してるんですか」
汚れちまった悲しみはタトエ。
「何か気になる事でも?」
死因、中毒死。ため息が詰まりすぎて。
「後ろ貸してくれるかな?」小さい頃の僕に。
おじちゃんもキーキーのるの
のるよ
いいよ鎖を首に巻いて。
きーきー・・
きーきーぎい
止まった。




