Monday⑧「教授様」
名前っていうのは大事なものだ。
名前がないとオレたちはその人やものを認識出来ないからだ。
名前をつけて、他のものと区別することで、オレたちは対象をそれと認識するんだ。
だから名前はとても大切なんだ。
オレは抱えている銀色の子犬を見つめる。
体や顔は生まれたてであることを示すように小さいが、その顔にある2つの眼は割かし大きくてくりくりしている。
それがとても愛らしい。
銀色の毛並みも珍しく、鳴き声もちょっと変わっていて「きゅ~ん」なんて鳴く。
頭を撫でられると嬉しいらしく、撫でられるともっと甘えた声で鳴く。
右耳はピンと立っているのに、左耳はぺたんと垂れている。
そこもまた子犬らしさが出ていてまたかわいい。
そんな子犬を見る度にオレの表情筋は収縮を緩め、口と鼻の距離が長くなってしまう。
エレ曰く『だらしない』という顔へと変貌してしまうことになるのだ。
そんなオレにとって幸せをくれる存在になっている小動物にはどんな名前が適するだろうか。
「きゅん?」
オレにじっと見られていることに気づいたのか、不思議そうな顔で子犬は鳴いた。
子犬と目が合う。
大きな瞳に映った自分の顔はやっぱりみっともなかった。
「ランス!ねえ、聞いてるの!ねえ、ランス!」
「あ・・・・ああ、えっと、何?」
オレはだら~んと垂れ下がっていた頬のまま、焦点の定まらない目で声の主を見上げた。
両眼に映ったのは呆れた顔をしたエレの姿だった。
机の前で仁王立ちする格好で、オレが幸せを満喫している姿を眺めていたのだ。
「ふぅー・・・・」とため息で前置きしてから、エレは少し声色を変えて、
「『何?』じゃないわよ、まったく・・・・ホントに子犬相手だとだらしなくなるんだから。自分で『名付け親になってやるよ!』なんて宣言しておいて、ぼぉ~っとして。早くそのみっともない顔を何とかしなさい」
命令口調でそう言うと、エレはオレが慌てて弛緩していた顔の筋肉を元に戻している間中、ジロッと睨みつけていた。
「しなさい」なんてまるで口うるさい母親みたいな口ぶりだな・・・・
・・・・なんてことは思っても、オレはそれを口にはしなかった。
いや、出来なかった。
加えてエレは『』のとこだけ声色を変えていた。
本人はオレのモノマネをしたつもりなんだろうが、お世辞にも似ているとはいえなかった。
だけどそれを指摘したりなんて真似もやはりオレには出来なかった。
もし「お前、おばさんみたいだな」とか「全然似てないぞ」なんて口走ってしまったら、どうなるか。
オレはきっと子犬を抱えたまま天国へ行ってしまうのだろう。
あ・・・・でもそれでもいいかも。
だって『子犬LOVE症』末期患者のオレにとって、それは真の意味での天国だからな。
死ぬなら『もふもふ』した子犬に囲まれながら。
今も昔もその信念は変わらない。
頭をナデナデしたり、頬にすりすりしたり、ペロペロなめられたり・・・・・
あぁ・・・・幸せすぎて死んでしまう・・・・
って、すでに天国なんだっけ・・・・あははは。
でも天国行きのチケットを手に入れる前にあいつの蹴りを食らうのは勘弁だな。
あの『黄金の右足』から繰り出される一撃をくらったら牛や熊だって、いや、もっと凶暴なモンスターだって地に臥してしまうからな。
恐ろしい、恐ろしい。
オレは物騒な考えを止めて、現実に意識を戻した。
「分かってるよ、名前だろ。今、考えている最中なんだ。ちょっと待ってくれよ」
どうせつけるならカッコイイ名前が良いからな。
熟慮に熟慮を重ねて慎重に決めたほうがいいに決まってる。
オレが『脳内会議』に議題として提出しようかな、なんて考えていたとき、明らかにしかめ面だったエレの表情が変わった。
こいつはいつも、何が面白いのか、ニコニコ楽しそうにしてる奴だけど、今日もいつもの笑顔でオレに向かって、
「フフッ・・・・実は私にいい案があるんだけど」
目を輝かせながらエレは自身が言う『名案』を披露した。
「この子の名前なんだけど、『ショコラ』っていうのはどう?とってもかわいいでしょ!ね!」
エレはオレと子犬を交互に見ながら何度も「ね!」と同意を求めてきた。
「ね!」って言われてもなぁ・・・・
オレは顔を引き締めるのに夢中で、リアクションが取れなかったが、子犬のほうもノーリアクションだった。
しかし、そんなことお構いなしにエレは何度も「ショコラちゃん♪ショコラちゃん♪」と呟き始めた。
勝ち誇った顔で。
完全に目の前の、オレの両腕で大人しくしている子犬の名前はこれで決まり!・・・・みたいな顔で繰り返し口にしている。
オレや子犬に暗示でもかけようとしているのか、こいつは。
オレは顔の筋肉が完全に元に戻ってから、さっきまでエレがしていたようなしかめっ面を返した。
「ショコラって・・・・それはお前の好物からとったんだろ・・・・そんな甘ったるい名前、却下却下!」
名付けられる張本人はきょとんとしたまま黙っていたが、オレはすぐさまエレの提案を破棄した。
エレは昔から甘いもの、特にチョコレートが大好物なんだ。
それもチョコを包んだクロワッサンである『ショコラティーヌ』は毎日食べても飽きないらしい。
その証拠に今日もどこぞの早起きなパン屋で購入してきたそれをうまそうに食べていた。
オレも甘いものは好きだけど、エレと違ってチョコよりも『あんこ』のほうが好きだ。
しかもあんこたっぷりの大福ならもう最高だ。
かといって大福にちなんで名前なんかつけられない。
『大福』からはどうやったっていい名前が出てくる気がしない?そうだろ?
オレが『NO』を告げると、エレは「だったらランスはどういう名前がいいのよ!」と突っかかってきた。
どうも自信満々だったらしい意見があっさり却下されて機嫌を損ねたようだ。
これ以上怒らせると本当に天国に行ってしまう。
オレは頭を傾げて熟慮する仕草を示した。
もちろん頭ではさっきから脳内会議が開かれている。
議題は『そこの子犬さん、What is your name?』
・・・・・・・相変わらずふざけたタイトルだけど、議論はまともにやっているみたいだからまあいいか。
会場では様々な提案が飛び交っていた。
良い名前だな!なんて感心する意見もあれば、何だそれ・・・・なんて呆れる案までピンキリだが、オレはその中から最も相応しい名前を抽出した。
「そうだな・・・・あ!そうだ!『フェンリル』っていうのはどうだ?かっこいいだろ!こいつにピッタリだな!」
みんなもかっこいい名前だと思うだろ?
こいつにピッタリだと思うんだ!
オレは子犬に向かって「な!」と同意を求めた。
「・・・・・きゅ~~・・・・・」
子犬の反応が寂しい。
微かにしか聞こえない声は明らかに今までの甘い鳴き声とは程遠い。
しかもオレから顔を逸らすというおまけ付きだった。
これはオレの意見が却下、すなわち『そんな名前をつけられるのは嫌だ』という意思表示であることは手に取るように分かった。
予期していなかった反応に、オレは気持ちがず~~んと沈んでいくのを感じた。
なるほど、さっきのエレの気持ちがよく分かる。
オレも自信があって提案した名前だったからな・・・・・
「この子、そんな名前、気に入らないってさ。クス・・・・」
地に向かって急降下していたオレの気持ちに、エレはさらに追い打ちを与える言葉と笑みを送ってきた。
「センスないんじゃない?」
まったく遠慮のない、容赦ない奴だ。
「そんなこと分かってるよ・・・・いちいち言うなよ・・・・」
最近ではトリスの奴にも言われているが、エレには常日頃から『鈍感』呼ばわりされている。
認めたくないが確かにそういう場面が間々あることは事実だった。
そんなオレでもこれくらいは分かる。
落ちていた気持ちは落ちるだけに留まらず、地中に潜り始めてしまった。
もはや今のオレを慰めてくれるのは手のひらに伝わる触り心地、『もふもふ』した毛並みがおりなす極上の感覚だけだった。
そんなオレの姿に満足したのかエレは、ひととおり笑った後、急に真面目な口調になった。
「ねえ、ランス。そもそもこの子は男の子なの?それとも女の子なの?それが分からないと名前なんてつけられないじゃない」
見事に的の真ん中を射抜いた矢のような意見だった。
確かに・・・・そう思わざるを得なかった。
オレは子犬を拾ってから学園に来るまで、この子犬がオスかメスかなんてまったく気にしていなかった。
ただ『子犬』でありさえすれば、それ以外はどうでもよかったのかもしれない。
「それもそうだな・・・・そういやオレ、こいつがオスなのかメスなのか知らなかった・・・・まあ、オレは子犬ならどっちでもいいんだけどな!あははは!」
オレは腕の中で丸くなっている子犬の体をさわりながら、再び顔が緩みそうになるのを堪えていた。
「なに呑気なこと言ってるのよ。大切なことじゃない。もし、この子が女の子だったら、『フェンリル』なんて断固却下よ。私の『ショコラ』ならピッタリじゃない」
エレは再び自分の案を引き合いに出して、オレの提案を破棄し返すと同時に性別の重要性を説いた。
「それにランス、『オス』とか『メス』とか言うのは止めて。ペットは家族なんだからね!」
オレはエレの言葉に違和感を覚えずにはいられなかった。
普通、人間に対して『オス・メス』と言う者はほとんどいない。
まあ、悪口として使う場合もあるかもしれないが、汚い言葉だから使いたくないな。
それに対して、雌雄同体とか性別が意味をなさない生物は別として、動物に対して『オス・メス』の呼称を用いるのはごく普通のことだ。
みんなだってペットや動物園の動物たちを『オスの・・・』、『メスの・・・』って言うだろ。
だからオレは動物である犬に対しても『オス・メス』の呼び方でなんら不都合なことはないと思っている。
しかし、目の前の女はそれを許さないらしい。
「はぁ?動物なんだからどっちだっていいだろ?そんなこと!」
オレはくだらない論争はしたくなかった。
『オス・メス』でも『男の子・女の子』でもどっちでもいいじゃないか。
好きなほうで呼べばいいし、そんなの個人の自由だろ。
オレはあからさまに大きく息を吐いたが、エレのほうは息ではなく言葉を勢いよく吐き出してきた。
「よくないの!あなたはこれからその子と暮らすんでしょ?新しい家族なんだから対等の関係でしょ!ランスだって『オス』なんて言われたら『キレる』でしょ?」
エレの目がマジだ。
まるで先生のように上から諭すような物言いと態度。
どうやらオレが負けを認めるまで、『生徒』であるオレが『先生』の言うことを聞くまで徹底的に論争する構えらしい。
こりゃあ、勝てない・・・・・
オレは瞬時に悟り、白旗を振った。
「う・・・・分かったよ・・・・」
納得いかないが、これ以上戦っても勝ち目はない気がした。
理由はないが、オレはそうとしか思えなかった。
長年・・・・といっても10数年だけど、の経験ってやつかな。
チェッ・・・・でも、転んでもただでは起きないぞ。
「でも名付け親はオレだぞ!意見は聞くけど、最終的に決めるのはオレなんだ!それに、もしこいつがオス・・・・」
エレの視線がギラリと光り、オレは慌てて修正する。
「・・・・男だったら『フェンリル』で決まりだ!いいな!」
オレは精一杯の喧嘩腰でそう言い放つと、抱えていた子犬の脇を持ちながら高く掲げた。
「何をするつもりなの?」
エレが不思議そうに聞く。
なに言ってんだよ・・・・このお嬢様は・・・・
あれだけ『♂♀』言っておきながら、オレが今からしようとしていることが分からないのか!
どっちが『鈍感』だ!まったく!
と、オレは心の中で叫んだ。
「決まってんだろ!白黒つけるために性別を確かめるんだよ!こうして下から覗けば・・・・」
オレは子犬の後ろ足に隠れていた性別の『証』を探した。
ところが、途端に子犬は体をバタつかせて、中々『どっち』なのか教えてくれない。
「おいおい・・・・そんなに暴れたら・・・・」
「きゅーーーん!!!」
耳をつんざくようなまるで悲鳴のような鳴き声だった。
しかし、その声を最後まで聞く前にオレのほうが悲鳴をあげる羽目になってしまった。
ガリガリガリ!!!!!
「だぁーーー!!!痛っっってーーーーー!!!!」
子犬は怪我していた右後ろ足も元々元気だった左後ろ足も激しく振り回した結果、オレの顔にいくつもの赤い『線』ができてしまった。
「何するんだよ・・・・また血が出てる・・・・なあ、何でこうなるんだよ・・・・?」
これで子犬には都合2回引っ掻かれてしまったことになる。
最初は手で、次は顔・・・・・
オレは納得いかない気持ちとわけが分からない気持ちと顔の痛みから、情けない顔でエレに尋ねた。
しかし、エレの表情には同情の念も哀れみの感情も表れていなかった。
至極、冷静な表情。
まるで裁判所の判事みたいだった。
「簡単よ。でもこれではっきりしたわね。この子が女の子だってことが。それにしてもなんて野蛮な人なの!あなたは重罪を犯したのよ!人間でいったら、女の子のスカートの中の・・・・・」
ここまで言うとそれまで鬼判事だったエレの顔は次第に紅潮していった。
まるで赤鬼だった。
「と、とにかく!いやらしいことするからよ!『セクハラ』よ!」
エレは急に慌ててオレを指差しながら、何かを誤魔化すように『セクハラ』を連呼した。
鈍感の次はセクハラですか・・・・・・
これに『遅刻者』のレッテルを合わせて、オレはあとどれだけ負の肩書きを持ってしまうのだろう。
でも『鈍感』『遅刻者』の2つはともかく、今回のは絶対におかしいだろ?
「セクハラって・・・・相手は犬だぞ!そんなこと関係・・・・」
エレが再びギロリと鋭い視線という名の『刀』をのど元に近づけた。
これ以上、口を動かしたらあっという間にのどを貫かれてしまいそうだった。
オレは急いで空いている手で口を塞いだ。
エレはオレが口答えをしなくなったことを確認すると、焦った『判事』の顔から口うるさい『母親』の顔になった。
「犬でも女の子だってことよ。ランス、この子に謝罪しなさい」
エレは子犬に向かってニコッと笑いかけてから、「この可哀想な女の子にね」と付け加えた。
・・・・刃向かったら命はない。
ここも素直に従うのがやはり得策か・・・・
というか、オレはエレにまったく歯が立たないのか・・・・情けない・・・・
オレは冷や汗が出るんじゃないかというくらい緊張しながら、自身の未熟さ、脆弱さを呪った。
子犬を見ると、この『女の子』はオレと目を合わせてくれず、支えている腕にはわずかな振動が伝わっていた。
震えているのかな・・・・・
「・・・・ごめんな・・・・そうか・・・・お前は女の子だったのか・・・・ごめんな・・・・」
エレに『セクハラ』呼ばわりされるよりも、子犬に冷たくされたり、怯えられたりするほうがオレにとっては大ショックだった。
嫌な思いをして震えてしまった子犬にオレは何度も小さな声で謝罪を述べた。
「素直でよろしい。そしてその子の名前は『ショコラ』に決まりね!」
腕を組んで勝ち誇ったかのように、エレは『勝利宣言』した。
この女はもう『名付けコンテスト』に優勝して、表彰台の一番高いところで手を振っている気でいるようだ。
それは困る。
『セクハラ』とか謝罪は百歩譲っても、これだけは一歩も譲るわけにはいかない。
「なんでそうなるんだよ!!さっきも言っただろ!!名付け親はオレだ!オレが子犬の名前を決めるんだ!」
オレはこの『女の子』から気に入られているんだ。
オレもこの子を気に入っているし、もう家に一緒に帰る気満々なんだ。
もうお金がどうこうなんて関係ない。
場合によっちゃ、バイトだって何だってするさ!
オレの迫力に、今まで完全に優位に立っていたエレはわずかに表情を曇らせた。
「・・・・じゃあ、どんな名前がいいのよ?『フェンリル』は明らかに男の子向けでしょ」
それもそうだ。
名付け親を主張するならそれ相応の覚悟を持たなければならない。
すなわちちゃんとこの子に適した名前を考えなければならないのだ。
「う・・・・ちょっと待ってろ。今すぐピッタリなかわいい名前を考えてやるさ!!」
脳内会議、再開だ!!
オレは再び、『そこの子犬さん、What is your name?』と題された会議場に足を運んだ。
しかし・・・・・
『・・・・・あれ?誰もいない・・・・』
会議場にはいつも色々な意味で活発な議論を展開する議員どもの姿がなかった。
議長席に議長の姿もない。
代わりに議長席の後ろにある議決案を表示する掲示板にはこう書かれていた。
『本日は終了しました』
は?終了?
なんだそりゃ・・・・・
つまりはオレの脳細胞はもう子犬の名前候補を考えるだけの力も残っていないということか。
まだひとつしか案を出していないのに・・・・・・
「やっぱり『ショコラ』で決まりね!」
エレはニコニコしながら、オレが考えあぐねている様子を滑稽なものでも見るように眺めている。
オレが負けを認めるのを今か今かと待ち構えているんだ。
腕にはやっと落ち着きを取り戻した子犬が、再び体を丸めてゆっくりと呼吸している。
「駄目だ!オレが決めるんだ!!」
これだけは負けるわけにはいかない!
子犬の名前をつけるという大役、この権利だけは手放すわけにはいかないのだ!
「う~~~~~~ん・・・・・」
しかし、思えば思うほど、考えれば考えるほど、新たなアイディアではなく焦りだけが湧き上がってくるばかりだった。
・・・・何も浮かばない。
何もアイディアが出てこない。
どうして?
別に国の経済を立て直すアイディアを考えているわけじゃないのに。
たかが名前のひとつを考えるのがこんなに難しい行動なのか。
そしてオレはこんなに想像力に乏しい男なのか。
要するに女の子向けの名前なんだ。
簡単なことなのに、何で思いつかないんだ!
何で『男の子向け』の名前はポンポン出てくるのに、この子犬向けのアイディアが出てこないんだ!
「だったら2人の意見を合わせて『フェンリーヌ』っていうのはどうですか?女の子向けの名前だと思いますが」
「えっ?」
不意に聞こえた声とひとつの名前。
少し偉そうな言い方だったが、オレはその名を聞いた瞬間、ジグソーパズルの最後のピースをはめたときのような達成感を感じた。
パチッ・・・・・・
今、この銀色の子犬が描かれたジグソーパズルは完成した。
そして見えたんだ、一枚の『絵』が。
「トリス君!おはよう!」
エレは快活にごく普通の挨拶をしたが、オレは何ら反応出来ないでいた。
その男はオレの机の横に来ると、
「お、おはようございます!エレインさん!・・・・きょ、今日はいい天気になって良かったですね・・・・えっと・・・・」
さっきの偉そうな口ぶりとは打って変わって、裏返ったような変なトーンの声で『トリス君』は答えた。
その様子が今朝、オレがエル・エンズで『運命の女の子』を妄想していたときの自分の姿に少し似ていた気がした。
何かムカつくな。
同レベルなのか・・・・オレとこいつは。
確かにオレにもこいつにも『これ』はいないけど・・・・
オレは手の小指を立てながら、必死にオレの優位性を証明する事実を探した。
要するにオレと『トリス君』のどっちが『モテる』かということだ。
絶対にオレのほうが人気があるはずだ!
しかし、どんなに考えをめぐらせても、出てこない。
オレ>『トリス君』となる要素は何一つなかった。
何だか納得がいかないような釈然としない蟠りが頭を埋める。
「何だ、トリスか」
湧き上がる苛立ちを感じながら、オレは抑揚のない声で、トリスと呼んだ男子生徒に「はよさん」と言った。
ぞんざいな挨拶にトリスはどんな反応するんだろう。
ギリギリ挨拶と認められるくらいな、心のほとんどこもっていない言葉と態度に、こいつはどんな顔をするんだろう。
なんて、結果は大体想像がつく。
どうせ偉そうに上から目線で注意してくるんだろう。
そんなことを考えながらすぐ横に来ていたトリスの顔をチラッと見てみると・・・・
そこには『トマト』がなっていた。
それも未熟な緑色が混じったトマトじゃない、真っ赤に成熟したトマトだった。
新鮮さに溢れていて、ちょうど食べごろといってもいい。
でも・・・・・
気持ち悪い。
もちろん、トリスを『食べる』なんて色々な意味で気色悪いけど、それ以上にオレの挨拶にこんな反応を返してくるこいつが一番気持ち悪い。
まさか、こいつ『こっち』系なのか?
オレは友人の知られざる秘密を知ってしまった気がして、寒気がした。
なぜかトリスは頬を赤くしていたのだった。
トリス=シュトラム。
この『こっち系』の疑いがある男の名前だ。
こいつは早い話、オレの友人でクラスメートなわけだが、今まさにその関係が崩れてしまうのではないかという危機にいるのだ。
確かに世の中には女よりも男が好きな男もいるにはいる。
いわゆる『ホモ』ってやつだ。
だが、断っておくがオレは天地神明に誓って『その気』はない。
いくらオレがモテなくて、妄想までしてしまうような男でもそこまでは落ちてないと断固主張しよう。
別に同性愛者を軽蔑したり、蔑んだりするつもりはないからな。
誰を好きになろうと、誰を愛そうとそれは個人の自由だ。
だが、オレはそういう関係は絶対にお断りだという話さ。
大体、ホモなんて喜ぶのは『腐った女子』くらいだろ?
それもイケメン同士が見つめあったり、抱き合ったりとか、男のオレとしては見ていられない場面に狂喜乱舞するんだろ?
「目を覚ませ!」って言いたいよ。
そんな『カップル』にも腐女子な君たちにもね。
でも残念。
もし、トリスにその気があって、さらに万が一にもないけど、仮にオレにもその『想い』に応える気持ちがあったとしても、君たちは少しも喜ばないぞ。
だってオレもトリスもイケメンじゃないからな。
トリスの特徴はなんたって大きな眼鏡にすべて集約されていると言っていい。
眼鏡=トリスであり、トリス=眼鏡だっていいくらいだ。
視力は壊滅的に悪いらしく、眼鏡なしだと周囲どころか明日も見えないらしい。
そういえばオレはまだトリスが眼鏡を外したところを見たことがないな。
よく、眼鏡を外したら実は美少年・美少女だった・・・・なんてオチがあるけど、こいつに限ってそれはないだろ。
今度、眼鏡を外させてそれを証明することにしよう。
あとトリスはやたら無駄な知識を知ってやがるんだ。
本人は『教養』とか『雑学』だとかいって、よくオレやエレに胡散臭い話やウンチクを得意げに披露する。
エレは「そうなの!?」とか「すご~い!」っていつも喜ぶんだけど、オレはどうも釈然としない。
確かにトリスが話す内容はほとんどオレの知らない知識で彩られている。
「なるほど」とか「へぇ~」なんて思わず口にしてしまうような場面も多々ある。
でも、どうにも聞いていて気持ちが穏やかじゃない。
それは多分、あいつの話し方に問題があるんだろう。
トリスは自分の知識や教養を披露するときには決まって上から目線になるんだ。
それはまるで『教授』が無知な学生に自慢げに話すような感じなんだ。
それにオレが「知らない」と言うと、すぐに「そんなことも知らないんですか!」なんて大げさにリアクションするからな。
そんなときのトリスをオレは『教授モード』って勝手に名付けてるんだ。
こうなると、もう手がつけられない。
はるか上空からオレを見下ろしながら、トリスは自分の『教養』とやらを満足するまでご披露し、オレはそれに耳を貸さなければいけなくなってしまうんだ。
「ランス君・・・・君は素直に挨拶出来ないのですか?それに『何だ、トリスか』ですか。本当に失礼な人ですね、君は!」
トリスはいつもの偉そうな口調で、「やれやれですね」と聞こえるように独り言を呟いた。
『』の部分はやはりオレのモノマネをしていたが、エレのときと違ってトリスのモノマネはかなり似ていた。
しかし、オレのモノマネって流行ってるのか?
トリスの顔はトマトのままだったが、態度は普段どおりだ。
しかも悪いことに、どうやらすでに『スイッチ』はオンになってしまっているらしい。
やれやれ・・・・・・
「はいはい、それは失礼しました。それでトリス殿はさっき何て名前を仰りましたかね?よろしければもう一度無知なワタクシめに教えてもらえないでしょうか?」
はぁ~・・・・・疲れる。
こんな喋り方は好きじゃないんだけど、『教授』になったトリスにはこう対応するのが最もベターなんだ。
トリスはチラチラ横を見ながら、「コホン」と咳払いをすると、再びあの名前を口にした。
「『フェンリーヌ』ですよ。ランス君のアイディアである『フェンリル』とエレインさんの案の原形である『ショコラティーヌ』を合わせて『フェンリーヌ』です。これなら『女の子』であるその子犬にもピッタリですよ」
と、オレに向かってというより、トリスは完全に横にいるエレに向かって話していた。
ほとんどオレのほうは見ていない。
これはオレには聞く資格がないってことか?
名付け親になるはずのオレを差し置いて、子犬に触れることすら出来ないエレにはその資格があるっていうのか?
「すご~い!トリス君、すごくいい名前だと思うよ!ね!そう思うでしょ?」
エレはいつもの台詞で『教授』を称賛し、オレ、というよりオレの腕の中にいる子犬に向かって尋ねた。
「・・・・だそうだ。で、どうよ?」
オレは銀色の子犬の頭を撫でながら、『判決』を求めた。
オレのアイディアには明らかに不満げに鳴き、エレの案には無言だった。
では、トリスの折衷案にこの子犬はどんな反応をするのだろうか?
「きゅうぅ~ん♪」
一回だけだったが、甘い甘い鳴き声が耳に届いた。
これで勝負あり。判決は下された。
「これで決まりね!今からこの子は『フェンリーヌ』ちゃん!う~~ん♪かわいい名前ね!」
エレはトリスの顔を真正面から見て、「ありがとう!」という言葉とキラキラ輝くスマイルをお礼として送った。
すると今まで、天狗のように鼻が高かった『教授様』の態度が急変した。
「え!・・えっと、あ、そんな・・・・ぼ、僕は大したことないですよ・・・・エレインさんのおかげで思いついただけですから・・・・・」
すっかり縮こまって、『教授モード』に似合わない謙遜なんてしている。
しかも真正面から見つめるエレに対して、トリスは完全に床に話していた。
床に何度も「エレインさんのおかげです!」と繰り返している。
「エレインさんのおかげ」・・・・か。
一応、オレのアイディアもけっこう反映されているはずなんだけど。
それによく考えると、トリスはオレとエレの意見をくっつけただけだよな。
それなのにこいつは完全に自分とエレの共同作業のように思ってやがるのか。
チェッ・・・・・
「フフッ。そんなことないよ。自分で名付け親になるなんて豪語しておいて全然駄目な人に比べたら天と地ほどに差があるわ」
エレはチラッとこちらを見たが、オレは目を逸らして子犬の様子を伺った。
「スゥー・・・・スゥー・・・・・」
子犬は、いやフェンリーヌは名前をもらって安心したのか夢の中に行ってしまったようだった。




