Monday④「出会い」
「ん?」
何か音が聞こえた。何だろう・・・?
走りながらだったが、何か聞こえたのは間違いない。
オレは足を止めて、耳を澄まし、音の発生源を探した。
しかし360°見渡しても、周りには名も知らない草木しかないし、人影も見当たらない。
ザワザワ・・・・ザワザワ・・・・
時折吹くわずかな風に揺れ、葉がこすれる音しか聞こえない。
「また聞こえた。声・・・・か?」
また聞こえた音はただの音ではなく誰かの声・・・・そんな気がした。
益々オレは好奇心が心をゆっくりと支配していくのを認めざるを得なかった。
急いでいるはずなのに、どうしても足は声のする方向へとオレを運んでしまう。
ドクン、ドクン・・・・・・
また胸が躍り始めた。もう期待なんかしている気も暇もないはずのに。
遅刻するぞ、遅刻しちゃうぞと頭では分かっているのに、どう足掻いても体は声のほうへといざなわれていく。
「何だろう・・・・白昼堂々お化けってことはないよな・・・・」
ゆっくりとした歩みは次第に速度を速めていった。
鬼が出るか蛇が出るか、この先に何が待っているのか分からないのに。
まあ、本当に鬼が出たら、速効逃げるし、蛇が出てもやっぱり逃げるかな。
流石に好奇心もすぐに恐怖心に代わってしまうからな。
仕舞には早足で草を掻き分けていた。
どうやらオレがどんなに反抗しようと、どんなに否定しようとも、深層心理というべきか本心といったほうがいいのか、は素直だった。
もはや完全に『遅刻の恐れ<好奇心』となってしまったオレは、腰くらいまで伸びている濡れた草をガサガサと分けながら森の奥を進んだ。
この辺は地元民でさえも入ろうとはしない領域だ。オレも足を踏み入れたのは初めてだった。
エル・エンズの森は奥へ進むにしたがって、雑草も木もあらゆる植物がその背丈を伸ばす。
それだけでなく密度までも増すため、いくら慣れているフォアブリッジ民でも好んでその先へ足を踏み入れる者はほとんどいない。
日の光も密生した木々の屋根に遮られ、ほとんど入ってこない。
まるで夜のような闇を一日中保つ森の中では、視覚は大して役に立たない。頼りになるのは聴覚だけだ。
耳に入ってくる『声』のボリュームは確実に大きくなっていた。
かなり近いな。
触れる葉には昨日までの長雨のせいで雫が滴り、オレの制服を容赦なく濡らした。
昨日洗濯したばかりだったが、それでもオレは足を止めない。
例え今日再び洗濯する羽目になったとしても、今のオレを止める理由としては不十分過ぎた。
なぜだろう?どうしてこんなに気になるのだろう?
単なる好奇心なのだろうか、それともまだインチキ占い師が言う運命を期待しているのだろうか、この期に及んで。
この期に及んで、こんな薄暗い森の中で可愛い女の子が待っているとでも思っているのだろうか。
我ながら呆れるな・・・・
そんなふうに皮肉っても今この場にいる一男子学生、名をランスはそんな客観的な意見や批判などに耳を貸す暇はない。
今のオレを支配する心は何か?
純粋な少年の冒険心か?
それとも甘酸っぱい少年の純愛か?
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン・・・・・・・
もはや高なっていくのは雑草だけではなかった。
「あれ?」
目の前には雑草が綺麗に並んで倒れていた。
この辺りは滅多に人が踏み込まない所であり、オレもまだ踏み入ってはいない。
それなのにぽっかりとまるで小さなミステリーサークルのように不自然に雑草が寝ていた。
そこにいた。
森の奥深く、雑草はもはやオレの肩ぐらいまで生い茂ったところにいたのは鬼でも蛇でもお気に入りのアイドルでもなかった。
ましてや運命の女の子でもなかった。
「・・・・きゅ~~ん」
「お前・・・・」
そこにいたのは今朝、テレビで特集されていたふわふわ、もこもこの小奇麗なペットではなく、同じ子犬でも所々赤と茶色の模様がこびりついていた見るからに小汚い子犬だった。
こんなところにいれば汚れるのは当然だが、ただここに寝ていたり、くつろいでいたりしているわけではないようだった。
様子がおかしい。
泥まみれの土の上で、群がる草に囲まれて、子犬は小さくまるまったまま少し震えていた。
そこに寝ていたというより、倒れていたといったほうが正しかった。
その理由はすぐに分かった。
寒さを堪えているのか、それとも何かに脅えているのか分からないが、体を小刻みに揺らす子犬は横たわりながら、痛々しいほどに血を流している自分の足を必死に舐めていた。
それで治るとは到底思えない状態だったが、子犬にはそれが最善策、というよりそれしか出来なかったのだろう。
にじみ出ている赤い血のそばで、すでに黒く凝固している塊があるところを見ると、ついさっき怪我したわけではなさそうだ。
「怪我してるのか・・・・かわいそうに。ちょっと待ってろよ・・・・」
オレはその場にしゃがみ、両腕を子犬に近づけた。
「きゅ~~~・・・」
子犬は近づくオレに警戒してか、『治療』を止め、オレの顔を真っ直ぐに見据えながら唸り声を出した。
舐めるのも少しは効果があることを証明するかのように、途端に血は容赦なく出続けていた。
オレを敵だと思っているのかな。
まあ、初対面だし、怪しまれてもしょうがないか。
怪我していて、目の前には見知らぬ人間がいて自分に近づいてくる。
当然といったら当然の行動なんだけど・・・・・・
『敵』であるオレを脅かすはずの声は、迫力も勢いもない、むしろかわいらしく鳴いているようしか聞こえなかった。
「・・・・きゅ・・・・きゅ~~~・・・・・」
そしてなんて弱弱しいのか。
こんな威嚇では猫どころかネズミにだってなめられてしまうだろう。
オレを睨んでいるのであろうその目も、痛みを必死に我慢している苦悶の色しか見えなかった。
「痛い・・・・助けて・・・・」と訴えているようにさえオレには見えた。
子犬の言葉なんか分からないけど。
無事な前足をバタつかせるだけの、同じく弱弱しい抵抗を無視して、オレは子犬を両腕で抱き上げた。
ひょいと抱き抱えた子犬はものすごく軽い。
まだ生まれてそう日は経っていないのだろう。
やはりオレを自分に危害を加えようとする悪漢だとでも思っているのか、腕の中でさかんに体を動かしている。
しかし、一応暴れているのは分かるけど、小さなしかも弱った体ではただじゃれているような動きでしかない。
それほど傷が痛むのだろう。
「ちょっと見せてみろ・・・・なるほど・・・・」
子犬は全身に血がこびり付いていたが、実際に怪我をしているのは右の後ろ足だった。
単なる切り傷や刺し傷程度ならすぐに凝固して止血されるはずだが、それは望めそうにない。
銃に撃たれたのか、鋭利な刃物で切られたのか、はたまた他の動物にガブリと咬まれたのか。
何で傷つけられたのかはじっと見ても分からなかったが、唯一分かることは傷がかなり重傷だということだけだった。
そこから滲むように、それでも確実に血液は流れ出ていた。
黒く固まった血液のせいで見えないが、筋肉どころか骨もむき出しになっているかもしれない。
そして重大なのは子犬の足だけではない。
震える体はかなり冷たくなっており、とてもじゃないが普段子犬を抱いた時の温もりは味わえなかった。
「これはひどいな。すぐに治療してやらないと歩けなくなるどころか死んでしまう」
オレは鞄を下ろし、着ている制服を脱いだ。
もちろん上着だけだぞ、こんなところで素っ裸になるなんて、そんな変態のするようなマネなんかするか!
その上着を濡れた草の上に絨毯のように敷いて、ゆっくりと子犬をそこに寝かせた。
「きゅ!・・・・」
「痛かったか?ごめんな。でもすぐに治してやるからな」
小さな体をくるっと包むと、すでに湿っぽくなっていた制服には、べったりと赤い染みができてしまった。
あははは・・・・まあ、しょうがないな。
制服なら代えがあるが、子犬の足に代わる物はない。
これは人助けならぬ犬助け、いや『子犬助け』だ。
「神経まで傷ついてなければいいけどな・・・・もしそうだったら、流石にオレにもどうしようもないからな・・・・」
そう言いながらオレは降ろした鞄の中から小さなナイフを取り出した。
サイズは小さいがちゃんと砥いでいるから良く切れる。
オレが薄暗い中できらりと光るナイフを掴んで子犬の前に座ると、子犬は微かな声で鳴きながら懸命に前足で立とうとしていた。
きっとオレから逃げようとしているんだろう。
「あ!このナイフが怖いのか!あははは!」
緊急事態なのに不謹慎にも笑ってしまったが、オレは怯えた目を向ける子犬にもう一度ごめんなと謝った。
「別にお前をこれで切って食べちまおうなんて考えてないよ!これはこうするためさ!」
ピッ・・・・・・
じわっと赤い血が滲み出てくる。
ただし、それは子犬からではない。
もしそうだったら、オレは単なる動物虐待者だ。
前にも言ったが、オレは自他共に認める『子犬LOVE症』なんだ。
毎日、この世にこんな愛しい生き物を生み出してくださってありがとうございます・・・・と神様に感謝しているくらいなんだ。
そこに子犬がいたら、迷わずに話しかけずにはいられない。
例え言葉は交わせずとも、そんなことは関係ない。
そこに子犬が倒れていたら、手を差し伸べずにはいられない。
もちろん野良犬であっても飼い犬であってもだ。
例え『お持ち帰り』出来なくても、そんなことは関係無いのだ。
オレの親指には小さな切り傷が生まれ、そこからわずかに赤い血がにじみ出た。
「出来ることならこの小さな傷とお前の大きな怪我を交換したいところだけど、それも流石に無理だからな」
そして反対の手のひらに生ぬるい血液を塗りつけた。
「これで準備よし!さあ、始めるか!」
子犬はもう逃亡も抵抗もする力は残されていないらしく、制服の中で小さな体をさらに小さく丸めていた。
もたもたしている時間はない。
すぐに治癒作業に取り掛からないと子犬の足どころか命の灯火まで消えてしまう。
オレは自分の血液がついた手のひらをゆっくりと子犬の患部、つまり右の後ろ足に近づけた。
震えるだけでほとんど動かなかった子犬だったが、恐らく渾身の力を振り絞ったに違いない。
ガリッ!
力は弱くとも爪はナイフばりの切れ味だった。
無事な前足から繰り出された一撃はオレの手の甲からも血をにじませた。
「痛っ・・・・大丈夫だ!オレに任せろって!犬好きに悪い奴はいないんだ。あははは」
オレは少し涙目になりながらも片目を瞑ってみせると、引き続き子犬の後ろ足に手のひらを近づけた。
その距離が縮むにしたがって、手のひらと足の間にはやわらかい光がまるでもやのように生まれた。
ふわふわとした温かい光・・・・傷ついた足に触れたり包みこんだりしてはスゥーっと消えていく。
オレの手から絶えず発せられる光のもやはそうやって何度も何度も手のひらと子犬の足の間で一方通行を繰り返した。
威勢のいい攻撃を繰り出した子犬も観念したのか体力の限界にきたのか、これ以上抵抗はしなかった。
それどころか気持ちよさそうに一回だけ「きゅ~ん」と鳴くと、ゆっくりと目を閉じ、そのまま「スゥー・・・・スゥー・・・・」と寝息を立て始めた。
温かい光は子犬の足だけでなく小さな体全体を包み込んでいった。
オレは一安心とばかりに、治療を続けながら、眠っている子犬をゆっくりと観察した。
・・・・分からない。
犬好きであるのを自負しているにもかかわらず、この子犬の種類は分からなかった。
今までテレビやペットショップ、雑誌などで見たどの犬種にも当てはまらない。
ミックスなのかなとも思ったが、それなら何らかの犬種の特徴が垣間見えるはずだがそれも見当たらない。
「でもかわいいな・・・・特にこの耳が。あははは」
頬が弛緩していくのを感じながら、オレは空いている手で子犬の耳をそっと撫でた。
良い触り心地だ・・・・
かなり体力を消耗していたのだろう、ぐっすりと眠っている子犬はオレがいくら触ってもピクリとも動かなかった。
微かな寝息を立てながら、染みだらけの制服の中でリラックスした表情をしていた。
夢の中にいるのだろう。
いい夢でも見ているのだろうか。何だかオレまで眠くなってきた。
「あはは。こいつ、右耳はぴんとしているのに、左耳はぺたんと垂れてるな」
やはりまだ幼い子犬なのだ。
きっと成長すれば左耳も右耳同様に立つのだろうか。
今度は子犬の体をゆっくりとさすった。
もちろん傷に障らないようにやさしく触った。
汚れていて分かりにくかったが、よく見るとこの子犬は全身を銀色の毛で包まれていた。
その銀色の毛並みは今朝見たテレビでアーテの周りを走り回っていた子犬たちに比べても遜色ないくらい綺麗で触り心地抜群だ。
一言でいうなら『もふもふ』している。
この感触は犬好きなオレにはたまらない。まさに『どストライク』だ!
銀色というのもずいぶん珍しいなと思ったが、この犬の種類が分からないのだからそれも大して不思議には思わなかった。
それよりも気になるのは何でこの犬がこんな所にいるのかということだ。
しかも大怪我を負っている。
そもそもこんな雑草と木しかない森で、あんな傷を負うとは考えにくかった。
何か事情がありそうだな・・・・
例えば何か大きな獣に追われていたとか・・・・
それとも飼い主と喧嘩して、ここへ逃げる途中に事故にでも遭ったのだろうか・・・・
そういえばこいつは野良犬には見えない。
誰かに飼われていたことは間違いないだろう。
何で分かるって?そんなの決まってるだろ!
かわいい子犬を野良のまま放っておく奴はいない。
もしいたらそいつは人でなしだ。
人を名乗るな!・・・・じゃなかった人を辞めろ!
こいつは汚れさえなければ綺麗な銀色のもふもふ犬だ。
絶対に飼い主がいるはずだ。
例え喧嘩してもこいつが今一番一緒にいたいのは飼い主に決まっている。
でも・・・・
オレは心の部屋に黒い染みができているのを感じた。
これは子犬LOVE症患者が絶対に抱いてはいけない、ましてや実行するなど言語道断なことだ。
「もしこいつが家にいたら、あの薄暗い部屋もきっと・・・・」
駄目だ!駄目だ!
そんなこと考えてはいけない!
確かに子犬を飼いたいと思ったことは星の数ほどある。
今朝だってそう思った。
でもその度に同じ数だけ諦め、涙を呑んできたんだ。
今朝だって諦めた。
それに例えこいつを引き取ったとしてもこいつは幸せにはなれない。
本当に幸福なのは飼い主と一緒にいるときなんだ。
これは大原則なんだ。
止めだ・・・・今は治療に集中しよう。
オレの手から出続けている光はふわふわと子犬の体にまとわりつくように触れては消え、触れては消えてを繰り返した。
特に右の後ろ足へ向かう光は少しずつその濃度を増していった。
傷を見るとすでに流血はなくなっており、あとは傷を塞ぐだけだった。
あと一息か・・・・ん?
オレが今何しているかって?見れば分かるだろ。
治療だよ。
え?見えないって?
そんなこと言われてもなぁ・・・・
え?この技がどんなだか知りたいって?教えて欲しい?
う~~~~ん・・・・どうしよっかなぁ~~・・・・
・・・・・・・
あれ?ちょっと!
分かった、分かった!教えるよ!
まあ、これはけっこう珍しい技だからな。知らなくても無理ないか。
いいよ、治療が終わるまで教えてやるよ。
この技は名を『ちゆ』という。治癒じゃないぞ、『血・癒』!
その名のとおり自分の血を使って怪我を癒す。すごいだろ!
主に切り傷や刺し傷といった出血を伴う怪我に有効だけど、工夫次第で骨折とか打撲にも効果ありなんだ。
この技が使えれば、多少の怪我なんかはすぐに治ってしまうというというわけさ。
ポイントはまず術者の『血』が必要という点だ。
だからもし術者に傷がないなら、血を出すためにわざわざ自分を傷つけなきゃいけない。
ちょっと矛盾めいているけど、この技は基本自分ではなく他人を治す技だからな。
まさに身を徹して傷を癒すわけだ、カッコよく言うと。
それでオレはさっきナイフで自分に傷をつけたわけだ。
別に痛くはないさ。慣れているからな!
もうひとつの特徴は血癒の治癒効果は術者の血液量に比例するということだ。
今回は子犬にとっては大きな怪我だったけど、人間でいえばちょっとした切り傷程度の血で足りる。
だからオレはさっきナイフで自分の親指をちょこっと切ったわけだけだ。
でも仮に人間がもっと大きな傷を負ったときにはこんな程度の血じゃ全然足らない。
そんな場合にはキツイけどもう少し、血を流すために大きな傷をつけなければならない。
そういえば人間は体の13分の1まで血液を抜いても大丈夫なんだ。
もしそんな血液で血癒したらどうなるんだろう?
もちろんそんな危険なことは願い下げだけど誰かやってくれないかなぁ~・・・・なんて!
とにかくこの技は他人を癒すために自分を犠牲にする。良く言えばそんな感じだけど、決して多用すべきじゃない。
どうしてかって?それは・・・・
「って!今、時間は!?」
オレはかざしていた腕に巻かれてある腕時計に目を移した。
・・・・ギリギリかな。ただし、全力で走って、休まず走っての話だけど。
安心していいのか判断に迷うところだが、オレは血癒を止めて子犬の右後ろ足の様子を診た。
傷は完全に塞がっていた。
外見上は完全に元に戻っているが、恐らくすぐには歩けないだろう。
それでもすやすや眠っている子犬の表情は穏やかで、とても気持ちよさそうなのは何よりもオレを安心させた。
「よし!治癒終了!ちょっと疲れたかな・・・・フゥー・・・・」
オレは体のだるさを感じ、それを振り払うように伸びをした。
そうそう、この技を多用すべきじゃないって話だけど、ふぁ~あ・・・・
この技は使用後にものすごく疲れるんだ。
もちろんその疲れは血液量にしっかり比例する。
今回はまだマシなほうだけど、それでもこのだるさは何とかしてほしいな。
・・・・と愚痴ってもどうしようもない。
こういう疲れを癒すには「ありがとう」の一言で十分なんだけどな。
オレの気力はそれで回復するんだけど、今回は・・・・
「スゥー・・・・スゥー・・・・」
まあ、しょうがないか。
「でもこのままここに放置するのはまずいよな、やっぱ連れていくしかないよな・・・・そうだ!こうすれば・・・・」
オレは制服で子犬を包み込んだままそばに置いておいた鞄にそっと入れた。
体が小さいのと丸まった姿勢が幸いして、すっぽりと入った。
こうすれば閉められるし、多少走ってもそんなに衝撃はないだろう。
それに多分、すぐには目覚めないだろうし、なによりこんなに気持ちよさそうに寝ているんだ。
このまま安静にしたほうがいい。
でもやっぱ・・・・かわいいなぁ・・・・小さいし、もふもふだし・・・・
本当にもしこんな子犬がオレの家にいたら・・・・
「そろそろ時間か・・・・」
オレは相変わらず薄暗い部屋で朝食や身支度をすべて済ませ、玄関へと向かった。
朝のルーチンワーク。オレは終始無表情だ。
そしていつもならその締め括りに、暗い部屋に対して出発のあいさつを言っていたが、今日は違った。
「行ってきます!」
陽気にそして頬の緩んだ顔でオレは床に向かって言い放った。
いや、それは床ではなく床にいる『それ』にかけた言葉だった。
「きゅん!きゅん!」
銀色の体と尻尾を激しく揺らし、オレに向かって鳴くのは一匹の子犬。
少し悲しそうに見えるのはきっと飼い主としばしの別れだと分かるからだ。
オレは腰を下ろし、両腕を前へ出す。
すると・・・・
「きゅーーーん!!」
勢いよく歓喜の声をあげた銀色の子犬はオレの胸に飛び込んでくる。
そしてオレはその小さな体を抱きしめ、心行くまで『もふもふ』を堪能する。
なんて幸せな瞬間・・・・
しかし、オレは出発しなければならない。
オレは心を鬼にして子犬を部屋に置き去りにし、ドアに手をかける。
「・・・・きゅ~ん・・・・」
悲痛な声をあげる子犬とそれを背にドアを開けるオレ。
歯を食いしばりながら別れに心を痛めるオレ。
なんて辛い瞬間・・・・
しかし、これは永遠の別れではない。
帰宅すればまた抱きしめられると思えば、これも幸せな一場面かもしれない。
こんなやり取りが毎朝続くなら、オレはしばらくテレビ画面を通してアーテの顔を見なくても生きていける。
・・・・3日間くらいなら。
さっき自制したはずなのに、オレは湧いてくる黒い誘惑、『もし』の妄想を今度は止められなかった。
・・・・・っとすっかり妄想モードに陥ってしまった!本当に時間がヤバいんだって!
オレは脳内で上映されていた妄想劇場を急遽途中休演にすると、身の丈ほどある草が茂る道なき道を勘を頼りに走り始めた。
全速力で、休みなしで。
進めば進むほど草の丈が徐々に低くなっていく。周りに立つ木の密度が小さくなっていく。
光が差し込むスペースも増え、ようやく朝らしい明るさになっていった。
エル・エンズの出口に近い証拠だった。
ゴ~~~ル!!
・・・・っていってもやっと公園を抜けただけだけど。
それでも汗が額から滴り落ちていた。
弾む息遣いを抑えながら、オレは汚れた制服を見て苦笑した。
血の染みや土の汚れがこびり付き、すっかり湿ってしまった上着とズボンは肌に密着して気持ち悪い。
仕方ないよな・・・・あははは・・・・
せめてもの慰めに手で汚れを落としたが、やはり気休めでしかなかった。
まあ、濡れたのは乾くだろうけど、汚れは流石にキツイ。
しょうがない、後でトリスに上着だけでも貸してもらうかな。
オレは辺りを見渡した。
エル・エンズの出口、といっても入り口でもあるわけだけど、ここにはいくつかベンチが並んでいた。
オレはそのひとつに上着に包まれたまま子犬をそっと置いた。
銀色の子犬はまだ夢の中にいるようだ。
丸くなったまま、スゥースゥーという音しか立てていない。
「上着はあげるよ。今は暖かくして寝るのが一番だから。それと・・・・あっそうだ!」
オレは鞄の中から今朝家を出る直前に入れた袋を取り出した。
これはいわば朝食の代わりだった。
なんだかんだあってまともに朝飯を食べる暇がなかったから、後でこっそり食べようと思っていたんだ。
「これ好きなんだよなぁ~大福!やっぱり甘いといったら『あん』だよなぁ~それに同じあん入りの食い物でも一番はこれだな。アンパンも『あんまん』もいいけどな!あははは!」
オレは袋から出した大福を半分にすると、寝ている子犬のすぐ脇に置いた。
「これでも食べて、元気だしてくれよな。本当は汚れとか綺麗にしてやりたいんだけどな。ちょっと時間が迫ってて・・・・ごめんな」
片目をつむってもう一度ごめんなと言って、オレは再び走り始めた。




