Monday①「始まり」
「カワイイなぁ~・・・」
そう呟きながらオレはじ~っとただ一点だけを注視していた。それはもう食い入るようにだ。
オレの全神経は今、眼と耳の2つの器官に集中していた。
例え呼び鈴が鳴っても、それに気づくことはないだろう。今の耳はカワイイ声を専門に拾っているからだ。
例え視界に化け物が入り込んでも、やはり気づかないだろう。今の眼はカワイイ姿を映すことだけに動いているからだ。
壁に架かっている時計の長針は2と3の間、短針は7を指している。
とはいっても今は夜ではなく朝。つまりは午前7時ちょい過ぎということになる。
窓から差し込んでくる朝日は眩しく、部屋にはある程度の明るさがもたらされている。
だから電気をつける必要はなかった。
電気代もバカにならないから節約になって助かる。
先月の電気代はちょっと高かったからな。今月は徹底的に節約月間なのだ。
「・・・・・・」
なんて、今のオレにはそんなことどうでもよかった。
オレはまだ無言で、ただただ自分の両眼にそれを映し、両耳でそれを聞き取ることだけに集中していた。
もうそれ以外は目に入らない、耳にも入らない。
いや、それ以外はオレにとっては存在していないと言っても決して過言ではなかった。
目線の先には決して大型とはいえないテレビが申し訳なさそうに座っている。
だいぶ旧型で画質も最新のテレビと比べるまでもなく、やはり良いとはいえなかった。
本当は最新の高画質なテレビが欲しいのだが、今の不況下ではなかなか厳しかった。
大体、今の政府はやれ不景気だ、やれ不況だと言う割には、これといった対策を行っていない。
偉そうな政治家が、テレビ番組や街頭で難しい単語並べて対策を説明するが、さっぱり分からない。
ただそれがあまり効果的なものではないということは何となく分かる。
その証拠にテレビのキャスターはただ「はい、はい」と相槌を打つだけだし、街を歩く通行人は誰ひとり足を止めないのだ。
そんなご時世、今も様々な問題がまるで夏休み末期の宿題のように未解決で残っている。
早くにやっておけば、後になって焦る必要はないのに、ガキは夏という誘惑に負けて、宿題という足枷をさらりと外すのだ。
そして遊び呆けて、気づいた時には手遅れという始末。
それでもガキは何とか夏休み終了日に帳尻を合わせるように宿題という悪魔を退治出来る。
夏休み後に先生に叱られることもないのである。
だが、政府に課せられた『宿題』には期限がない。
今年中に対策を行いますとか選挙時に宣言しても、その公約を守る者など皆無に近い。
それに彼らには焦りもない。
なぜなら彼らは『先生』に怒られないからである。
例え、『宿題』である公約を達成できずとも『先生』である彼らを叱る先生はいないだ。
唯一いるとすればそれはこの国に住む者、国民だけだ。
国民が彼らの先生にならなければいけないのだ。
オレは未成年だから選挙権がなく、間接的にでさえも政治に参加しているとは言えないが、何らかの形で政治資金すなわち税金を払っているのだ。
だから一国民すなわち『先生』として言わせてもらうと、今大事なのはやはり経済対策だと思う。
失業率は年々上昇しているし、金持ちと貧乏の格差は益々広がる一方なのが現状。
札束を燃やして明かりにしたり、札束をうちわみたく扇いでみたりする輩がいる傍ら、財布の中身を一円単位まで把握していたり、自販機のつり銭取り出し口についつい手を突っ込んだりしてしまう者がいるのだ。
だが、政府は愚策を講じるばかりで、わが国の経済成長は一向に右肩上がりにならない。
不況な国から富強な国へ変わる日は来るのだろうか。先行き不安である。
まったく、けしからん!廊下に立ってなさい!
・・・・・・
と、ここで文句を言ってもしょうがないことは分かっている。分かっているのだ。
確かに今は札束が宙を舞うような好景気ではないが、だからといってそれが新型テレビを買えない理由にならないのは分かっている。
金欠なだけだから・・・・・
言っておくが無駄遣いしているからじゃないぞ。
生活するにはどうしたって金が要るのは仕方のないことだ。
食費や光熱費の分も残しておかなければならないし、これでも節約しているのだ。
欲しいものを買うときだって、熟慮に熟慮を重ねて、脳内会議にて賛成多数でないと予算は下りないようにしている。
だからちょっと欲しいななんて思っても、保守派の連中が断固拒否し、圧倒的多数でもって購入案を否決してくる。
本当に買わなければならない、絶対必要不可欠なものでなければ奴らは賛成してくれないのだ。
でも今回のテレビ買い替えの提案はどれだけプラス思考で勘案しても、議会で過半数すら取れないだろう。
保守派の言い分はこうだ。
『まだ使えるだろう』
確かにそうだからオレも反論できない。
壊れていたり、映りが悪かったりするなら話は別だが、今のテレビはちゃんと己の仕事をこなしている。
質はどうあれ、自らの精一杯でもって映像を提供してくれているのだ。
本来なら感謝しなければならないくらいなのだ。
よって新型テレビ購入案はあっけなく否決され予算は下りない。
つまり財布の紐は緩んでくれないということだ。
それも十分に分かっている。分かっているのだ。
それでも・・・頭では分かっていても、オレは『もし』を思い描いてしまう。
想像するだけならタダである。
もし、今のテレビを買い換えるお金があれば、もっと大きな画面で見られるのに。
もし、最新のテレビを家に迎え入れることができたら、もっと綺麗な映像に感動できるのに。
もし、・・・もし、・・・
・・・駄目だ駄目だ!
オレはそんな『もし』が頭に浮かんでくるのを必死に抑えた。
いくらIFの妄想で思考を埋め尽くしても、その妄想は決してオレの脳内から外へは出ていかない。実現しない。
考えるだけ時間の無駄、脳細胞の無駄使いだ。
「きゃん!きゃん!」
「わんわん!」
テレビ画面には生まれてからまだ間もない子犬が芝生の上を集団で戯れていた。
まるでぬいぐるみのようなふわふわした毛並みはとてもさわり心地が良さそうだった。
小さな足で懸命に走ったり、ころんと転がったり、仲間とじゃれたりと活発に動く姿は見ているだけで、ほのぼのと幸せな気分になる。
あぁ、あのふわふわに触れたい、一緒に転がりたい・・・
「カワイイなぁ~・・・やっぱ・・・」
オレはもう一度、賛辞を口にした。口はぽっかりと開いたままだ。
『好きな動物は何ですか?』
もし、こんな質問をされたとき、オレは瞬時に
「犬です」
と答えることができる。他の動物なんて思い浮かぶ余地など無い。
特にもこもこで、もふもふっとした犬ならまさに『どストライク』だ。
しかもそれが小型犬だったら、オレは『どストライク×3』で三振どころかノックアウトしてしまうだろう。
つまり、今テレビに映っている小さなペットたちはオレの審査に満点の成績を修めるということだ。
そんな成績優秀者たちを見るだけで、オレの表情筋は終始弛緩しっぱなしになってしまうのだった。
幼馴染に言わせると『本当に幸せそうな顔』をしているらしい。いったいどんな顔なのか今度、鏡で見てみようと思う。
ともかくいつもなら、そんな緩んだ顔、たるんだ顔をするオレだけど、今は違った。
そう、普段のオレだったら、だらしなく口を開けっぱなしのままテレビ画面を眺めていただろうが、今は全身の力を両眼、両耳に集めていた。
緊張しているのだ。
なぜなら、犬がカワイイどころではない光景を前にしているからだった。
「子犬と遊んでいる姿もたまんないなぁ・・・ほんっとに、もしこんな娘が妹だったらオレは他に何もいらないなぁ」
テレビ画面に映っているのは無邪気に芝生を走り回る子犬だけではなかった。
むしろ子犬たちは『こんな娘』を取り囲むように戯れていた。
オレにとっては、ふんわりした毛並みの彼らは『おまけ』に過ぎず、本当に見つめていたかったのは、その中心に座っていたあの娘だった。
【アーテ=イデイン】
その娘の名前だ。
朝番組のいちコーナーであるこの『ペット特集~第一弾:ワンちゃん』にゲストとして出演しているのだ。
まだ駆け出しのアイドルで、『さあこれから』という、いわばアイドルの卵なのだ。
オレは彼女を一目見たときから『どストライク』をMAX160キロのストレートで取られてしまったのだ。
見たといってももちろんブラウン管を通してだけど。
そのときからオレはアーテが出る番組を、まだ数は少ないけど、チェックしてはじっくりと拝見させてもらっている。
今日もそんな日々の一コマなのだ。
いつ見てもテレビ画面上でアーテはなでしこ色の髪を揺らしながら、弾けんばかりの笑顔を周囲に振りまいていた。
ありがたい、ありがたい。思わず合掌してしまう。
朝のニュース番組の中のコーナーであるため生放送だった。収録現場は首都ア・ヴァロンのどこからしい。
ドキン・・・
オレの胸が徐々に鼓動を強めていった。
オレの住んでいるこの町『フォアブリッジ』も住所的にはア・ヴァロンに含まれているのだ。
もし中継現場がこの近くだったら、今すぐ飛んで行ってその笑顔を拝みたい。
あのキラキラ輝くような、まさに光に満ち溢れているスマイルをこの目に焼き付けたい。
ワクワク・・・ワクワク・・・
鼓動が高鳴っていく。トクトクと音が聞こえそうなくらいに。
その希望はまるで風船のように、次々と期待という名の気体を含んでいった。
どこまでも膨らんでいく。
もっとだ。もっと大きくなれ。そうすれば、アーテに会える・・・
保証などどこにもないのに、オレの頭の中では必死に風船へ『きたい』を送り込んでいた。
そのまま一気に破裂までもっていけたら、どんなに幸福だっただろうか。
シュー・・・
あれ?もしかして漏れている?
勢いよく注入されていたはずの『きたい』はどこからか抜け始めていた。
なんで?風船には穴が開いていたのか?
呆然としたままオレはふっと顔を上げると、すぐに原因を理解した。
その答えは窓の外に広がっていた。
あっ・・・そうだよな・・・うん。
『きたい』を含んだ風船は瞬く間に萎んでしまった。一瞬の喜びだった。
その理由はよく考えればすぐに分かることだった。
ここフォアブリッジは一言で言うと『田舎町』だ。
首都とはいっても、その肩書きを名乗るのが恐れ多いほどのどかな場所なのだ。
さらにオレの家は、こぢんまりとしながらも町の中心部である商店街からかなり離れたところの小高い丘に建っている。
だから朝は小鳥が囀る音しか聞こえないし、夜は虫の鳴く音しかしない。
景色の7割は青い空と白い雲だし、残り3割は森林が織り成す緑一色だ。
大きなビルや建造物など影も形もないし、代わりに少し丘を下ったところに数件の家があるだけだ。
ただオレはのんびりとするのは嫌いじゃないし、ここは住む分にはとても過ごしやすい場所だ。何の不満もない。
ところが画面に映っている光景は、確かにどこかの公園なのだが、その公園を取り囲む景色がここと違っていた。
オレはテレビ画面に再び目を移した。
180度違う。別世界といったら言い過ぎかもしれないが、そんな感じだった。
自然に満ちていると思われた公園は人工的に造られたに過ぎなかったのだ。
その証拠に背景には青い空も白い雲もほとんど見当たらない。
代わりに目に映ったのは、フォアブリッジには絶対に存在しない、こんなものが建っていたら逆に浮いてしまうほどの高いビル群だった。
高層マンションなのかどこかの会社なのかは知らないが、とにかく高い。天にまで届きそうだというのが誇張表現にならないくらいだ。
高いのは姿だけではなく、家賃もフォアブリッジのそれの数倍もの値段なのだろう。
ただ店は大なり小なり腐るほど存在しているから、そこだけで国中の物が買え、国中の娯楽を享受出来るだろう。
遊びに行くならいいが、住む気にはなれない。というより住むことは出来ないのほうが正しいけど。
そんな大都会のど真ん中にある公園だった。
何もかもが違いすぎる。
しかし、それだけだった。
オレはそんなメガロポリスを見ても、都会に対する羨望や憧れの念を抱くことはなかった。
唯一の感想である『高い』以外に何も浮かばなかったのは、オレの感受性が乏しいわけでも、都会を見慣れているわけでもない。
それほどに無機質な光景だったのだ。
整然と区画されて植えられた木々は、家の窓から見える木と同じ植物のはずなのに、どこか雰囲気が違う。
オレの家の周りに立つ木どもは、枝はさまざまな方角へ伸び放題、葉の茂り方も散髪していない髪のようにボサボサしている。
それに対して、アーテの周りに見える木たちは、枝は綺麗に切りそろえられ、葉はまるで美容院で切ってもらったばかりの髪のように風になびいていた。
やはり明らかに場所が違う。
「なんだ・・・セントラルか・・・チェッ」
今からどんなに急いで向かっても彼女には会えない。
舌打ちしながらも、オレは不貞腐れてはいなかった。もうひとつの『期待』が実現するのを待っていたからだ。
それが見られれば今日はいい日になる。絶対になる。
そんな根拠の無い予感を抱きつつ、テレビにかじりついた。
画面上ではアーテが公園の芝生にぺたんと座りながら、その周りを走り回る子犬たちに「カワイイ!」を連呼していた。
また自らも一匹の子犬を抱きしめ、その小さな頭を優しく撫でている。
それはまるで可憐な美少女がぬいぐるみを抱いて、遊んでいるようにしか見えない。
腕に包まれている幸せ者は気持ちよさそうに大きなあくびをしていた。
『あの犬になりたい』
そう一瞬でも思ってしまったことをオレは否定できず、代わりに首を左右に激しく振った。
いかがわしい妄想を振り払いながらも、オレはテレビ画面からは決して目を離すまいとしていた。
アーテは相変わらず可愛らしい笑顔のまま、子犬の種類を丁寧に紹介していた。
ちょっと緊張しながらもきちんと仕事をこなす姿はカワイクもあり、また立派だった。
紹介された子犬はどれもペットとして人気がある犬種ばかりでオレも知っていたが、中には珍しい種もいくつかあった。
お金に余裕があればオレだって犬の一匹や二匹飼いたいが、前述のようにそれは絵空事でしかない。
しかし、今はそれよりも大事なことがあるのだ。
オレの目のレンズはアーテの一挙手一投足を収め続けていた。一瞬でも見逃すまいと目を皿のようにして、である。
確かにアーテの笑顔はテレビを通してとはいえ拝見することができた。だが、オレはまだ満足していないのだ。
次は『あれ』を頼む!いや、お願いします!
そう念じているうちにオレの頭では再び妄想という名の侵入者がぞくぞくと入り込んでいた。
テレビ購入についての『もし』はすぐに頭から追放できたのに、この妄想は次々とオレの思考を支配していく。
もし、この娘がオレの妹だったら絶対に『おにいさま』と呼ばせたい。
もし、この娘がオレの妹だったら、手を繋いで歩きたい。全然、全く恥ずかしくなんかない。
もし、この娘が「新しいテレビが欲しいの。おにいさま」って言ったら、オレは即座に家を飛び出すだろう。
家出じゃないぞ。行き先はもちろん近くの寂れた商店街にある電気店。
まだ開店前?そんなこと関係ない!
この娘が「欲しい」って言っているのだ!それ以外に理由はいらない!
オレはチャリに跨ってそれはもう全速ダッシュで店に向かう。当然、店のシャッターはまだ地面にまで降りている。
フォアブリッジ商店街にあるこの電気店のキャッチコピーは『小さい店舗ながらも品揃えが良く、値段もサービスも良心的・・・』
これは店長のオヤジがよく言うフレーズでもあるが、そこには少なくない誇張が含有されている。
確かに言葉どおり店は小さく、大型チェーン店とは比較にならないほど差がある。
しかし、言葉どおりなのはそこまでで、値段を見るとチラシに載っている有名店と比べて値下げが足りない。
加えて客に対する接客もサービス精神が込められているとはお世辞にも思えない。
この店はこのオヤジが一人で仕切っているのだが、いかんせんこの店長は頭が固い。
客の言うことなどまったく聞く耳持たず。
文句を言われるものなら、「帰れ!」の一言だ。
これらのことを鑑みてもみなくても、結論はひとつ。
要するにこのオヤジはいいかげんなことを言っているだけなのだ。
こんないいかげんな店に、はたして客は来るのだろうか?来ると思うか?
実はそれが客はやって来るのである。
町の人々は電気製品を買うときは大抵ここで買うのだ。いやもっと正確に言うと、ここで買わざるを得ないのだ。
理由は単純明快。ここ以外に他に家電を売る店が近くに無いのだ。
もし、安さやサービスを求めて他の店に行きたいなら、どうしても遠出をしなければならず、駅をいくつも越えることになる。
往復で何時間もかかってしまう。それなら、少し値は張るがここで買おうということになるのだ。
それゆえこの店には商売敵なるものが存在しない。
ライバルがいなければ当然、競争もあり得ない。
競争が無ければ、サービスの向上や値下げも期待できない。
そんなわけで、ここのオヤジは『定価』という名の、本人曰く『誠実』な商売を続けているのだ。
・・・と、今は店の悪口を言っても仕方が無い。とにもかくにも目的のテレビはこの中だ!
ドン!ドン!
オレは乱暴にシャッターを、オレと家電、いや最新型テレビとを隔てる『壁』を叩く。
手には財布を掴んだまま、一心不乱に叩き続ける。
お金が無いはずじゃないのかって?そんなこと問題ではない!
オレはこの娘の、『妹』のためなら財布の紐を緩めるどころか、紐などつけん!常にオープンだ!
だから店もオープンしろ!くそオヤジ!今すぐに!
そしてオレに売るのだ!最新のテレビを!高画質のテレビを!
ドン!ドン!
そして今までの何倍もの画質でオレに映像を提供してくれ!そしてアーテに・・・『妹』にもっと綺麗な映像を見せてくれぇぇぇーーーー!!!
ドン!ドン!
さあ!さあ!さあ!!!
・・・・・・
はぁはぁ・・・ハッ!
居眠りしていたときに急に起こされてビクッとなったときのような感覚を覚えた。
ぼやけた世界が次第に鮮明になっていく。少し頭が重い。
ようやくオレは自分の妄想世界から現実世界に戻ってきたことを理解した。
あまりにもリアルな妄想にうっすら額と手に汗が滲んでいた。
カァーーー・・・
それと同時にものすごく恥ずかしいことに気づき、全身がほってりと熱くなった。
「やばい、やばい・・・また悪い癖が出てしまった・・・はぁ」
無駄な疲れを感じ、オレはため息をつきながら再びテレビ画面に目を向けた。
頭はまだどっしりと重石が載っているように重かった。
こんな馬鹿な妄想よりも1秒でも長く『妹』・・・じゃなかった、アーテを目に入れなければ!
「次のニュースです。昨日未明、ア・ヴァロン西地区シトリーにて通り魔事件がありました」
・・・・・・
は?次のニュースって・・・え?
オレは腕で目を擦ってからもう一度テレビへ目を近づけた。
しかし、画面を通して目があったのは可憐で笑顔の『妹』ではなく、冷静な表情の女性キャスターだった。
「被害者は17歳の高校生2人で、ともに軽傷を負ったということです。これに対してア・ヴァロン市警察は最近首都を中心に出没している連続通り魔と同一犯とみて引き続き捜査を行っています」
オレは全身からシューっと力が抜けていくのを感じた。
脱力感はすぐに失望感へと変化し、今まで妄想までしてワクワクだった胸の鼓動はすっかり鳴りを潜めてしまった。
あれ?・・・オレの『妹』は?アーテは?
オレはまた妄想の世界と現実とが入り混じっていたような感覚に陥った。
通り魔って・・・そんなのいいから早くアーテを出せって・・・なあ・・・
そんなオレの切実な願望は冷静な表情と無感情な口調で読み上げられるニュースによって、あえなくかき消されてしまった。
テレビ画面には広い芝生もその周りにそびえる高層ビル群も、元気いっぱいに走り回る子犬たちも、そしてオレの一押しアイドル、まだ駆け出しだけど、これからのアイドル、アーテの姿は無かった。
代わりに女性キャスターがスラスラとニュースを紹介している。
オレの記憶では今年入社したばかりの新人キャスターの一人だったはずだ。
確かテレビ局内では1、2を争う人気女性キャスターだって評判を聞いたことがある。
でもそんなことはどうでもよかった。
なぜならオレは周囲に幸せを与えるアーテ’sスマイルや最も期待していたどストライクな『あれ』も見過ごしてしまったのだった。
そりゃないよ・・・
オレは次々と読まれていく最新の出来事を右から左へ受け流すように耳に入れては、認識する前に放出していた。
要するに聞いていなかった。
知識を得ようとする欲求よりも『あれ』を見逃したという喪失感のほうが圧倒的にオレの心を支配していた。
しばらく呆然としていたが、オレの腹がすぐに現実に引き戻してくれた。
グゥーーー・・・・
見逃したのはしょうがない。アーテにはまた会えるし、そのときはきっとまた笑ってくれる。また目の前で『あれ』をしてくれる。
もちろんテレビを通してだけど・・・
オレはそう思うことでなんとか今日一日を生きていくのに必要なエネルギーを回復させようと努めた。
本来ならアーテのニコニコ顔と『あれ』でお腹いっぱいになるくらいの活力が満ちてくるのだが、今日は仕方がない。
オレは気持ちだけでなく正真正銘の空腹感を癒すために、テーブルに置いてあるトースターに食パンを一枚突っ込んだ。




