隣の女子は隣の男子が好き
休み時間。俺は今日も、隣の席に座る夢野さんと過ごす。それが当たり前になってから、どれだけの月日が経ったことだろう。
下校時も駅でお別れとは言え、夢野さんと一緒に帰る方が男友達とつるんで帰るより頻度が高くなっている。
今日も昼休み、二人で机をくっ付けて昼食を取るくらいだ。
「鳴海君、から揚げ一個あげるねー」
いつもコンビニのパンで昼食を済ませる俺を見かねてか、最近は夢野さんがお弁当のおかずを分けてくれる。
俺はそれを、ありがたく頂戴するのだった。
「サンキュー! んー、美味いっ」
わざわざカラフルな楊枝を刺してくれたが、俺の方は待ち切れない。
隣のから揚げをヒョイと指で摘まむと、そのまま口へと運んでいった。
「ふふっ、『斜陽』のお母さまだー」
「んー、行儀悪かった? あっ、でもハンバーグ食べる時は全部切り分けてからにしない?」
「えー! しないよー!」
こうして何気ない食事の際も、互いに勧め合った本の内容を絡めて話す。
それが、俺たち二人の楽しみ方だ。
「そう言えば、借りてた『ライ麦畑でつかまえて』読み終えたから持ってきたんだった。後で返すね」
「うん。そう思って、今日は次の本を持ってきてあるんだー」
「やったね! 家に帰ってからの楽しみだ!」
夢野さんが紹介してくれる本を早く知りたくて、俺はさっさとパンを食べ終えた。
カラの袋をゴミ箱に捨て、ついでに手も洗ってくる。
席に戻ると、机の上には大きめのサイズの本が一冊置かれていた。
「これ? 新しい本」
「うん。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』」
名前は聞いたことあるな。
それでなくとも、この三文字のタイトルからは何か荒涼とした雰囲気が伝わってくる。
「……内容は分かんないけど、何か気になるタイトルだな……『嵐が丘』だなんて、ちょっと怖そうな字面だし」
「キャッチーな雰囲気出てるよねー。登場人物も嵐みたいに激しい性格でね。主人公なんて、名前からして“荒地の崖”だし。ヒロインのキャシーも激情の持ち主で……でも、だからこそ登場人物が活き活きとして魅力的なの!」
話の内容は見当が付かないが、登場人物が魅力的だと聞くだけで読むのが楽しみになってくる。
「『嵐が丘』も、色んな出版社から翻訳本が出ててねー。新潮文庫は誤訳が多かったりして、内容を理解するのは難しいかも……でも、登場人物の気性の激しさは一番伝わる翻訳だと思うんだ」
確かに洋書は複数の翻訳者によるバージョンがあるし、翻訳者によってニュアンスが変わったりするんだろうな。
借りてた『ライ麦畑』は、村上春樹が翻訳した比較的新しい本(邦題『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)だったし。
実は『ライ麦畑』は昔の翻訳本が家にあったんだけど、たぶん母さんが若い頃に買ったやつだろうな。あまりに古すぎて、もうボロボロで読めなかったんだ。
「『嵐が丘』は岩波文庫からも出てて、こっちの訳は丁寧で分かりやすいよ。ただ、上下巻だから二冊買わないといけないけど」
「それで夢野さんが持ってきてくれたのは、どこの出版社の?」
「これは、集英社の世界文学全集から出てる本で……これが一番合ってるかなと思って」
「合ってるって……俺が読むのにってこと?」
「えっ? あっ、うん……い、色々と……ね?」
わざわざ俺好みの翻訳本を選んでくれたのかな、と少し嬉しくなって尋ねてみた。
しかし夢野さんの返事は予想外に言いよどんで、俺も首をかしげてしまう。
「んー……? まぁ、いいや! サンキュ、借りてくよ!」
夢野さんが勧めてくれる本は、もれなく面白いからな。
それを証明する一冊である『ライ麦畑』を夢野さんに返して、代わりに『嵐が丘』を鞄へとしまう。
「ね……全部、読んでね? その……本当に、いい本だから」
「あぁ、もちろん! ちゃんと読むよ」
今までも夢野さんは、俺に何冊も良い本を貸してくれた。その際に、今みたいなことを言ったりはしなかったはず。少し不思議に感じながらも、俺は夢野さんに答えた。
それだけ面白い作品ってことなんだろうと考えながら。
* * *
夢野さんに強く勧められたこともあって、この日は帰宅すると同時に借りてきた『嵐が丘』を開いた。
暗く荒々しい物語の舞台。そこで生きる、激情を宿した登場人物たち。
夢野さんから聞かされた通り、ヒースクリフもキャシーも俺も目の前で息づいていると錯覚するくらい力強く描かれている。
あまりに面白くて、休憩も入れずにどんどんページをめくっていると、不意にページの隙間に何かを見付けた。
「ん? しおりが挟んである……?」
本にはしおり代わりのリボンが付いているのに、わざわざ挟んでくれたのか。
しかし、それなら一ページ目に挟んでおきそうなもの。
このページが夢野さんのお気に入りで、すぐに開けるように挟んだのだろうか。
だとしたら、このしおりは動かさない方がいいな。
そう考えて、俺は続きを読みふけった。
「はぁー……凄い熱量だ……確かに、これは傑作だな」
続きが気になって気になって、一気に終わりまで読んでしまった。
激しくも純粋な愛の物語。夢野さんが念を押して勧めた気持ちが分かる気がする。
こんなにも、魂ごと燃やし尽くすような恋愛。体験できるのだとしたら、この身で確かめてみたい。
いや……俺はもう、ずっと前から……ただ一人の女性への想いに、身を焦がしている。
「あ……そう言えば、しおりが挟まってたな」
もう一度、初めから読み直そうか。それとも強く印象に残ったページに戻ろうか。
そんなことを考えながらページをパラパラとめくっていると、あのしおりが目に入った。
「九二ページ……キャシーが、ヒースクリフの魂と自分の魂は同じものだと言う場面か」
何故、夢野さんはここにしおりを入れたのか。
この場面が、夢野さんのお気に入りだからだろうか? それとも、俺にこのページを読んでほしくて?
そんな風に考えながらしおりを見てみると、シャーペンで何か数字が書かれていた。
「何だろ……“180”、“C2”、“17”の“8”から……“19”の“9”?」
まるで何かの暗号だ。しかし、どこかで見たことがある感じもする。
夢野さんは普段、俺に本を貸す時にしおりを挟むことはしない。
とすれば、やはりこのしおりは意図的に挟んだもの。夢野さんが俺に何かを伝えるために。
「この数字の書き方……そうだ、『恐怖の谷』だ!」
夢野さんが好きだと言っていた、シャーロック・ホームズ『恐怖の谷』に出てくる暗号とそっくりだ。
あれは確か、本のページや英単語の順番を数字で記した暗号文をホームズが解読したんだ。
夢野さんが好きな本を俺も読みたいと、あの後『恐怖の谷』を手に取った。
夢野さんは当然、俺が『恐怖の谷』を読んだことを知っている。その上で、この暗号を渡したんだ。
「そうなると、暗号を解く鍵は……この本の中にあるのか?」
しおりに書かれた数字と照らし合わせながら、『嵐が丘』のページをくっていく。
まず一八〇ページだろ……それから“C2”は二段目のことだ。
二段目の十七行目……そこの八文字目から……十九行目の九文字目まで。
「キャシーのセリフか。ヒースクリフへの永遠の愛を口にする場面……自分の中にあるヒースクリフの魂と、いつまでも一緒にいると告げる……」
暗号を解き明かして、そこに書かれた文章を心に留める。
これがきっと、夢野さんが『嵐が丘』を通じて俺に言いたかったこと。
キャシーの言葉を借りて、俺に伝えたかった夢野さんの想い。
「夢野さんの魂は……俺の魂と同じもの。俺は……俺の魂無しでは生きられない」
夢野さんの想いを受け止めた俺の口からは、自然とヒースクリフのセリフが零れ出た。
それこそが、偽りのない俺の気持ちなのだから。
本の中からしおりを取り上げて、今言ったセリフが書かれた一八九ページ目に挟む。
これで、俺の気持ちは伝わるだろうか。夢野さんの想いに対する返事――これだけじゃ足りない。
「ヒースクリフなら……何て言う? 自分の“魂のかたわれ”であるキャシーに、何て言って気持ちを伝える? この身を焦がす激しい想い……どんなに言葉で飾ってみても、この想いだけは正確に表すことが出来ない。教えてあげたい……俺は、いつだって君のことを考えていると……部屋の壁にも、空に浮かぶ雲の中にも、君の……咲姫の顔を思い出さない時は無いと……!」
それが、俺の本心。偽りの無い、心からの気持ち。
夢野さんに捧げる、愛の言葉。
それを最もよく表すヒースクリフのセリフがある。
夢野さんから言われた通り、『嵐が丘』を全部読んだからこそ分かる。俺の想いを代弁してくれるセリフが書かれたページ。
「ここだ……“360”、“C1”、“1”……」
指折り数えながら、該当するページ番号や行番号をしおりに書き足していく。
夢野さんに宛てた、俺からの暗号のラブレター。
きっと、これこそが夢野さんが待っている理想の返事の仕方なんだと思う。
ロマンチックなやり方じゃないか。直接、言葉を口にして告白するよりずっと。
明日、本を返したら……きっと夢野さんは楽しそうに『嵐が丘』の好きな場面、好きなセリフ、そんな話を俺と分け合ってくれる。
けど、その場では中を開いたりはしない。学校にいる間は、隣に座る俺を横目で窺うだけに留めて。
そうして俺の方も横目で彼女を見れば、目が合ったことにお互い照れ笑いを浮かべて。
家に帰ってから、夢野さんは期待を胸に『嵐が丘』を紐解くだろう。俺からのメッセージが隠されていると信じて。
その時には、胸に手を置きながら。
あぁ、そんな光景の一つ一つがありありと目に浮かぶ。それくらい、俺は夢野さんの気持ちを知っている。
夢野さんが好きな本、好きな時代、好きな音楽――そして、誰が好きなのかも。
彼女の魂が俺の片割れだと信じられるくらい、今ではもう俺は夢野さんのことをよく知っていた。
了