隣の女子はビートルズが好き
退屈、退屈……どうして学校の教科書ってやつは、こうも退屈な記述をする才能に長けた連中が書いてるんだ?
まったくエントロピーだのマクスウェルだの、少しは生徒が学問に興味を抱ける書き方をしてほしいもんだ。
「俺が授業に身が入らない原因は、ひとえに教科書の書き方に問題があると思うんだが。夢野咲姫さん、ご意見は?」
「うーん……主観を交えず、事実をありのまま簡潔に記述する……っていう点に関してのみ言えば、これほど優れた本も無いと思うけど……青少年の情操を刺激するプラスアルファがあっても良いとは思うよね」
教科書問題なんて言葉があるが、学生にとっての一番の問題は正に俺たちが話している点にあると思うんだ。
文部科学省には是非、子供たちのことを第一に考えた教科書作りに取り組んでもらいたい!
「でも、どれだけつまんなくても教科書が学生にとっては一番大事なんだよね。教科書の内容を覚えないと、テストも入試も上手くいかないし」
夢野さんは、その辺はもう達観しているみたいだ。俺みたいにウダウダ文句ばっか言ってるのは、ガキの証拠か。
「ちぇー……子供の頃は、防衛大に入ってやろうって意気込んでたけど……まァ、いい。官僚になるのが夢じゃないからな。俺は、立派な自衛官を目指すんだ!」
「鳴海君の夢って、自衛隊に入ることなの?」
そう言えば、自分の夢について同級生と話したことって無かったな。
いや、同級生に限らず大人相手だって相談したことはない。
否定されるのが……それ以前に、変な目で見られるんじゃないかって恐れがあって。
けど夢野さんの眼差しからは、偏見も好奇も感じられない。浮かんでいるのは、純粋な疑問だけ。
俺ともっと話したいという意思だけが伝わったから、それに後押しされて俺は口を開いた。
「俺、下の名前“陸空”っていうんだけどさ……苗字と合わせて自衛隊っぽいじゃん? 親がどんな願いを込めて名付けてくれたのかは、キチンとは聞いていないけど……小学生の時、震災のニュースを見て、救助に当たる自衛隊員の姿を見てさ……自分の名前について深く考えるようになったんだよ」
「名前、かぁ……私も、お母さんに聞いてみよっかな? 親が子供に一番最初にあげる贈り物……そこに、どんな想いが込められているのか。私の名前が持つ“夢の先”……それを見据えるためにも」
俺が話した名前と夢の話は、意外な形で夢野さんに届いたみたいだ。
俺に返事をすると言うよりも、自分自身の心に向けて夢野さんは将来を語る。
出来ることなら、夢野さんが思い描く未来に俺の姿が映っていてほしい。
そうなれるよう、俺は俺自身の将来をしっかりと見据えて今を生きるんだ。
「自衛隊に入る目的が何なのかって訊かれたら、上手くは答えられない。戦争が好きな訳じゃないし、日本を守るっていうのもよく分かんない……ただ、自分がこの名前にふさわしい奴なのかどうか……試してみたいんだ」
俺が言葉を続けると、夢野さんも顔を上げて微笑んだ。
相手の紡いだ言葉が、自分の胸へと沁み入るのを互いに感じていた。
「……将来の話は、おしまい! 我ら若人、今を楽しもう! 今日は俺から、夢野さんにオススメの一冊を持ってきたんだ!」
「ホント! 嬉しい~!」
未来について、どれだけ話したって現時点で答えは出ない。
今は今。二人にとって、一番楽しい時を過ごすべきだろう。
「持ってきたのはコレ! 『スタンド・バイ・ミー』!」
意外と言うか当然と言うか、夢野さんにだって詳しくないジャンルはある。
最近、俺にもそれが分かってきた。
「『スタンド・バイ・ミー』……そう言えば、読んだことなかった! 嬉しいっ!」
「俺も映画から入ってさ。原作を手に取ってみたら、これまた面白いんだ!」
特に映画ではカットされていた、終盤のワンシーン。
兄の死後、主人公に無関心だった両親が傷だらけの主人公に気付くという感動的な場面。
きっと夢野さんも、読み終えたら真っ先にそのシーンの感想を言ってくれるだろう。
夢野さんが勧めてくれた本の中で俺の心に響いた場面を告げる時、夢野さんはいつも俺と同じ感想を述べてくれるから。
「よーし、じゃあ今日は映画の主題歌の方の『スタンド・バイ・ミー』を聴きながら、これ読もっと!」
あの有名な一曲か。俺なんか、曲のワンフレーズを耳にするだけで頭の中には線路が思い浮かぶ。
『スタンド・バイ・ミー』に感化されて線路を辿る冒険に出るのは、時代を超えて誰しもが通る道だろう。
もっと昔の人だったら、芥川龍之介の『トロツコ』を読んで同じような気持ちになったのだろうか。
トロッコへの憧れだったら『小さな恋のメロディ』を観終えた後に強く抱くだろうし、その行き先は地獄なんかじゃない。
最後に二人は笑っていたんだ。『卒業』とは違うだろう。
「へー……夢野さん、クラシック専門かと思ってた。ほら、よくワーグナーの話してるし」
頭の中に流れるビージーズやサイモンとガーファンクルを押しのけて、俺は夢野さんとの会話を発展させていく。
「そりゃー、ショパンも聴くしバッハも好きだし、『第九』はドイツ語で歌える(ソプラノパートだけ)けど……やっぱり一番はビートルズだって思ってるよ」
令和の高校生がビートルズ!
こういう意外な趣味を聞けるのが、夢野さんとの会話の楽しみなんだ。
俺が聴くのは映画の主題歌以外じゃ、ディープ・パープルとかジューダス・プリーストみたいな激しい音楽ばかりだし夢野さんの話を聞いてみたいな。
「俺たちの世代でビートルズなんて珍しいよね。お父さんがレコード持ってるとか?」
「お父さんはジャズ専門。サッチモとか、むかーしのが好きで……一番新しいのでも聴くのは『イパネマの娘』くらい」
「じゃあ、お母さんの影響?」
「お母さんはねー、スプリングスティーンとかジャクソン・ブラウンとかの七十年代のナンバーが好きみたい。ちなみにお兄ちゃんは、髪をドレッドヘアーにして部屋にジャマイカの国旗を飾るくらいのレゲエ好き」
何だか、凄い一家だな。とりあえず音楽好きなのは分かった。
しかし、そうなると夢野さんがビートルズを愛聴するきっかけは何なんだ?
「ビートルズはね、ホントにたまたまラジオから流れてるのを聴いて……大きな雷が体中を貫いていったのを今でも覚えてる。あぁ、これが私が探し求めていた音楽なんだって……魂で理解できた瞬間だった」
口調は穏やかだけど、その熱意は俺にも伝わった。
夢野さんが本当に大事な宝物について語る時の、両手に胸を置く仕草を見せたから。
「それから、六十年代のロックは何でも聴いたよ。ストーンズとかビーチボーイズとか……でも、やっぱりビートルズに帰っちゃうんだよねー。アルバムは赤盤、青盤、白盤と持ってるのに、『ビートルズ1』まで買っちゃったりして!」
キャッキャッとはしゃぐ姿は、ミーハーな女子高生と何ら変わりない。
そんな可愛らしい笑顔を見ながら、俺は夢野さんと一緒にアビーロードの横断歩道を渡る夢を思い浮かべていた。
「ビートルズ以外だったら、ボブ・ディランを推しちゃうなぁ。『ライク・ア・ローリング・ストーン』聴いたことある? あれを聴けば、ディランのスゴさが分かるよ! もし分からなかったら……答えは風の中かなぁ?」
欣喜、あるいは恍惚。きっと夢野さんの頭の中は、好きなミュージシャンたちのコンサートが繰り広げられていることだろう。
そんな姿を、俺はジッと眺め続けていた。
やがて俺の視線に、夢野さんもハタと気が付く。それから恥ずかしそうに縮こまって、口をつぐんでしまった。
「……ははっ、いいんだよ。夢野さんが楽しそうに話してるの見るの、俺好きだからさ」
「……そ……そう、かなぁ……?」
ほとんど閉じたままの唇の間から、小鳥のさえずりみたいな声が漏れ聞こえる。
隣の席でなかったら確実に聞き逃してしまう鳴き声の小鳥に、俺は少しだけ身を寄せて続きを促す。
「ほら、話して聞かせてよ? 『イマジン』とか『ハッピー・クリスマス』の話、まだ聞かせてもらってないよ?」
「う……うん……けど、その……」
何だか、いつもの元気が無い。
さっきまで明るく話していたのに、目を伏せて口ごもっている。
心配になって顔を覗き込むと、火が出るくらい真っ赤になってるのが分かった。
「鳴海、君……私が、話してるの……そんなに、す……好き?」
まるで鏡に映しているかのように、今度は俺が顔を真っ赤に染めた。
いつもは心の中でしか告げていない本音を、つい口にしてしまったことに気が付かなかった。
「あ、いや……それは、ちが……」
何が違う? 何も違わないはずだ。
自分の本音を否定するなんて、男らしくないだろう。
心の奥のもう一人の自分に背中を押され、俺は伏せられたままの彼女の目を見つめた。
「……うん。好きだ……から、もっと……話していたい。夢野さんとの会話を、楽しんでいたい。俺が好きなこと、夢野さんが好きなこと……二人で分け合いたいんだ」
ひそひそと内緒話をするみたいに打ち明ける。ざわざわとした教室内で、他の誰にも聞かれない俺たちだけの会話。
周囲から冷やかされるのは、夢野さんだって不本意だろう。
だからと言って、このまま放っておくことなんか出来ない。
夢野さんを「ミス・ロンリー」にはしたくないし、俺だって「ひとりぼっちのあいつ」になるつもりはない。
「夢野……さん?」
短い休み時間が、永遠とも思えるくらい長く続いた沈黙。
そっと顔を上げた夢野さんの頬は、まだ赤みが差していた。
揺れる睫毛の奥、一際輝いて見える瞳は俺をまっすぐに見つめている。
それから、いつもの笑顔をゆっくりと取り戻していく。
「じゃあ……これからも、よろしくお願いします……なんてね、へへっ」
おどけて笑って見せる仕草が可愛くて、ここが教室でなければ俺は今すぐにでも夢野さんを抱きしめたい衝動に駆られた。
胸の奥を刺す痛みが、その想いを生み出していることに俺はとっくに気が付いていた。