隣の女子はホームズが好き
放課後の教室に残って、夢野さんは俺の隣の席でページをくっていた。
もう少しで読み終えるからと言われ、俺は本に食い入る彼女の横顔を見ながら待っていた。
「はぁ~~、面白かった!」
顔を上げた夢野さんは、心の底からそう思っているかのように満足げな声を上げた。
俺の一番好きな声色と表情だ。
「ありがとう、鳴海君。面白かったよ、この『アクロイド殺害事件』」
「喜んでもらえて良かったよ。俺、推理小説ってあんま読まないけど……これだけは家にあったからさ」
夢野さんから渡された本――アガサ・クリスティの『アクロイド殺害事件』を鞄にしまいながら答える。
この『アクロイド殺害事件』は、本好きの夢野さんにせがまれて俺が貸してた一冊だった。
「前から気になってた作品だったんだけど、なかなか読むきっかけが無くって……勧めてくれて、ありがとっ」
「そりゃ、良かった。夢野さんも推理小説はあまり読まない方?」
「ううん、そんなこともないよ。クリスティなら『そして誰もいなくなった』とか何回も読み返してるし、おばあちゃんの田舎に帰る時の新幹線の中で読むのは『オリエント急行の殺人』って決めてるし」
どうやら推理小説も、夢野さんの守備範囲だったみたいだ。アガサ・クリスティについても、俺なんかよりずっと詳しい。
その中で『アクロイド殺害事件』だけ読んだことが無かったのは、彼女にとっても俺にとっても運が良かったな。
「『アクロイド』はねー、児童書版の『いったい誰が犯人だ?』をお兄ちゃんが持ってて話を聞かされて、犯人が誰か分かってたから読むの後回しにしてたの」
そっか、確かに推理小説でネタバレを食らうのはキツいよな。
これから他の本を勧める時に気を付けよう。
「でも実際に読んでみたら、『えっ、本当にこの人が犯人なの?』って思えるくらい巧妙な書き方されててビックリしちゃった。お兄ちゃんに教えてもらった内容、勘違いしてたのかなーって」
「そうしたら、本当に聞いてた通りで驚いた訳だ。俺は前情報無しで読んだからもちろん驚いたけど……なるほど、ネタバレされてても楽しめるもんなんだな」
「うんうん! クリスティは、犯人が誰なのか読者に考えさせる書き方が上手いんだよね! あと、この人だけは絶対に犯人じゃないっていう読者の思い込みを逆手に取ったりとか」
「あ~、確かに。『アクロイド』とか、正にその代表だもんな」
「さっき名前挙げた他の作品もね。あとは『エンド・ハウス殺人事件(邪悪の家)』とかも。そういう構成が面白い作品だから、犯人が誰か分かってても楽しめるんだと思うんだ!」
ニコニコ笑って見せる夢野さんの表情は、ウソを言っていない。
俺が勧めた本を読んで、いっそう確信できたことへの喜びが表れていた。
そんな夢野さんの笑顔を引き出せたことに、俺自身も嬉しくなっていた。
「そっかー。推理小説って言っても、読者の楽しみ方は推理するだけじゃないもんな。やっぱり話が面白いっていうのが重要なんだな」
「そうだよ。ホームズとかチート過ぎて、読者が推理する前に解決しちゃうくらいだし!」
話題がアガサ・クリスティから、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズに変わった。
ホームズ自体は読んでいないけど、多少は知っている。
「ホームズかぁ……ドラマの再放送で観たけど、確かに面白かったもんなぁ」
「ジェレミー・ブレット主演のドラマでしょ? 原作をそのまま実写にしたみたいなドラマだったから、小説の方も楽しめると思うよ?」
「あぁ、それなら是非読んでみたいな! 俺、『瀕死の探偵』が特にお気に入りでさー」
「面白かったねー。完全に騙された! って感じで。でも原作の方は短編だから、実はドラマの後半部分しか書かれてないんだ」
「へー、そうなんだ。そうやって比べてみるのも面白いな!」
「私、ホームズは長編も短編も全部読んだけど……長編で一番だと思うのは『恐怖の谷』かなぁ」
シャーロック・ホームズの長編作品……『緋色の研究』とか『四つの署名』とか、あと『バスカヴィル家の犬』は聞いたことあるな。
その内、二つはドラマでも観たことあるけど『恐怖の谷』は知らないな。
「気になるなー……どんな話なの? って、聞かない方がいいか」
「鳴海君、前情報は無しで読みたい派だもんね。前後半でそれぞれ独立したお話なんだけど、どっちもラストに絶対に驚かされるよ! だから『恐怖の谷』もオススメ!」
夢野さんに勧められた本は、本当にどれも面白い。
もっと正確に言えば、どれも俺好みなんだ。
夢野さんに勧められたから、そう思えるのか……それとも、夢野さんと趣味が合うからなのか。
「分かった。今度、読んでみるよ」
「うん! そうしたらホームズの好きなシーンとか、もっといっぱい話せるね!」
そうだよな。ドラマで観て気に入った場面とかあっても、もしかしたら原作には書かれてなかったりするだろうし。
シャーロック・ホームズの物語が面白いこと自体は分かってるんだし、小説の方もきっと楽しめるだろう。
「ちなみに鳴海君が好きな『瀕死の探偵』が入ってるのは、短編集の『最後の挨拶』だよ。ホームズの短編集って、出版社によって収録作品が違うこともあるから気を付けてね」
「そうなのか? 本当に詳しいな……いや、そういう情報を教えてもらえるの助かるよ」
最初は、夢野さんとの会話を楽しむために始めたような読書の習慣だった。
それが、この頃は読書自体が本気で楽しいと思えるようになっていたからな。
これから読む本に関するお得な情報は、素直にありがたい。正に「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」だ。
「えへへ、ありがと。でも、詳しいって言っても私はただ読んでるだけだよ? 世の中にはシャーロキアンって言って、本格的にホームズの研究とかしてる人だっているんだから」
「シャーロックのフリークだからシャーロキアンか? ワーグナー愛好家をワグネリアンと呼ぶみたいだな?」
ポロっと呟いた、何気ない感想。だが、それを聞いた夢野さんは何故か瞳を更に輝かせてきた。
俺の方に顔をグイっと迫らせてきたため、思わずゴクリと唾を飲んでしまう。
「鳴海君もワーグナー好きなの? 『ニーベルングの指環』の話とか聞きたいっ。鳴海君の好きな場面とか!」
夢野さんが俺の話に興味を持ってくれたことは嬉しい。
けど、そんなに顔を近づけられると緊張して声を出しづらくなるのも事実。
「オ、オペラは詳しくないけど……ほら、映画の『地獄の黙示録』で『ワルキューレの騎行』が流れてたから、それで興味持ってワーグナーの曲を探したりしてたんだ……」
「うんうん、私は北欧神話について調べてる内にワーグナーに行きついたの。ふふっ、人によって色んなきっかけがあるんだねー」
そうみたいだな。北欧神話と言ったら、俺なんか昔観た『聖闘士星矢』の映画しか思い浮かばないくらいだが。
夢野さんは映画はあまり観ないのか? やっぱり本が好きなのか。
「いいよねー……シャーロキアンにしろワグネリアンにしろ、自分の好きなことに夢中になれるのって……」
少しだけ身を離した夢野さんは、今度は両手を自身の胸に置いてウットリしている。
そう言う夢野さん自身が正に今、自分の世界に入り込んでいる気がする。
そして、そんな夢野さんが魅力的だと感じてしまう俺はきっと……もう完全に彼女に夢中なんだろう。
「本を読んでる時って、その話の世界に入り込んじゃうもんな。シャーロック・ホームズとか、あの時代のイギリスに詳しくないと入り込むのも難しいかもしれないけど」
「そうかもね。けど、逆のパターンもあると思うよ。小説をきっかけにして、昔の時代とか外国の文化とかに詳しくなったりとか」
「あー、それもありそうだな。刑事ドラマが好きな人が『鬼平犯科帳』を読んで江戸時代に詳しくなったりとかありそう」
「それだったら、推理物とかミステリーが好きな人にオススメなの知ってるよ」
パチンと手を叩く夢野さんは、何かをひらめいたみたいに明るい表情を見せる。
夢野さんが何を語るのか気になって、今度は俺の方が身を乗り出していた。
「えっとね、『戦場のコックたち』っていう第二次世界大戦のアメリカ兵を探偵にした小説があるの。鳴海君、戦争映画とか好きなら興味あるんじゃないかなぁ?」
「へー、面白そうだな。読んでみようかな」
「うん、オススメできるよ! 探偵物も第二次世界大戦を扱った本もたくさんあるけど、その二つを合わせた小説って珍しいし」
言われてみれば、そうかもしれない。それだけに関心を抱ける題材だ。
「あとは『太閤暗殺』とか。豊臣秀吉の時代を舞台にした密室トリックが出てくる作品なんだけど、これも結末に絶対にビックリするよ!」
夢野さんの口ぶりは、確かに面白そうだと感じられる。
しかし、それと同時に面白くないことも一つ思い出してしまった。
「日本史のミステリーかぁ……それ自体は面白そうだけど、明日の日本史の授業は眠気との戦いだなー……」
歴史の授業って、暗記ばっかで面白いと感じられないんだよなー。
夢野さんだったら、退屈な教科書でも瞳を輝かせて読めるんだろうか?
「日本史はねぇ……よしっ、その話はまた明日しよっか?」
またしても手をパチンと鳴らして、それからイタズラを思いついたみたいな笑顔を見せてくる。
何やら秘策あり? 夢野さんの無邪気な笑顔を見ていると、退屈な授業が待ち受けている明日でさえも何だかワクワクしてくる。
早く明日の放課後にならないかな……きっと二人とも、そんな期待を胸に宿してる。
待ち遠しい気持ちをあえて口にはせず、今日のところは家に帰ることにした。