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水筒の卵

作者: 村崎羯諦

「お兄ちゃん! 早く早く! 卵が孵るよ!!」


 妹の呼びかけに僕は慌ててリビングへと戻る。部屋の隅に座る妹の横に腰掛け、目の前に敷かれた小さなマットを覗き込む。マットの真ん中に置かれた楕円の卵にはギザギザのヒビが入っていて、全体が小刻みに揺れている。僕と妹は息を飲み、じっと卵を見つめ続ける。少しづつヒビが大きくなっていき、ついに卵が割れる。卵の中から姿を現したのは、容量30mlほどの小さな小さな水筒の赤ちゃんだった。


「可愛い!!」


 生まれたての水筒の赤ちゃんがよろよろと立ち上がろうとしている姿を見て、妹がキャッキャっと歓声をあげる。僕は水筒が自分の力で立ち上がったのを確認してから、乾いたハンカチで濡れた表面のステンレスを優しく拭いてあげる。生まれた赤ちゃんは父親と同じ、蓋を回して飲むマグタイプ型で、色は母親と同じカームブルー。まだ赤ん坊だからかステンレスの光沢は鈍く、またほんのりと温もりを持っている。大事にしなさいよ。いつのまにか後ろに立っていたお母さんが諭すような口調で僕に声をかけた。もちろんだよ。僕はお母さんにではなく、生まれたばかりの水筒の赤ちゃんに語りかけるように、そう呟いた。


 それから僕と水筒の毎日が始まった。最初は身体が小さかったけれど、月日が経つにつれてすくすくと成長していき、一年もしないうちに大人の水筒と同じ容量500mlまで大きくなった。ちょっとだけ女の子っぽい色をしていたから同級生の男子からバカにされたり、ホームセンターに並んだ大人の水筒しか知らない子達から不審な目で見られたりもしたけど、それでも僕はへっちゃらだった。卵から僕が育てたっていう愛着もあったし、なにより水筒も僕に懐いてくれているという感じがすごく伝わってくるからだ。学校に行く時も、遠足に行く時も、僕はいつもこの水筒を持っていった。たまにサボっちゃう時もあったけれど、水筒のお手入れもできる限り僕がやった。妹はまだ自分の水筒を飼っていなかったから、僕の水筒をすごく羨ましがっていた。だから、本当はちょっとだけ嫌だったけれど、お兄ちゃんだから我慢して遠足の時なんか水筒を貸してあげたりした。僕ほどじゃないにしても、水筒は妹にもよく懐いていたから、妹と一緒にお出かけするのは水筒自身もすごく楽しそうだった。それにちょっぴり嫉妬しちゃうこともあったけど。


 新しい水筒をひんぱんに入れ替えたり、外国生まれのおしゃれな水筒を自慢してくる同級生もいた。それを僕は一度も羨ましいだなんて思った事はなかったし、そういうやつらに僕の水筒を馬鹿にされたときなんかは喧嘩に発展しちゃうこともあるくらいだった。


 とにもかくにも、僕は僕の水筒のことが大好きだった。妹も、そして、お母さんもお父さんも。水筒は家族の一員だった。だから、ずっとずっと一緒にいられる、そんなふうに僕は考えていた。



*****



「どうしたんだろう……茶渋が全然取れない」


 いつものように水筒専用の細長いスポンジで中を洗いながら僕はつぶやいた。確かに生まれた時と違って、中の汚れが落ちにくくなっているのは事実だった。だけど、ここまで茶渋が落ちないのはすごく奇妙だった。僕はなんだか不安になって、お母さんに水筒の様子を見てもらった。水筒を受け取ったお母さんが中を確認して眉をひそめる。病院で診てもらったほうがいいかもしれないわね。お母さんは今まで聞いたことのないような沈んだ声でそう答える。どうしたの? と何も知らない妹が無邪気に尋ねてくる。僕の心の中では大きな不安の渦が渦巻いた。



*****



「寿命ですね」


 白衣を着た水筒医が神妙な面持ちで僕たちに告げる。水筒は待合室にいる妹が持っていて、診察室の中には僕とお母さんの2人しかいない。お宅の水筒は何歳になられますかとお医者さんが尋ね、僕が三歳くらいだと返事をする。


「大事に世話していたんだね。今時、それだけ長く使ってもらっている水筒はないから」


 お医者さんは優しく呟きながら、パソコンの画面上に水筒のレントゲン写真を映し出す。ステンレスの劣化が進んでいること、パッキン部分に長年蓄積した見えない汚れや菌がこべりついていること、そして、この状態で使い続けると衛生上よくないこと。お医者さんはそれら一つ一つを僕にもわかる言葉で説明してくれる。手術とかはできないの? 僕がそう尋ねると、お医者さんは悲しそうな表情で首を横に振った。


「君みたいな素敵な飼い主に愛されて、十分に幸せだったと私は思うよ。とても悲しいとは思うけど、安らかに死なせてあげよう」

「い、嫌だ!!」


 僕は反射的にそう叫んだ。僕はぐっと唇を噛んで、泣くのを堪える。それでも視界が涙でぼやけていく。そのぼやけた視界の中でお医者さんが僕に歩み寄り、そっと肩に手を置いて語りかけてくる。


「いいかい。永遠に生き続けることなんてできないんだ。人間も、そして水筒も。命あるものはいずれ死んでしまう。ひょっとするとぼろぼろになってまでいき続けさせることはできるかもしれない。でもね、長く生き続けることに意味があるわけじゃないんだ。限りある生の中で、尊厳をもって生きることに意味があると私は思うよ。水筒として使ってもらえないまま、飼い主の都合だけで生き長らえるのはすごく悲しいことなんだ。だから、せめて最後まで水筒らしくいさせてあげるべきなんじゃないかな」


 涙がとめどなく溢れ出してく。僕はお医者さんの問いかけにこくりと頷いた。お医者さんは偉いねと僕の頭をくしゃくしゃとなで、それからお母さんと事務的な事柄について話し始める。目を閉じると、今までの楽しい思い出が次々と浮かび上がってくる。そして水筒の卵が孵った瞬間の記憶が蘇ったと同時に、僕は狭い診療室の中で大声で泣き始めた。


 それから、僕たちは待合室で待っていた妹と水筒と一緒に家に帰った。現実を受け入れられない妹をなだめるのは大変だったけれど、それでも大好きな水筒のためならと泣きながら同意してくれた。僕たちは水筒を綺麗に掃除してあげた後、自治体が定めたルールに則って、不燃ごみ用のビニール袋にそっと包んであげた。そして、土曜日の朝。僕たち家族が見守る中で、水筒は事業者の手に渡り、そのまま収集車に載せられて、終の場所へと向かっていった。別れは胸が引き裂かれそうなほどに悲しく、辛い。それでも。この別れの辛さをもう一度味わうことになるとしても、僕は水筒と過ごした三年間を決して後悔はしない。いや、したくなかった。僕はぐっと涙をこらえた。そして、泣きじゃくる妹の肩を抱きながら、じっと水筒を載せた収集車の消えていった方向を見つめ続けた。


 水筒を見送った後、僕たちは家の中に戻った。すると、涙で目を真っ赤に腫らした妹があっ、と小さな声でつぶやくと、いつも僕が水筒を置いていたテーブルへと走って近づいていく。


「お兄ちゃん、見て! 卵が……水筒の卵があるよ!!」


 そんな馬鹿な。僕が急いでテーブルに駆け寄ると、妹の言う通り、そこには確かに小さな水筒の卵がぽつんと置かれていた。僕と妹は目を合わせる。それから後ろにいるお父さんとお母さんへと目を向けたが、二人共心当たりがないと不思議そうに首を傾げるだけ。きっとあの水筒の子供だよ。まさかとは思いながらも、僕は妹の言葉に頷かざるを得なかった。なぜなら、その卵の色は僕が孵した卵と瓜二つの色をしていたからだった。


「今度は明里がこの卵を育てたらどうかな? ほら、前々から自分の水筒が欲しいって言ってただろ?」

「でも、お兄ちゃん……」

「いいんだ。きっとその方が水筒も喜ぶと思う」


 本当のことを言えば、大好きな水筒をもう一度僕が一から育ててみたかった。だけど、命のバトンが親から子へとつながっていくように、僕から妹へ、素晴らしい思い出を作るという経験をつないでいくべきなんだって、僕は思った。


 お父さんが僕の肩にそっと手を置く。大事にできる? と僕が妹に尋ねる。妹がうんっと元気よく返事をした。妹の小さな掌の中で、小さな卵がかすかに揺れたような気がした。

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