衝突(1)
――力が……
――また、あんたかよ!
郁夫の目の前には手足の生えたタマネギがいた。
――根岸だ。
――分かってるよ!
――力が、の続きを言わせろ。
――なんて言いたいのかも分かってるよ。
呆れた調子でそう言うと、根岸も呆れた調子で言葉を返してきた。
――決めつけるのは良くないぞ。
――ああ、じゃあ、根岸さん、続きをどうぞ。
――力が、欲しいか?
――やっぱり!
つくづくおかしな夢だと思う。根岸の話が本当だとすれば、彼は体内に棲みついたということになる。つまり、一生こんな夢を見続けなければならないのだろうか。
憂鬱な心持ちになって溜め息を零すと、根岸が再び話しだした。
――安心しろ。いずれ、この夢は見なくなる。
――本当かよ?
――ここは語らいの場。私とお前が完全に融合すれば、語り合う必要もなくなる。
――えっと、それもお断り願いたいですね。
――お前、わがままだな。
腹立たしく思うが、タマネギ相手にムキになるのも人間としての尊厳が損なわれる気がする。郁夫は、小さく深呼吸をしてから話を進めることにした。
――で? 何か用ですか?
――まずは無事脱出したことを労おう。ネギだけに。
――あ、ありがとうございます。
冷めた面持ちで礼を述べると、根岸は満足そうに頷いた。
――さて、これからお前には、ある場所に行ってもらう。
――確か西に行けって言ってたよな。
――そのことなのだが。
――なんだよ。根岸メモを探すんじゃなかったっけ?
――実は……
そこで突然、風景が大きく揺れ動き、やがて暗転した。
――長沢先生、起きて。
郁夫は、頭を揺さぶられていた。目を開けると、スカートにガスマスクという奇妙な出で立ちの人物がいた。美佳だ。美佳は軽蔑の視線をこちらに寄越していた。
「なんだよ。タマネギと話してたのに」
不満げに言う。すると彼女は、少し間があってから呟いた。
「うわぁ……」
あからさまに引き気味だ。マスク越しでも怯えている様子が窺える。
郁夫は慌てて取り繕うように咳払いをし、口を開いた。
「で、でさ、なに?」
「なにって、そんな大声で寝言を言ってたら見つかっちゃうよ」
夢の映像が脳裏に蘇る。今回の夢は、ハッキリと記憶に残っていた。
「ここなら大きな声を出しても大丈夫だろ」
「どうしてそんなに楽観的でいられるのか不思議だよ」
「いやぁ、それほどでも」
郁夫と美佳は、街中にある雑居ビルの屋上にいた。日はもう暮れている。大学の研究所から逃走し、二人はここに身を隠したのだった。
美佳が室外機に腰を掛け、無造作に大きな袋を差し出す。
「とりあえず頼まれた物を買っておいたよ」
袋の中には、服や靴、リュックや寝袋などが入っていた。
「サンキュ」
軽く礼を述べ、さっそく着替えを始める。その様子を美佳が見つめている。
「な、なんだよ。恥ずかしいから見るなよ」
「ねえ、そんな薄着で、よく居眠りなんか出来たね。寒くないの?」
「寒かったに決まってんだろ!」
「え? なんでわたし怒られたの?」
美佳の言葉を無視して郁夫は速やかに着替えを終え、コンクリートの上に座った。
「いやぁ、暖かくなったよ。暖かくなったら腹が減ったな。美佳ちゃん、今度は晩飯を買ってきてくれる?」
そう言うと、美佳は小さな袋を投げて寄越し、抑揚のない声を発した。
「もう買っておきましたけど」
受け取った袋を確認する。そこには、おにぎりとペットボトルのお茶が入っていた。
「さすが美佳ちゃん。やっぱり優等生は一味違うね。いただきまぁす」
「おごりじゃないからね! ちゃんとお金は返してよね」
「分かった分かった。返す返す。でもさぁ、俺のバイト代って美佳ちゃんの親が払ってるものじゃん。前借りと思えば、返却する必要もなくね?」
「最低。返す気ないでしょ?」
「返すよ。返す返す返す」
おにぎりを頬張りながら適当に相槌を打つと、美佳は冷めた声色で話し始めた。
「あのさあ、もうちょっと真面目に感謝しなよ。いまの先生は一人で買い物も出来ない状態なんだよ? だいたい、これからどうするつもり? 逃げ回っていてもタマネギになっちゃうんでしょ?」
美佳には概ねの事情を伝えてあった。ただし、夢のことはまだ告げていない。
郁夫は、おにぎりを片手に立ち上がり、一つの方角を指差した。
「西へ行く!」
「先生、そっちは東だよ」
「あ、じゃあ、こっちだ!」
美佳がじっとこちらを見据える。その怪訝そうなゴーグル越しの瞳に促され、郁夫は詳しい説明をすることにした。
「実はな、信じてもらえないかもしれないけど、さっき話した古代遺跡調査隊の根岸って人と夢の中で会ったんだよ。その人から西へ行けって言われたんだ」
「先生、本当に頭大丈夫?」
「大丈夫に決まってんだろ、尖ってるけど。でだ、その根岸さんは生前に根岸メモという手記を残したらしいんだ。それさえ手に入れれば俺は元に戻れる」
「オーケー、話は分かった。仮に、仮にだよ、先生の話が本当だとしても、ヒントが西だけってアバウト過ぎない?」
「だからさ、そのことを夢の中で聞き出そうとしていたんだよ。でも、美佳ちゃんに起こされて、詳細は分からずじまいだ」
「まるでわたしが悪いみたいじゃない」
「否定はしないよ。どうしてくれるんだ!」
八つ当たりをすると、美佳はスマートフォンを取り出し、それを操作し始めた。
「タジキスタンで起きた調査隊の事故だよね? あ、あった。根岸って人は、多摩里大学で考古学の准教授をしていた人だね。多摩里大なら、ここから西にあるよ」
「それだ。そこに根岸メモがあるんだよ」
郁夫は人差し指を振りながら美佳の手元にあるスマートフォンの画面を覗き込んだ。画面には、口髭を生やした中年男性の顔写真が映っている。
「美佳ちゃん、これ誰?」
「先生の言っていた根岸准教授だよ」
「いや、俺の知ってる根岸さんはさ、もっとふくよかだったよ。例えるならタマネギみたいな人だったな」
「どちらにしても、多摩里大くらいしか行くあてがないでしょ」
「まあ、そうだな……」
一つ呟き、それから郁夫は、再び西を指差して言い放った。
「ゴー、ウェスト!」
頬杖をつきながら美佳が言う。
「西遊記みたいだね」
「言えてる。さながら俺は三蔵法師で、美佳ちゃんは猪八戒だ」
「先生、本気で怒るよ」
ただならぬ殺気を感じ、郁夫は即座に謝罪をした。
「ごごごごご、ご、ごめんなさい」
美佳は深く溜め息をついた。
「それとさあ、先生。わたしは一緒に旅をする気はないからね」
「マジで!」
「当たり前でしょ。多摩里大は都内にあるんだし、徒歩でも一日二日あれば辿り着けるじゃない。食べ物は余計に買っておいたから、あとは一人で頑張ってね」
「そんなぁぁぁ」
子供のように駄々をこねてはみたが、美佳は立ち上がって小さく手を振った。
「親が心配するから帰るね。じゃあね」
「美佳ちゃぁぁぁん……」
美佳の後ろ姿に向かって情けない声をあげ続ける。しかし美佳は振り向かない。
その時、背後から気になる音声が聞こえてきた。
『東京都内で発生した連続毒ガステロ事件について、警視庁は、新たに容疑者の情報を公開しました……』
女性アナウンサーの声。どうやら、どこかでニュースが流されているようだ。振り返って金網のフェンスに張り付くと、見下ろす位置に大型ビジョンがあり、案の定、そこにニュース映像が映っていた。
カシャンッと音が鳴り、かすかにフェンスが揺れる。横を見ると、美佳が郁夫と同じようにフェンスに張り付いていた。
「あれ? 美佳ちゃん、戻ってきてくれたの?」
話し掛けるが、美佳は一切反応を示さず、金網を握り締めながら声を漏らした。
「ちょっと、これ、どういうこと」
美佳の視線の先に目を向けると、大型ビジョンに郁夫の顔写真が映っていた。
「な! 俺、俺がテロリスト?」
「違うよ。問題はそこじゃなくて、その下!」
そう言われて改めて画面を良く見てみると、そこにはこう書かれていた。
『長沢郁夫(二十)、都内高校に通う女子生徒(十七)』
美佳が叫ぶ。
「どうしてわたしが容疑者なの!」
「美佳ちゃん、とんでもないことをしちゃったな」
「先生には言われたくないよ!」
そんな会話をしている間も、ニュースが進行する。
『……長沢容疑者らは、研究所職員四名に暴行を加え、新たな薬物を奪って逃走した疑いが持たれています。なお、警視庁の発表によれば……』
美佳が軽蔑の視線を郁夫に向ける。
「先生、そんなことしたの?」
「してないよ!」
「だよね。先生は悪党だけど、そこまで酷い悪党じゃないもんね」
「う、うん。って、なんか釈然としないなぁ」
大型ビジョンの映像が切り替わり、郁夫と美佳が街を走っている様子が映る。スーパーから逃げ出して、森のクマさんごっこをした時のものだ。知らぬ間に防犯カメラに姿を捉えられていたらしい。
すぐまた映像が切り替わり、今度は『事件を目撃した人は』というテロップと共に、中年女性の顔が映し出された。その女性が喋り始める。
『わたしは、ウォーターと叫んでしまうほど目が痛くて、ちゃんと見ることが出来なかったのですけど、制服を着た女の子が先頭を走っているっていうのは分かりました。男の子は、お嬢さん、とか言っていたので、子分なんですかね』
そのインタビューを見た美佳は歯を食いしばりながら愚痴を零した。
「なんでわたしが主犯みたいになってんの」
「主犯は美佳ちゃんだったのか」
「先生まで、なに言ってんの!」
大型ビジョンの映像は、次のニュースに切り替わった。
そこで美佳は大きく頷いて、真剣な眼差しで郁夫のことを見た。
「長沢先生、すぐに逃げよう」
郁夫は首を傾げた。
「焦らなくても、ここは簡単には見つからないよ」
「ううん。時間の問題で警察が来るよ。わたしが容疑者になっているってことは、行動の履歴を追われているはず。さっき近くのコンビニでお金を下ろしたし、それに……」
美佳は思い出したようにスマートフォンの電源を落とし、舌打ちをした。
「先生、スマホの位置情報も抜かれているだろうから、いまこの瞬間に警察が来てもおかしくないの。急ごう」
有無を言わさず手を引かれ、郁夫は美佳と共に走った。
そうして非常階段を駆け降りて屋外に出ると、幸いにも人通りが少なかった。ただし大通りを挟んで向こう側は繁華街だ。逃げる方向は限られている。
郁夫は、「どうする?」と、美佳に尋ねた。美佳は何も言わず、少し距離を取ってからガスマスクを外した。
何か考えがあるのだろうか。そう思って、しばし様子を見守る。すると美佳は通りに向かい、走行中のタクシーを呼び止めた。
「嘘だろ! 美佳ちゃん、一人で逃げるのかよ!」
美佳はタクシーの後部座席に乗り込み、運転手と会話をし始めた。ところが、すぐに何事もなく戻ってきて、再びガスマスクを装着した。
客を乗せていないタクシーが発進する。郁夫は意味が分からなかった。
「み、美佳ちゃん? 何してんの?」
美佳が飄々と答える。
「手持ちがないからやっぱり乗りませんって言っといた」
「一人で逃げようとした、のかな?」
「違うよ。電源を入れたスマホをシートの隙間に差し込んでおいたの。これで、少しは位置情報を撹乱できるよ。さあ、逃げよう」
郁夫はただただ感心した。
「美佳ちゃん、さす……」
さすが、と言おうとしたが、言葉を飲み込む。
「美佳ちゃん、逃げるのが少し遅かったみたいだ……」
郁夫の視線の先で三台のパトカーが停車し、その中から何人もの警官が姿を現した。