逃走(3)
階段を数段飛ばしで駆け降りる。
郁夫は、出口を探していた。ここに連れてこられた時はガスを防ぐ袋を被せられていた上、監禁されている間は一部の検査室にのみ出入りをしていた。その為、建物の構造を理解していなかったのだ。
毒を扱う施設だからだろうか、警備は厳重で窓の類は見当たらず、また、どの扉も頑丈そうだ。しかも、無駄に広い。お陰で一分の一スケールのリアル脱出ゲームを強いられている。といっても、悪い点ばかりではなく、それは都合良くもあった。二名の研究員が悲鳴をあげて倒れたにもかかわらず、騒ぎが起きている様子はない。この入り組んだ造りによって未だ誰も逃亡に気が付いていないのだろう。
出口があるとしたら一階だ。そう当たりをつけ、とにかく下の階を目指す。そうして一階に辿り着いた時、郁夫は既視感を覚えた。
「あれ? これも夢で見たっけ?」
違う。実際に、ここに過去にも来たことがあるのだ。
記憶がフラッシュバックする。郁夫は幼い頃、母に連れられて、この研究所を訪れたことがあった。母、好恵は、元々は繁幸の部下として働いており、共に研究をするうちに二人は結ばれた。その後、郁夫を出産する際に好恵は退職し、専業主婦となった。そういった経緯もあってか、母は研究所を訪ねることに抵抗がなかったらしく、父の働きぶりを見せるためだけに、郁夫を何度かここに連れてきたことがあった。
闇雲に走るのをやめ、当時のことを思い出しながら廊下を進む。確か、こっちが出口だったはずだ。そう考えながら次の角を右に曲がると、想像通り、そこには大きな鉄の扉があった。すぐ横に警備室があるので、間違いない、外へ通ずる道だ。
記憶が鮮明に蘇る。郁夫は、少しばかり来た道を戻り、身を隠した。
その扉はオートロックになっており、解錠するには警備室の中から操作をしなければならない。薬物の持ち出し禁止を徹底するため、警備員が許可しない限り、外に出ることが出来ないのだ。幼かった頃の郁夫でさえも念入りに身体検査を受けたほどだ。当然ながらパジャマのような服装をした尖がり頭の人は外に出してもらえないだろう。
警備室には二名の警備員がいた。姿こそ確認できるものの、分厚い窓ガラスの向こう側にいるのでタマネギガスを浴びせることは無理そうだ。部屋の入口には頑丈そうな扉があり、不意を突いて急襲することも難しいだろう。おびき出すにしても、一人に籠城されてしまったら、その時点でゲームは終了だ。室内に侵入する、それが、脱出をするための最低条件となっている。
悩んでいる時間はない。いずれ追手がかかる。郁夫は、役立つものはないかと、辺りを見渡した。そして、一つの考えが閃めいた。
急いで警備室の隣にあるトイレに飛び込み、便器のタンクを足場にして、天井にある換気扇を力任せに取り外す。そこに出来上がった穴に頭を突っ込んでダクト内部を確認すると、思った通り、人が通れるほどのスペースがあった。あいにく、途中には風量調節用の開閉弁があり、屋外あるいは別区画への移動は出来そうにない。ただし、警備室から漏れる光は見えているので、そこへの侵入は可能だろう。
郁夫はさっそくダクトの中に潜り込んだ。埃が堆積しているが、気にしている場合ではない。ハリウッド映画の主人公よろしく、警備室を目指して這いずる。
目的の場所に着くと、換気扇のファン越しに室内を覗くことが出来た。警備員達は呑気にお茶を飲んでいる。郁夫は、トイレの時と同様に換気扇を取り外そうと思った。しかしすぐに考えを改めた。もし換気扇を外す過程において警備員達に逃げられでもしたら、外へ通ずる扉を解錠することが出来たとしても、今度は、警備室に閉じ込められてしまう可能性が生じる。願わくは、姿を晒さずに警備員達を倒してしまいたい。
そこで試しに、室内に向かってフーッと息を吐き出してみる。すると、声が聞こえた。
「なんか、くさくないか?」
「ああ、タマネギのような臭いがするな」
上手くいきそうだ。このままガスを送り続ければ彼らを倒せるだろう。
ところが、想定外のことが起こった。
「ちょっと換気扇を付けてくれ」
「分かった」
目の前のファンが回転する。突然のことに郁夫は驚き、思わず声をあげてしまった。
「アバババババババ……」
もちろん警備員達は不審な声を聞きつけ、警棒を構えて換気扇に近付いてきた。
「そこに誰かいるのか!」
そんな問い掛けをされても返事をするわけにはいかない。
どうすれば良い。どうすれば良い。思考が空回りする。急いで決断をしなければ通報をされてしまうかもしれない。全身から冷や汗が滲んだ。特に手汗が酷かった。滲んだというより、流れ出していた。落ち着け自分。そう願いながら拳を強く握り締めると、ますます手汗は溢れ出し、やがて、ボタボタと音を鳴らして室内へと落ちていった。
直後、悲鳴が聞こえる。
「ギャフゥゥゥンッ!」
「目がぁ、痛いぃぃぃ!」
あわせて人が倒れる音も聞こえる。どうやらタマネギ男の汗は、揮発性の高濃度タマネギエキスのようだ。思い掛けない幸運に恵まれ、郁夫は危機を乗り越えられた。
換気扇を取り外し、室内に飛び降りる。警備員達はミイラのように細くなって気を失っていた。このまま放っておくのは気が引けるが、そうも言ってはいられない。急いで解錠しなければ。
廊下に面した窓に向かうと、壁面にモニター付きのインターフォンが備え付けられていた。そして、そのすぐ下に『解錠』と書かれた赤いボタンがあった。目的とするものはこれだ。郁夫はすかさずボタンを押した。ピー、という電子音が鳴り、続けて室外から、カチャリ、という音が聞こえてくる。これで外へ逃げられる。
郁夫は急いで警備室から廊下へと躍り出た。その時、複数の足音が近付いてきた。
「いたぞ!」
見ると、防護服を着た二名の研究員がこちらに向かってきていた。ガスマスクを装着しているので顔は確認できないが、声と、ふらついた足取りから、鈴木アンド田中だということが分かる。
「タマネギ君、待つんだ!」
待てと言われて待つほどお人好しではない。郁夫は扉を開け放ち、屋外へと逃げた。
陽射しが目に突き刺さる。いまは昼間だったようだ。久しぶりに見る陽の光に少し狼狽えながらも、郁夫は足を止めず、勢い良く走った。
瞬間、背後から声がした。
「もぉぉぉ、くっさぁぁぁい!」
懐かしい声。郁夫はすぐさま振り返った。
「美佳ちゃぁぁぁんっ!」
「長沢先生、そこにいるの? 目が痛くて開けられないんですけどっ!」
私服姿の美佳が両手で顔を押さえ、怒鳴っている。大層ご立腹の様子だ。だが、久しぶりに知人の顔を見ることが出来た郁夫は、両腕を広げ、喜びを露わにした。
「お、俺は、俺はここにいるよ。美佳ちゃんの先生はここだよ!」
「なに言ってんの! くさいから近付かないでよ!」
近付かないで、と言いたいのは郁夫のほうだった。美佳の背後に鈴木だか田中だかの姿が迫っていたのだ。
「美佳ちゃん! そこの人がガスマスクを貸してくれるってさ!」
咄嗟にそう叫ぶと、美佳は、「え? え? え?」と言いながら手探りで研究員の被るガスマスクを見つけ出し、それを迷わず引き剥がした。
「ありがとうございます。お借りしますね」
「ノオォォォ!」
その叫び声は鈴木のものだった。鈴木は、ゆっくりと地面に崩れていった。
「なに、この状況!」
ガスマスクを装着した美佳が、目の前の惨劇を見て動揺している。
郁夫は説明をする時間はないと考え、とりあえず適当なことを言った。
「美佳ちゃん、とんでもないことをしちゃったな! 逃げないと大変だぞ!」
「は? 先生のアドバイスに従っただけでしょ!」
「とにかく逃げようぜ!」
目的地を定めないまま、郁夫と美佳は、駆け出した。